2013年8月26日月曜日

自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで





私が『奇跡のリンゴ』で有名な木村秋則氏のことを強く意識するようになったのは、氏に一度ぜひお会いしたいと言っていた田尻悟郎先生の影響です。そんなこともあって『生徒の心に火をつける 英語教師田尻悟郎の挑戦』のエッセイでは私は庭師メタファーを使って田尻先生のことを説明しようとしました。











さて、この杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』(幻冬舎新書)は、2003年に木村氏と出会いそれ以来氏のリンゴ園を植物生態学者として観察している杉山修一先生(弘前大学農学生命科学部・生物学科)による「自然栽培」のわかりやすい解説書です。私は「教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」「農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?」など短い記事も書き、この方面への興味関心が高まっていたので、この本を町の書店で見つけてすぐに買い求めました ― 私は英語教育を説明するためにいろいろな領域をアナロジーやメタファーの源として使用していますが(参考「実践者として現場で考えるための方法論」「想像力と論理力の統合としての思考力について」)その領域の専門家ではありません。ただでさえ精確さを欠くといわれるアナロジーやメタファーを使う以上、せめて素人なりにでも少しはアナロジーやメタファーの源となった領域のことについては学ばねばと思っています。ただし「生兵法は大怪我のもと」ということばも忘れないようにしています―。

ここでは私なりにこの本をまとめます。といいましても、私はきちんとした自然科学のトレーニングを積んでいませんし、私の関心はもっぱら英語教育ですので、このまとめは不正確で歪んだものになっている可能性が十分にあります。ご興味をもった方は、必ずご自身で本書をお読みください。(もし、専門家の方がこの記事を読むことがあれば、ここにある誤解や間違いをご指摘いただければ大変に助かります。私は間違った情報を普及させたくはありませんので)。









■ 慣行栽培に至るまで

この本のテーマである「自然栽培」を理解するためには、その前に、現在の私たちが「これこそが農業」と信じて疑わくなった近代的な「慣行栽培」について理解しておく必要があります。慣行栽培の技術は、ごく単純にまとめるなら以下のような経緯を経て開発されてきました。

・近代的慣行栽培以前

ギリシャ・ローマ時代は2年1作が一般的。中世ヨーロッパでは有畜農業でムギと飼料用作物を交互に輪作し家畜の糞尿を堆肥として使う一方飼料作物(クローバ)で土壌の窒素を回復させていた。(29-30ページ)

・近代的な慣行栽培の始まり

19世紀半ばには窒素肥料が工業的に生産され(化学肥料)、19世紀末には農薬も使われるようになった。(31-32ページ)

緑の革命による飛躍的な収穫増

1950年代に、化学肥料製造法の発明、(化学肥料に適した)作物品種の改良、病原菌・害虫・雑草防止のための合成農薬の開発、灌漑などの農地整備などによる「緑の革命」がおこり、収穫高は有機農業時代の5倍になった。今は、もっぱらこの近代的方法を「慣行栽培」と呼ぶ。(32-34ページ)

・化学肥料の限界 

化学肥料の効果は数年間で悪くなることが多い。(81-82ページ)

このように、慣行栽培には収穫増大や(後に述べますように)マニュアル化が可能といったメリットがありますが、デメリットとしてはしばしば、単一作物を効率よく栽培(=「モノカルチャー」)しようと化学肥料と合成農薬を大量使うことにより、生物多様性が損なわれ病虫害にかえって弱くなることや、農業者の暮らしが市場の動向により左右され特に国際市場での動きにより零細農家が生き残れなくなるなどがあります(化学肥料・合成農薬を大量に使用する近代的な慣行栽培は、ほぼ単一栽培(モノカルチャー)とならざるを得ないのではないかと私は考えています)。



■ 慣行栽培、有機栽培、自然栽培、放置栽培

そのような化学肥料と合成農薬に依拠する慣行栽培に対する反省として出てきたのが有機栽培(有機農業)です。杉山先生は、自然栽培を、慣行栽培と有機栽培そして何もしない放置栽培と対比させて説明します。ここではその説明を私なりにまとめなおした表を提示します。



以下、簡単な説明を、本書を参照しながら加えます。

・慣行栽培も有機栽培も生産者中心

「慣行栽培、有機栽培ともに、生産者がゲームの主要なプレーヤー」(43ページ)だと、杉山先生は説明します。

・自然栽培と放置栽培は生物中心 

自然栽培と放置栽培では生産者ではなく生物が中心となります。杉山先生の「プレーヤー」の比喩(サッカーを思い出してください)を続ければ、自然栽培では、栽培地に住むすべての生き物がプレーヤーとなり、生産者はプレーヤーをやめ監督としてゲームに参加します。放置栽培は、生産者は監督としても参加せず、種をまいたら栽培地をほったらかしにするものです(42-43ページ)。(放置栽培を農業として行うことは現在ほとんどないかと思いますが、自然栽培を説明するための対比概念としては有効だと思います。

・自然栽培をするためには生態系の丹念な観察が必要

サッカーの監督に経験とゲームに対する深い知識が必要なのと同様に、自然栽培で生物を中心に作物を栽培しながらもできるだけ望ましい結果を得るには、相当に深い知識が必要です。「奇跡のリンゴ」の木村さんは、わずか3年間で自然栽培に成功しましたたが、この背景には慣行栽培から移行した有機栽培で8年間絶望的な失敗を続け、その間にリンゴ園の生態系を丹念に観察した知識と経験がある(45-46ページ)ことを忘れるべきではないでしょう。

・人間による適度な「攪乱」で里山は保全されている

撹乱とは生態学の専門用語で、突発的生物の一部あるいは全体が破壊されることを意味するが、日本の里山は人間が適度に攪乱することで維持してきた生態系である。里山では人間が森林では薪を採ったり草原では火入れや刈り取りをしたりして攪乱を頻繁に起こし、里山が森林に移行することを抑えてきた。(90-91ページ)

以上を踏まえて私なりに補足しながらまとめますと、自然栽培とは、農業者が化学肥料や合成農薬を使わずに、その場の生態系を丁寧に観察しながら適度に撹乱を引き起こし、その場にいるすべての生物(「生物群集」-植物、動物、菌類、原生生物等々)の相互関係的な力により特定の作物を栽培する方法といえるかもしれません。



■ 生物の力

・植物-土壌フィードバック、生物間相互作用ネットワーク、植物免疫

自然栽培とは「生物の力を利用する農業」と説明できるが、この場合の「生物の力」とは主に「植物-土壌フィードバック」(plant-soil feedback)、「生物間相互作用ネットワーク」、「植物免疫」の三つがある。(46-47ページ)



■ 生物の「競争」

「競争」ということばは教育界でもしばしば使われますが、ここでは生態学での「競争」の意味を確認します。

・生物間相互作用としての競争

生物の競争は、四つの主な生物間相互作用(競争、捕食、寄生、相利)のうちの一つである。(51ページ)

・「競争排除」とニッチ分化による共存 

同じニッチをもつ種は必ず競争し、その結果勝者と敗者に分かれて共存は不可能となるが(「競争排除」)、環境が複雑になると生物種は他の生物種との競争を避けることができる独自のニッチを見出し(「ニッチ分化」(niche differentiation))共存が可能になる。(55-56ページ)

・ニッチ分化と生態系資源の有効利用

ニッチ分化が進むと、多様な種の共存が可能になるだけでなく、生物群集全体が生態系の資源をより効率よく有効に利用するようになる。(62ページ)

ここから杉山先生ご自身が、生態学的な「競争」から人間社会の「競争」について考察を展開します。

生態学の研究が示すのは多様な環境の重要性です。生物は競争があることで多様な環境の中に自分に適した環境を見つけることができます。

競争は敗者を排除するプロセスではなく、多様な環境の中にそれぞれの生物の居場所をつくり出すプロセスといってもよいかもしれません。

つまり適者生存ではなく適材適所をつくるのが競争の役割です。

人間社会での競争による格差は、競争が原因というより多様な環境条件が欠如しているところに問題があるのではないでしょうか。(69-70ページ)


生態学での競争は、生物の「」の間の競争であり、人間社会の競争は人間という種の中での競争という違いはありますが、そこを敢えて無視してアナロジーを進めて私の考えをわずかに付け足しますと、人間社会の競争も、単一条件の中だけで個々人を競わせて勝者と敗者を作り出すような競争よりは、異なる種類の多くの条件を作った上で個々人を競わせてそれぞれに自分に最適な場を見出させ、それぞれがその他の場の人々と相互作用して社会全体が豊かになるような競争であった方がいいかとも思えます。

教育というのは、競争を制度的に作り出す機関でもありますから、「競争」をどう考えるかというのが非常に重要になります。

教育における競争は、もし設けるなら、多元的で多数の競争であるべき、という考えはしばらく私の仮説として抱き続け、私なりに人間社会の観察を続けたいと思います。



■ 分子生物学と生態学

・慣行栽培と自然栽培の違いは、分子生物学と生態学の違いに通じる

慣行栽培と自然栽培の考え方は根本的に異なりますが、この違いは分子生物学生態学の違いに相当します。分子生物学と生態学の代表的研究者として、1956年から1976年までハーバード大学の生物学部門に在職していたジェームズ・ワトソンエドワード・ウィルソンを挙げることができます(140-145ページ)。











分子生物学と生態学の対立の重要な側面は、(単純化がすぎるかもしれませんが)還元主義 (reductionism)全体論 (holism)の対立と言い換えることができるかと私は思っていますが、現代は還元主義の方が強すぎるように思えますので、生態学や全体論発想を大切にしたいと思います。



考えてみたら、「生態学」という用語はベイトソンギブソンLeo van Lierも使っています。私はこれらの研究者の著作に惹かれながらもまだきちんと勉強していませんでしたが、これらの著作の読解も生態学の理解と共に進めてゆければと思います。













■ 慣行栽培と自然栽培

・慣行栽培の詳細なマニュアルと自然栽培の要点の手引き

慣行栽培はトップダウン型システムの特徴をもち、栽培マニュアルに従って作業をすることで大きな失敗をすることはなくなります。他方、自然栽培はボトムアップで分散型システムの特徴をもちます。それぞれの土地によって異なり、時期によっても変化する多様な生物を相手にするからです。自然栽培では生産者の判断や能力が格段に重要になります。細かいマニュアルを作っても多様性や変化に対応できないわけですから、自然栽培では要点を書いた「手引き」を元にして後は農業者が観察を重ね適切な判断をすることが大切になります。(152-153ページ)




教育も自然栽培のように、一人ひとりの学習者(種)が学級・学校・地域社会という時空(生態系)で自分らしさを発揮できる場所(ニッチ)を見つけることを願い、それぞれがニッチで活躍しその活躍が他に伝播し相互作用が豊かに発展することを望むべきではないでしょうか。しかしそうなると教師は一人ひとりの学習者、学習者間の相互作用、さらには学習者以外のさまざまな要因(当該種以外の生物群集)との相互影響関係をきめ細かく観察し、適宜介入をして(撹乱)はその結果をさらに観察し、教師としての判断力と実行力を上げなければなりません。

自然栽培的な教育には長年の経験とその省察が必要です。マニュアル式の教育 ―学習者の個性を観察することなく、トップダウンに伝えられた教師中心のやり方で教え、 外発的動機づけといった化学肥料も使う方が楽です。

しかし、そういった学習者の個性を軽視し、一律に化学肥料と合成農薬 ―外的報酬と懲罰― で学習を促進させようとする教育は、学習者の潜在力を枯らし、年々と学びをやせ細らせ外的報酬と懲罰の効果も小さくし、学習者の中に学習を妨害しようとする動きを招いているのかもしれません。

マニュアル式の教育は、教員養成の点でも学習成果の点でも短期的にはうまくいっても、長期的にはうまくいかない方法ではないかと疑ってみることは必要ではないでしょうか。現在の私たちが、慣行栽培こそは農業と信じて疑わないように、トップダウンのマニュアル式教育こそが教育と私たちは思い込んでいないでしょうか。

しかし私は、冒頭にあげた田尻悟郎先生(参考:草稿:何がよい英語教師をつくるのか ―田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み―)や菊池省三先生、あるいは他のすぐれた先生方の実践を見ることにより、すぐれた教師 ―学習者を自律的にし、教師自身が驚くような学級集団を作り出す教師― は、生態学的なアプローチをとり、自然栽培的といっていい教育を行っていると考えるに至りました。

たしかに自然栽培的な教育には、長年の苦労から生まれる知恵が必要ですが、それだけにこのような教育をする教師には、教師であることの主体性と喜びが強く感じられます。教師がマニュアルを常に押し付けられ、そこから逸脱することを許されないなら、教師としてのやり甲斐は失われるでしょうが、一人ひとりの学習者を活かし他にはない学級集団を作り上げる教育を目指すなら苦労と共に深いやり甲斐が得られます。

少なくとも西洋近代化以前の日本では、学習者(弟子)の個性だけでなく、教師(師)の個性も地域の特性も活かした教育が行われていたと考えられます(「辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)」)。

私たちはもっと近代的な常識を疑い、脱近代 (postmodernity)、あるいはもう一つの近代 (altermodernity)を目指すべきではないでしょうか。





いや、いつも以上に与太話が過ぎました。

解毒の意味も込めて、先ほど大学生協書籍部で見つけて買った『森の力 ― 植物生態学者の理論と実践』のカバーに書いてあったことばを引用します。私もしっかりと学びの現場を観察しなければ。

若き日の師の教え

「お前はまだ人の話を聴くな。誰かが話したことの又聞きかもしれないぞ。お前はまだ本を読むな。そこに書いてあることは、誰かが書いたやつの引き写しかもしれないぞ。話はいつでも聞けるし、本はいつでも読める。大事なことは、部分的あるいは結論めいた話や本にあるのではない。

(中略)

見たまえ、この大地を。見たまえ、この自然を。ホンモノのいのちのドラマが目の前で展開しているではないか。

(中略)

お前はまず現場に出て、自分の身体を測定器にすればいいのだ。現場で、目で見、匂いを嗅ぎ、舐めて、触って、調べろ」 (本文では47-48ページ)








このような文章を、自ら実践する前に引用するとはバカの極みですが、それこそは私にふさわしい文章の終え方なのかもしれません。お粗末。













2013年8月23日金曜日

農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?



私たちの「常識」とは、古来のものでなく、存外に近年に急速に作られたものであることは珍しくない。

この本(下記参照)の原著者であるJules Prettyが述べているように、人類の35万世代は狩猟採集民で、600世代は農民だった。いくつかの地域ではここ8~10世代が産業化を経験しているが、農業が工業化されてしまったのはここ2世代のことに過ぎない(訳書27ページ。以下、引用はすべて訳書から)

しかし私たちの多くは、工業化された農業こそを農業だと信じて疑わない。ある特定の作物を、化学肥料や農薬を使いながら大規模かつ効率よく集中的に収穫することこそが農業だと考えている。さまざまな作物を自給自足のために小規模で育てる営みなどは、時代遅れで滅びても仕方ないとすら時に考える。農業振興とは、農業にどんどん資本が投資され、農家がより多くの現金を手に入れることだと考える。農業の株式会社化のどこが悪いのかといぶかる。


だが、誰だか忘れてしまったが、ある農業者は言っていた。

土地がやせることもなく、毎年一定の収穫があることを農業では安定という。

だが、経済学者によれば、これは停滞らしい。


工業化し投資の対象とすらなる農業は、わずかここ数十年の営みに過ぎない。

それ以外の時代には、人間は自然との循環関係、つまり維持可能な共存共栄の関係で生きていた。というより、人間は自然の恵みにより生きることができるのだから、自然に感謝し自然を損ねることは避けなければならないというのが、人間の知恵だった。

もちろん農業の工業化(さらには投資対象化)にもそれなりの長所はある。収穫量の急激な増大である(179ページ)。だが、これは農薬使用の増加も招いている。「病害虫」は単一作物栽培(「モノカルチャー」)で蔓延する。農地の生物多様性が失われ、餌が豊富にありながら、天敵がいなくなるからだ。しかも農薬抵抗性も発達するから必然的に農薬は効かなくなる(158ページ)。さらに強力な農薬を使うなら、それは生物多様性をいっそう損ねてしまう。

また、農民もモノカルチャーで自給自足の手段を奪われると同時に、単一作物は市場の価格変動にさらされ、貧困化しかねない。自給自足型農業ならあまり現金を使わずともそれなりに豊かな暮らしができたものの、モノカルチャー型農業なら、多くの借金をして機械や化学肥料や農薬を購入しつつも、市場次第では多くの現金収入が見込めなくなる。

農業の工業化は正しい選択だったのだろうか。農業を投資の対象とすることは正しいことなのだろうか。短期的にでなく、長期的に考えたい。

私たちは、「合理性」や「効率性」といわれればほぼ無批判的にそれらを肯定する。そのためには「標準化」や「単一化」が必要といわれればそれもそうだろうと首を縦に振る。「多様性」や「多元性」と聞くと、なんだか青臭い概念のように思ってしまうし、「一つ一つの質は異なる」とか「数値に還元できない」などと聞くと、現実を知らない夢想家のことばのように思う。合理性と効率性を求め、物事を標準化し可能な限り単一化した上で、大規模に事業を促進し、金銭でその報酬を与えることを疑おうともしない。

だが、それはここ数十年で急速に加速した発想に過ぎない。今は、それを批判的に吟味することが私たちの歴史的課題なのではないか。

著者は言う。

世界は多様性に満ちあふれ、限定された条件下にあり、各場所に応じた多様なアプローチが必要だ。この考え方は、標準化によって産業開発を進めるアプローチとはそぐわない。近代主義は、単純化と効率化をめざしてつき進む。技術的な解決策は普遍的なものだし、社会的な状況には依存しない、と中央で決めてかかる。(249ページ)
近代主義思考は、必然的に、社会や自然に対するある種の尊大さへといきつく。地元の現場状況は複雑だし、机上で描けるほどきれいではない。だが、近代主義思考は、こうした地元状況とは切り離し、人々と相談せずに壮大な計画をたてることを可能にする。そして、近代化は、新たな秩序を構築するため、時代をかけて蓄積されてきた混沌とした地元の慣習や多元的な機能を一掃することに力を注ぐのだ。これは、歴史的な制約から自由になって、秩序や自由をもたらすものとみられるが、単純化された規則や技術では適切に機能するコミュニティを育むことはできないし、見落とすものがつねにある。残念なことに、20世紀の間に私たちは、自然とコミュニティとのバランスを大きく崩してしまった。今私たちは、世界をつくり変えることで、新たなバランスを見出す必要がある。(250-251ページ)


かくしてこの本は、世界中のさまざまな地域で試みられ成功を収めている、前近代的あるいは脱近代的な農業 ―持続可能な有機農業(=農場を構成する土壌、鉱物、有機物、微生物、昆虫、植物、動物、そして人間を、互いに影響しあって安定した全体を創出している有機体として考える農業。198ページ)を紹介する。定年退職後は晴耕雨読で自給自足に近い生活をしようと思っている私は本書を面白く読んだ。


だが、読むにつれ、農業と教育を重ねて考えずにはいられなかった。


教育も工業化されていないか。投資の対象にすらなろうとしていないか。


「学者」は 、ことに「英語教育学者」は、学習者も教師も単一的にとらえ、地域や学校のさまざまな事情を排除すべきノイズとして考えて、机上で描いた「合理的」で「効率的」な計画を押し付けようとしていないか。そして一部では飛躍的な成果を上げながらも、他の多くの人々の学びを根底的なところで損ねていないか。

さらには、技術的知性ばかりを洗練させ、人々の営みから遊離してしまった知を「科学」と詐称していないか。そしてそのような知を操り、肩書とそれに伴う(わずかな)利権を得ることを「偉い」ことと思い込んでいないか。そして学びの多様性や持続可能性を訴える人々を鼻で笑おうとしていないか。


教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」でも書いたし、「Critical Applied LinguisticsとAlternative Approaches to SLAを学んだ学生さんの感想」でも学生さんが書いてくれたが、私たちは自分たちが正しいと信じて疑わないことつまりはイデオロギーについて批判的である必要がある。

私たちが、正しいと自覚・自認することすらもなく、それについてまったく思考停止してしまっている信念は、私たちの長期的な災厄の源になりうる。


*****


ジュールス・プレティ著、吉田太郎訳(2006)
『百姓仕事で世界は変わる ― 持続可能な農業とコモンズ再生』 築地書館







Jules Pretty (2002)
Agri-Culture: Reconnecting People, Land and Nature. Routledge






追記(2013/08/26)

私のSNSにある方が上の記事に対して以下のコメントをくださいました。ご本人の許可を得ましたので、ここに転載します。

「このやり方なら、だれでもできる」という普遍的あるいは魔法のような方法が本当に可能なのか。農業のことは分かりませんが、子育てにそんな方法はないと断言できます。
もう随分昔から、子どもたちの世界は大人の欲得にまみれてしまっていると感じます。子どもを消費者としてターゲティングするということです。そしてそのことに気がついている子どもは結構多くいます。それを逆手にとって、大人をやり込めます。崩壊学級を目の当たりにしたときに感じたことです。
大人たちから「できる」「できない」でふるいにかけられる一方で、一個の消費者として利用されることに、子どもは深く傷つけられているのではないか。
投資は悪いことではありません。ただ、教育も農業もその対象は生きていて、多様性に満ちているのですから、そのことを許容してあげなくてはいけないと思っています。効率的な投資とはなじまないですね。
先生のブログから、こんなことをつれづれに考えました。

2013年8月22日木曜日

Critical Applied LinguisticsとAlternative Approaches to SLAを学んだ学生さんの感想



前期の大学院(M1)の授業について、何人かの学生さんが感想を書いてくれたので、それをそのまま掲載します。授業では、Pennycook (2000) Critical Applied Linguistics (Routledge)とAtkinson (2011) Alternative Apporoaches to Second Language Acquisition (Routledge)を読みました。前者はCALx、後者はAASLAと略して呼んでいましたので、以下にもこの略号が出てきます。大変だっただろう授業についてきてくれた、院生の皆さんには感謝します。





YK君


授業全体を通して、私が学んだことを大きく2点あげると

1.「多角的な視点を得たこと」

2.「自分の日常に落として考えること」

の2つです。CALxであれAASLAであれ、本授業を通して、これまで私が当然だと思っていたこと(イデオロギー)を別な視点から再度考察する機会となりました。さらには、読書や先生のお話を通して得た概念を知識として留めておくだけではなく、生活に当てはめて考えることの大切さを経験させて頂きました。こうすることで、頭の中にどこかふわふわと浮いていた理解を、具体的なものとすることで、より地に足ついた解釈ができるようになった実感があります。

「多角的な視点を得たこと」

 結局のところ、ある一つの手段が全ての課題を包括的に解決するなんてことはなく、状況に応じて、様々な選択肢のメリット・デメリットを考慮した上で、バランスをとった意思決定をしようとする姿勢を持つことが重要だと言えるかと思います。そうした判断をより適切に行うためには、多角的な視点から情報を得たうえで、物事を捉えることが有益です。しかし、この授業を受ける前の私は、視野の狭い世界から物事を捉えていました。SLAについての捉え方を例に取りたいと思います。  

 私は学部3年生からSLAという分野について学んできました。そしてその学習で得たもののほとんどはCognitive Approachesを採択した研究に根付いた知識でしたし、それが"SLA"なのだと思い込んでいました。もちろん、これまでの研究は第二言語習得の一体系を明らかにする貴重な結果を残しており、その礎の上に私は研究をしているわけですから、全てを否定するつもりは全くありません。しかし、どこか現実離れした実験環境を生む研究手法や、過度の一般化(十数人の実験協力者で得られた結果からの行き過ぎた主張等)、またはそれらを基にした"効果的"と呼ばれる教授法等をこれまで鵜呑みにしていた自分を恐ろしく感じました。Rod Ellisが言っているのなら、Larsen-Freemanの論文ならと、あらゆる権威に対して批判的な目を向けず、ある意味家畜のように(言い過ぎ?)従っているだけだったのです。  

 こんな私にとって、特に今回の授業で印象に残っているのが、AASLAでのAlternative Approachesの存在です。従来の量的な研究から脱却し、観察やインタビューを通して質的に第二言語習得を捉えていくという観点は、個の要素を排除しないため、その実験協力者数は量的研究に比べ少ないにしろ、結果がより現実を反映したものとなる可能性を高めます。将来教員を志す私個人の感覚としては、クラス全体のテスト点数の傾向だけを見て指導を進めるスタイルよりも、生徒一人ひとりの性格や教室の環境を考慮した上で授業を考案していくスタイルのほうに魅力を感じます。なぜなら、後者のほうが、実際に授業を進めている自分や授業の雰囲気、「あの生徒にこの発問をふればうまく授業が盛り上がるだろう」といったことを、授業前に予測しやすくなると感じるからです。また、生徒個人を深く理解することは、授業だけでなく、生活指導・進路指導・家庭との連携等、他の様々な面でも必要とされることだからです。  

Alternative Approachesと向き合ったことは、これまで私がSLAに対して持っていたイデオロギーを崩し、別の視点から自分の研究を見つめなおすことにも繋がりました。第二言語習得研究の方法論を説く概説書を読んでも、その多くが量的な研究を主に紹介しており、その道をゆくことが王道だと思い込んでいた私にとって、質的研究の意義と可能性を示唆して頂いた本授業は、本当にありがたく、有益なものでした。院生活のはじめの時期にこうした視点を得られたことを、心底嬉しく思います。感謝申し上げます。

「自分の日常に落として考えること」

 これまでの私の学習スタイルは、授業中に出てきた例で表現すると、「点の学習」(個々の要素をバラバラに頭のなかに入れる学習)でした。しかし、思考するためには、「線(面)の学習」(個々の要素の関連の理解、さらにはそこから推測されること等に焦点化した学習。思考の訓練・土台となる。)が求められることを学びました。本授業過程の途中でこの考え方を知り、実際に予習をする中で知る概念を関連付けようと試みました。しかし、一つの概念に対しての理解が曖昧なまま他の概念と結びつけようとしても、うまくいくことは少なかったです。そこでその解決策として、思考を日常に落とし、一つ一つの概念を生活の中に当てはめていくメソッドを授業で学びました。こうすることで、概念解釈がより深く身近なものとなり、他概念との関連が構築しやすくなったと感じています。一つのことに対して充てる時間は少し多くかかりますが、これまでその手間を省いて非効率な時間の使い方をしていた以前の"学習"と比べれば、こちらのほうがより本来の学習と呼べるでしょう。  

 一つのことを深める術を知っていれば、そのノウハウを別のことに活かすことが可能です。例えば、ラグビー、バドミントン、ギター、バイト、麻雀等をそれぞれに突き詰めてきた友人の素晴らしい思考は、ある分野のノウハウを今回の授業に生かした成果と言えます。「表面的な学習に終始して何も残らなかった」では、せっかく院に来て2年も時間を与えられた身としてはあまりに悲惨過ぎます。これからの一つ一つの学習を深めることを大切にしていこうと、決意を新たにしています。





SS君


この授業を終えて、今CALxやAASLAを見ずに思い出せるのが以下の概念です。これらの概念については、自分なりにある程度理解していると思っています。

critique of pure reason / politics / power / intuition / epistemology / symbolic capital / voice(フレイレ) / self-regulation / dynamic assessment / complex systems

今ここに出てこない概念については、原書や授業ノートを読めば思い出すものが多いです。しかし、それらは腑に落ちて理解していないということかなと思います。

 これらの概念の理解に共通している要因は、  

①日常に落として自ら考えた

②他のM1生の予習・復習・発言に理解を助けられた

③授業中に先生が内容を扱ってくださったことと、ディスカッションを行ったこと


という3点ではないかと思います。

 ①点目に関しては、学部生の頃から先生に教わってきたことですが、今ようやくその習慣が身につきました。この授業の予習・復習はもちろん、N先生の授業・研究・部活中・友達と話すときでさえも、できるだけ自分の日常の中で考えるようにしました。その結果、今までの学習の部分部分がだんだんと統合されていく感覚を最近感じています。最後の授業の感想で「初めて勉強をしているような感覚」と申したのは、あらゆる学習が統合されていったということを意味しています。しかし、「今」の自分で深く理解し、思考し、統合させていくといった作業がまだ甘いとも感じているので、今後もっと思考力を磨いていく意志をもって院生活に臨みます。

 ②点目の「他のM1生の予習・復習・発言に助けられた」ことに関しては、M1生がいろいろな趣味をもち、それを授業内容に盛り込み、皆の理解が深まっていったことがすばらしいと思います。例えばA君はラグビー、B君はユニクロとギター、C君は麻雀…など、さまざまな視点から話を聞くことができました。皆予習・復習で、ある程度量を書いてくれるので、読んでいて楽しめました。自分も「適当なことは書けない」という思いでWebCTの投稿をした(ことがほとんどでした)。

 ③点目の「授業中で先生が内容を扱ってくださったことと、ディスカッションを行ったこと」に関しては、15回の授業全て、足りない思考力をフル回転させて臨みました。内容の難しさもありますが、先生の話すスピードが速いのと、ディスカッションや発言の機会が多いので常に思考し続けられました。先生の授業の速度はわたしにとって心地よく、思考を続けるのに適度なスピードでありました(ごくたまに置いていかれました)。ディスカッションに関しては、授業という形式ではよくわたしを含め生徒はListenersになってしまいます。しかし、ディスカッションや発言機会の多さによって、この授業では常にparticipantsでいることができました。こういったことがあって、授業を通して思考を続けられたのだと思っております。

 以上3点が、わたしが新たな概念を獲得すること、あるいはきちんと思考する訓練につながった要因でした。こういったことを残りの院生活で継続・発展させていきたいと思います。

短い感想で申し訳ございません。この授業を院の1期目で受けられて本当に幸運だと思っております。夏休みは遊びに没頭することなく、研究を進めることを中心に思考し続けようと思います。来期もよろしくお願いいたします。





UK君


この授業で一番参考になったのは、『「ある」ものから「ない」ものを考える』という、思考の手順について教わったことです。以下では、①「ある」ものについて深く考え②そこから「ない」ものを生み出すことについて、自分の専門であるラグビーのコーチング、そして少しではありますが、英語教育と絡めて書きたいと思います。

まずは思考の最初の段階である、①「ある」ものについて深く考えることについて書きたいと思います。プロのでも学生のでも、ラグビーの試合を見るときに重要なのは、対戦チーム同士が何に意図的にこだわっているかに気づくことです。これはあらかじめ対戦チームに関する情報を仕入れておくことによっても可能ですが、前情報が無いチーム同士の試合を見る場合は「繰り返されているプレー」に着目することです。その内容は、チームとしてのボールの動かし方の順番のように大きな枠組みの場合もあれば、特殊なタックルの仕方のように小さい枠組みの場合と様々なものがあります。(逆に、これらのようなこだわりが見られなければ、そのチームの監督は自身の経験と精神論だけに基づいて、オーソドックスで無意図なラグビーを指導しているということです。)繰り返されているプレーには必ず意図があり、そこには必ずある程度の原理・原則が根底にあり、プレーヤーたちはそれに基づいてプレーを行っています。

そして、意図的にこだわっている部分が見えて来たら、それらのプレーがどういう原理・原則に基づいて組み立てられているのかを、自分の既存の知識をフル活用させて考えることが重要です。例えば、ボールの動かし方の順番のこだわりを見て、それがどんなプレーヤーの動き方の規則によって組み立てられているのかを試合を見ながら何度も何度も考え、各チームのこだわりの下にある規則に気づくことができます。多くのプレーヤーや監督は、この原理・原則を見つけ出す段階にいくことなく、イイ!と思ったプレーをそのまま真似するので、上手くいかないことがほとんどです。これは栗田哲也さんの言葉を借りれば、「基層」の段階まで掘り下げて考えることだと思います。

「ある」プレーのこだわりと、その基層について考えることができたら、次に②「ない」ものを生み出すことを考えなくてはいけません。まず、「ない」ものを生み出すには、自チームの基層を把握しておくことが大前提です。その上で、あるチームのプレーの基層と自チームの基層を重ね合わせて考え、自チームの基層のどの部分をどの程度変えれば、そのプレーを取り入れることができるか、そしてそれは自チームの他のプレーに対してどういう影響を与えるかを考えます。例えば、あるチームのボールの動かし方の順番を取り入れると自チームのボールを動かす順番はどう変わり、それによって現段階で決まっている各プレーヤーの動き方はどう変化するかを考えます。自チームの基層をどの程度変えれば、あるチームのプレーを取り入れることができるかを考えることができたら、ようやくそのための練習メニュー計画を作ることができます。そうした綿密な考えの末に、どこのチームでも無い、「あるチームのプレーを取り入れた新しい自チーム」を作ることができます。

ここで注意しておかなくてはいけないのは、この②「ない」ものを生み出すには程度の段階があるということです。例えば、既存のオフェンスとディフェンスのシステムから新しいシステムを生み出すという高い程度のものと、あるチームがこだわっているプレーの基層にあるものと、自チームのプレーの基層にあるものを重ね合わせて考え、あるチームのプレーをそのまま真似するのではなく、自チームの基層に少しの上乗せをすることで、あるチームのこだわりのプレーの自チームバージョンを作るという、低い程度のものがあります。

これを少し英語教育、特に英語学習材開発の分野と重ね合わせて考えたいと思います。 教科書やワーク等自分以外の誰かによって提供されている教材は、いかに優れているとしても「ある」ものに過ぎません。それらを説明書に書かれている通り(教科書に載っている発問等)に使用するのでは、「ある」ものに従っているだけで、要は英語教師でなくでもできることだと思います。

そうではなく大事なのは、いかに「ある」ものから「ない」ものを生み出すかだと思います。例えば、教科書に用意されているピクチャーカードをそのまま使用して単語の勉強をするのではなく、教師自身が日常で撮影した写真を使って教科書では出会わない単語を勉強したり、教科書に書かれてある時刻を使用して時間の表現を練習するのではなく、教師自身にとって思い入れのある時刻または生徒にとってのそれを使うことで、伝えたい気持ちを喚起させて会話練習をする等、いかに「ない」ものを使って授業をするかが大事だと感じます。柳瀬先生が先日田邊先生(専修大学)の実践として授業で紹介されていたone word dialogueなども、A:No? B: No.というセリフ自体は「ある」ものに過ぎず、そこに個々の解釈を交えることで「ない」ものへと変化します。

ここまで書いてきたことは一般社会では「オリジナル」という言葉に集約されているのかもしれません。しかし、その言葉の根底にあるのは、ここまで書いて来た思考方法だと思います。私はこの授業を通して、自分なりの「オリジナル」を生み出すには突発的に「オリジナルを生み出そう」と考えるのではなく、「ある」ものの基層について考え「ない」ものを生み出すという過程があるのだと知ることができました。この思考方法を知ることができたのは、これから先の自分にとって本当に大きいものになるだろうと感じています。





FT君


2013年度前期の言語科学特論Ⅰを受講し、私がこの授業を通して学んだこと、苦労したことを感想として述べたいと思います。

 私はこの授業を通して、少なくとも以前より「考える」ことができるようになったと感じています。これまで私の授業の取り組み方は、予習範囲を一度だけ読み、ある程度大意が把握できたらよしという感じでした。よく分からないところは周囲の情報(文脈や談話構成など)からなんとなく推論し、わかったと思っているところも具体的な例を出して考えたりして深く読みこもうとしていませんでした。そのためか、予習をWebCTに投稿するために予習範囲で考えたことを言語化する際に毎回「もっとうまい言葉にできないかなー」と考えていることを丁寧に伝えることができないことに葛藤を覚えていました。また友人の投稿を読み「身近な経験と照らし合わせて本をこんなに深く読み込んでいるのか」と感嘆すると同時に、自らの「しっかり読めていない感」に情けなく思ったり、授業中の討議で自らの発言の浅さに嫌気が指すこともありました。あるとき、自分は抽象な議論を具体的な例あげて考えたり、またその具体例が適切に抽象的、一般的な概念を示す例となっているのかというふうに具体と抽象を行き来することができていないと気づきました。これを意識するようになってから、多少自分の投稿や発言が自分の考えに似た形で言語化されていくようになりました。具体と抽象を行き来することは「考える」ことの一つだと思います。抽象的な話をなんとなく「こういうことね」と単に受け入れることは「考えていない」と今では実感しています。今は以前の私がしてきたようなただ読み、なんとなく理解するレベルの予習ではできない、充実した知的な活動をしているなと感じられるようになってきました。当たり前のことですが、この授業に限らず、常に「考えて」いける人間でありたいと思っています。  

 上記のように本授業は私にとって全ての基礎となるものを学べた非常に有意義な授業であったと思っていますが、苦労したことをあげるとするならば、予習に非常に時間がかかりタイムマネジメントが大変であったということです。大学院で受講している他の授業に比べて、本授業は予習に最も時間のかかるものでした。もちろん時間をかけなければ「考える」こともできないし、時間のかからない効率的な方法のみでは学べないことを学ぶことができるとは思います。しかし、大学院の授業はどれも重たく予習復習に時間がかかり、その間を縫って研究もしなくてはならず、生きるためにバイトもして、さらにサークル活動や部活動をしていれば暇な時間はほとんどありません。来年度この授業を受講する方々に一つアドバイスするとすれば、この授業は予習に時間がかかるからタイムマネジメントはしっかりすべき、ということだと思います。  

 苦労も多い授業でしたが、何より学ぶことが多い授業でした。授業で扱った本の内容も言語を専攻する人として知っておくべき概念など充実したものでした。内容に限らず、「考える」ということそのものなど、この授業で学べたもの全て生かして、常に向上していけたらと思います。半期の授業ありがとうございました。  















2013年8月7日水曜日

教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ



[この記事は8/10の全国英語教育学会シンポでの発表のための基礎資料です]



■ 概要

現在主流の英語教育研究は「工学的アプローチ」でもって英語教育実践を支援しようとしていると考えられる。しかし、教師・生徒・学級・学校のあり方をよく観察し、教師などの当事者の話をよく聞くならば、工学的アプローチで得られた知見から期待できる実践の改善は極めて表面的なものであり、むしろ教育研究は工学的アプローチ以外のアプローチで行うべきではないかと思える。ここでは、教師・生徒・学級・学校のあり方をより的確にとらえるアプローチを「生態学的アプローチ」として説明する。


■ 教育研究の工学的アプローチ

ここでいう「教育研究」とは、「教育実践を支援するための知見を提供するための研究」であるが、現在の英語教育界で主流の「量的研究」と呼ばれるアプローチは「工学的アプローチ」と称することができる。

「工学」 (engineering) を意味を、愚直に辞書で確認するなら、次のような意味がここでいう「工学」の意味である。

科学知識を応用して、大規模に物品を生産するための方法を研究する学問。広義には、ある物を作り出したり、ある事を実現させたりするための方法・システムなどを研究する学問の総称。
大辞林
http://www.weblio.jp/content/%E5%B7%A5%E5%AD%A6

engineering
the application of science and mathematics by which the properties of matter and the sources of energy in nature are made useful to people
the design and manufacture of complex products
calculated manipulation or direction (as of behavior)
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/engineering


ここでは特に「大規模に物品を生産」や、"calculated manipulation or direction (as of behavior)"といった表現に注目したい。工学的アプローチによる知見は、科学知識の応用により、優れた教師を「大規模に」作り出すことを目指す。あるいは「社会工学」といった意味では、教師の行動を計算通りに操作して優れた教師を作り出すことを目指している。このアプローチでの「科学知識」とされるのは多くが言語学や心理学の知見であり、その応用により優れた教師が計算通り大量に産出できると、工学的アプローチは想定する。

大量生産を可能にする一つの要因は、原材料および生産物が標準化され、個体差がほとんどないので、同じ方法を適用することができることである。コンビニ弁当の卵焼きを例にとれば、多少の個体差がある生卵も、割って撹拌することで原材料として(例えば何グラムなどと)標準化され、それらに同じ調理法を機械で適用することにより卵焼きという生産物を大量(かつ高速)に生産することができる。

工業製品として生産される薬も同じことであり、原材料と生産物は共に標準化され薬は大量生産される。薬の場合、何を原材料とし、どのような加工をし、どのような生産物を生産するのかというのは、生理学研究を応用して作られた新薬をこれまでの薬と比較する★治験と言われる臨床試験により決定される。

治験では、多くの被験者を対象にランダム化比較試験 (randomized controlled trial: RCT) を行い、かつ二重盲検法 (double blind test) で、被験者と治療者の心理的要因(主観性)が混入しないようにした上で、新薬がこれまでの薬と比べて統計的に優位な差を出すかを検定する。

英語教育研究での工学的アプローチもこれに似た考えを取り、新しい教育方法と旧来の教育法の出す結果の差が統計的に優位なものかを見ようとする。もし優位だとしたら、その新しい教育方法を、他の教師に同じように適用したら、それらの教師も同じようによりよい結果を出すと望まれている。

しかし、医学・薬学の治験では、患者個人を対象とするため、数百人から数千人といった大量の被験者をランダムに分けて比較することができるが、学級集団を対象とする英語教育研究では通常二つの学級集団を対象とするぐらいであり、通常はランダム化がなされていない。

もちろん多くの英語教育研究では、予めの差がないことをプリテストで検定するが、そのプリテストは一種類の測定に過ぎない。他方、治験での多数の被験者のランダム化は、実験者が十分に想定していないかもしれない要因をもランダム配置により誤差変動として処理することができるので、英語教育研究の工学的アプローチがランダム化比較試験の形態をとっていないという差は大きい。

また、治験では二重盲検法が容易であるが、英語教育研究の工学的アプローチでは通常教師は比較する教育方法について相当の知識・先入見を有している。また被験者についても、治験では外見だけではわかりにくい薬剤により被験者は治療法についての知識・先入見をもちにくいが、英語教育研究の場合、生徒は隣クラスとの情報交換もするため教育方法についての何らかの知識・先入見をもつことが容易に考えられる。またそもそも教育という営みが、教師が生徒を信じ、生徒も教師を信じるという関係性を基盤にしていることから、英語教育研究の工学的アプローチでは、二重盲検法はほぼ不可能である。

さらに治験の治療法は、工業的に標準化された薬であり、その同一性は極めて高いが、英語教育の場合、例えばシャドーイングとリピーティングなど、教師の力量や判断によっていかようにも異なりうるものであり、その実験から得られた知見を、他の多くの教師が実行した場合でも(例、シャドーイング)、その「シャドーイング」の同一性ははなはだ疑わしい(逆に言うなら、ある教育方法を、生徒・教材・学習時期などの諸要因を配慮して柔軟に変化させるのが教員の力量であろう)。

こうしてみると、英語教育研究の工学的アプローチが科学的に厳密な実験を行い、科学的に妥当な想定でその汎用性を期待できるのかといえば、それははなはだ疑わしい。

研究者はしばしば自ら「実験的に証明した」教育方法を万人に勧めるべきものとして称揚するし、政策実行者は少数の実験結果をもって「実験的に証明された」教育方法(=政策が勧める教育方法)を万人に強いるが、その態度は厳密な意味で科学的なものとはとても言えない。(この論点についての詳しくは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」を参照されたい。また「Exptoratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察」も英語教育研究における「科学的研究」について考察している)。



■ 教育研究の生態学的アプローチ

そうなると教育研究において「科学的」であろうとすれば、「工業実験や治験と同じような方法をとり、統計検定をしているから『科学的』であるはずだ」といった思い込み・教条から自由になり、教育の営みの事実を丁寧に観察し、その観察結果から慎重に考察を進めるべきだと思える。そのような科学のあり方は、生態学に求めることができるだろう。

生態学 (ecology) の意味を、ここでも愚直に確認しておくと、以下のような意味が確認できる。


生物とそれをとりまく環境の相互関係を研究し、生態系の構造と機能を明らかにする学問
大辞林
http://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E6%85%8B%E5%AD%A6
ecology
the totality or pattern of relations between organisms and their environment
an often delicate or intricate system or complex
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/ecology
human ecology
a branch of sociology dealing especially with the spatial and temporal interrelationships between humans and their economic, social, and political organization
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/human+ecology

ここでは「相互関係」、"totality ... of relations", "delicate or intricate"といった表現に注目したい。工学的アプローチでは、「実施する教育方法→生徒が出す結果」といった一方向の因果性が想定されていたが、教室では生徒の反応が教師を動かし教育方法も変化させるなど、相互関係が常態である。また、関係性は関係者・関係事項すべてが絡むシステム全体に及ぶから、相互関係も複雑で複合的である。このように多数の要因が複合的に絡み合っているので、そのシステムのふるまいは"often delicate or intricate"である(だが稀にはバタフライ効果のように、些細な変化がシステム全体に大きな変化を引き起こす場合もある)。

仮に教育実践を考える際の大きな分析単位として、教師、生徒、学級、学校を考えるとしても、それら四つは相互に影響を与え合っているだけでなく、それら一つひとつの単位においてもその内部でさらに細かな分析単位が考えられ、それらの分析単位は相互に影響を与え合っている。四つの分析単位の間と中の相互関係は極めて複雑で複合的なものとなる。

以下、四つの分析単位と、それら内部の下位分析単位を列挙する。だが、これらは相互に重なり合うものであり、また、これらで教育実践の分析単位が枚挙できているとはとても言えない。これらの分析単位はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や「親族的類似性」で使われるような分析単位と考えるべきである。

● 教師生態学
・個体的要因:性別、身体、知識、技能、才能、意欲、気質、個性、等など
・歴史的要因:家庭、生活、学校内学習、学校外学習、職業、人生経験、時代、等など
・時間的要因:年齢、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:教室内生徒、教室外生徒、同僚、上司、友人、家族、等など
・環境的要因:教室内、学校内設備、学校外施設、町、家庭内、天候、等など

● 生徒生態学
・個体的要因:性別、身体、知識、技能、才能、意欲、気質、個性、等など
・歴史的要因:家庭、生活、学校内学習、学校外学習、職業、人生経験、時代、等など
・時間的要因:年齢、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:保護者、兄弟姉妹、学級内、学級外、学校外、等など
・環境的要因:家庭内、教室内、学校内設備、学校外施設、町、天候、等など

● 学級生態学
・個体的要因:学級規模、学級形態、集団構成、等など
・歴史的要因:学習経験、行事経験、学級内経験、時代、等など
・時間的要因:学年、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:担任、教科担当教員、生徒指導教員、他学級、他学年、等など
・環境的要因:教室内、学校内設備、学校外施設、町、天候、等など

● 学校生態学
・個体的要因:学校規模、学校形態、住民構成、等など
・歴史的要因:学習経験、行事経験、学校内経験、時代、等など
・時間的要因:学校種、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:卒業生、地域関係者、地域住民、地域外市民、他学年、等など
・環境的要因:地理環境、社会環境、経済環境、学習環境、文化環境、天候、等など


これらの分析単位についてはいちいち具体例を挙げないが、教育の営みを私たちが十分に思い起こすことができれば、「同じ『教師』だといっても、A先生ができることと、B先生ができることは異なりうる」ということは言うまでもない。「同じ『教師』」とはいえ、A先生とB先生の個体的・歴史的・時間的・関係的・環境的要因が異なる以上、同じように努力して同じ教育方法Xを用いたとしても、その結果は異なりうる(またそもそも教育実践の場合、教育方法Xの同一性も疑わしいことは私たちが上で確認したことであった)。

それどころか「同じA先生でも他の要因次第では同じことができたりできなかったりする」ことも明らかである。A先生の個体的・歴史的要因は短期的に変化しないにせよ、時間的・関係的・環境的要因の変化によって、A先生のパフォーマンスが変わることはいくらでもある(例、学期末の繁忙時、上司との関係の悪化、使用機器の不調など)。

同じことは生徒、学級、学校についても言えて、「生徒Aができるからといって、生徒Bができるわけでもない(それは必ずしも生徒Bの努力不足ではない)」し、「学年始めは学力差がなかったはずの学級Aと学級Bが、同じ教師が同じように教えているのに大きな差が出た」ことなど珍しくもないし、「学校Aでの最適な教育方法が学校Bでは悪い選択である」ことも不思議でもなんでもない。加えて「これまでの生徒Aと保護者の離婚後の生徒Aが違う」ことも、「4月当初の学級Aとクラスマッチ後の学級Aがまったく異なってしまう」ことも、「落ち着いていた学校Aが地域の不況により荒れてしまう」ことも教師にとっては不思議でもあり得ないことでもない。

むしろ不思議で、あり得ないと思えるのは、このような変化を想定しない教育研究の工学的アプローチである。

教育実践を支援する教育研究においては、工学的アプローチを忘れ、生態学的アプローチを採択するべきではないだろうか。(私からすれば、工学的アプローチは、生態学的観察抜きの事例研究を、「一般化」できる科学として標榜している自己欺瞞のように思える)。



■ 生態学的アプローチが含意すること

生態学的アプローチはいくつかのことを含意する。その一つは、「一元的な優劣」をつけることを拒むことである。工学的アプローチでは、「教育方法Aは教育方法Bより優れている」などといった(評価Xにおける)一元的な優劣をしばしばつけたがるが、生態学的アプローチで考える限り、「教育方法Aがうまくいく場合もあれば、教育方法Bがうまくいく場合もある。大切なのはどのような関係性の時に、どのような結果がでるのかを丁寧に観察し慎重に考察し、個々の事例を『一般化』しようとせずに、『洞察』を得る源として扱うことである」となる。

さらには評価Xだけでなく、評価Y、評価Z・・・と評価を多元化することも生態学的アプローチは私たちに要求するであろう。生態学的アプローチは、教育実践の複雑性・複合性を強調し、単純な一般化を警戒するからである。

私は現職教師の営みを観察し、彼・彼女の声に耳を傾けることを重視して、昨年度・今年度の全国英語教育学会課題研究フォーラムなどで、特定の教師を対象とすることがあるが、その場合「A先生はB先生より優秀」や「教育方法Xは教育方法Yより優れている」などとは決して意味していない。

教師にとって大切なのは、与えられた条件(自分、担当する生徒・学級、赴任校など)で、どれだけ相互に適した関係性を作り上げることができるか、ということである。

植物にたとえれば、同じ種であっても、肥沃な土地に舞い降りた種Aは、不毛な土地に舞い降りた種Bよりも大きな花を咲かせるだろう。だがそれは「種Aが種Bより優れている」ことを必ずしも意味しない。私たちは「種Aは舞い降りた土地で十分に開花したか」、「種Bはどう不毛な土地で生き延びたか」という個別的な観察をしなければならない。

教育環境の整った学級・学校に赴任すれば教師Aの成果は、そうでない学級・学校に赴任した教師Bの成果よりもまさる。だが、それは教師Aが教師Bより優秀であることを意味しない。

私たちは、教師、生徒個々人、学級、学校の営み・相互関係をきめ細かく丁寧に観察し、そこからゆっくりと洞察を得るべきであろう。

私には工学的アプローチしか知らない英語教育研究者が、自らの「科学性」を誇らんがばかりに、生態学的アプローチを取る質的研究を蔑視・軽視することが悲劇的にしか思えない。

それは慎ましい質的研究の発展を封殺するという点で悲劇であり、自らの誇りが自らの無知を示していることに他ならないという意味でも悲劇である。(私もこの文章で自ら自覚しない悲劇を演じていないだろうか)。

せめて教育研究の生態学的アプローチを否定することはやめていただきたい。

そして工学的アプローチの限界について、真剣に考えてほしい。たとえ、工学的アプローチをが論文を大量に執筆し査読するには最適の方法であるにせよ。






追記 (2013/08/13)

私の敬愛する実践者のお二人も、このテーマについてについてエッセイを書かれました。



英語教育(学)への2つのアプローチ

研究と実践のあいだ



以下、そこからの引用です。

たとえば、月曜日の1限と金曜の3限では、同じクラスでも生徒の授業に対する姿勢が全然違います。前の時間が数学か体育かでも生徒の雰囲気は違います。生徒から大人気のあの先生の授業の後か、生徒から総スカンのあの先生の授業の後かでも違います。生徒と和やかに朝の挨拶を交わすことができた後の授業か、生活指導でキツい叱責をして生徒との間に緊張が高まっている状態での授業かでも違います。
「現場」とはそういうものです。そして現場の教員は、日々、当たり前のこととして、こういう諸条件を頭に入れながら授業を作ります。一度作った授業でも、その場の生徒の雰囲気を見てアドリブで大胆に変えてしまったりします。
そして、そういう操作は、必ずしも、というか、多くの場合、言語化するのが難しいものです。
「今日の3組は、なんか重いよね。」「うん、重かった。どうしたんだろうね。」
みたいな会話は、職員室では全然珍しくないものだと思います。
しかし、「それ、よくわかんない。『重い』ってどういうこと?」
と問われてもなかなかスッキリとは説明できないことが多いのではないでしょうか。
生徒の表情が暗い、とか、活動を指示して動き出すまでの時間がほんの少し長い、とか、いつも積極的なAさんが教員と視線を合わせてくれなかった、とか、細かく見ていけばいろいろと細々とした要素に還元することができなくもないし、そうすることで問題の所在が明確になる場合もあるのですが、しかし、そういう要素の和が「重い」という感じの説明になるかといえば、必ずしもそうではないのです。
生徒の前に立って授業をする者としては、「重い」としか表現しようのない「何か」を感じているから「重い」と表現するわけだし、文脈を共有する同業者にはそれで「わかって」もらえるわけです。
しかし、学会では、口頭発表をする中で「このクラスは雰囲気が重いんです」などとは言いにくい雰囲気があります。そんなことを言おうものなら、「賢しらな」(失礼!)研究者から「『雰囲気』の定義は何ですか。『重い』とはどういうことですか。」などと質問、いやツッコミが入りそうです。(というか、実際は、そんな質問すらも出ずに、「ああ、現場の先生が研究もどきをやってるな・・・」ぐらいに冷たくスルーされて終わるような気もします。)

そうやって、「学会」では、教室で起こっていることを応用言語学的な言葉づかいに「回収」してしまって、その言葉づかいで語れないことは、研究として一等レベルの低いものであるかのように扱う雰囲気があるように思うのです。
「応用言語学」の研究ならばそれでよいでしょう。しかし、仮にも「英語教育」の「改善」を志向するならば、むしろ、そういう定義の難しい現場教員の言葉づかいをこそ大事にするべきなのではないでしょうか。



一方で、教室で中学生と日々格闘している中で、中学生が理論通りに本当に学んでいるだろうか、という疑問も感じています。それは、物理の時間にお勉強したように、重力に従って物体が坂道を滑り落ちていく時に、何かしらの「摩擦」がそこには本来あって、必ずしも理論値通りの動きをするとは限らない、というのと同じです。
この場合の「摩擦係数」は「L1とL2の距離」や「EFLかESLか」みたいな言語的な特徴によるものもあるでしょうけど、「生徒のやる気」、「生徒の体調や気分」、「教師と生徒の人間関係」のように、教室を取り巻く様々な環境要因であることも多く、その数値も(仮に同じ生徒であっても)日々様々に変化します。
 10年以上教師をしてきて日々実感しているのは、「理論」で語られるべき「指導法を変えたことによる学習効果の差異」よりも、「摩擦」と呼んでいる「教師と生徒/教材と生徒etc.のあいだにある抵抗値」の方が、変化量が大きいというか、生徒の学びに大きな影響を与えているように思える、ということです。
 つまり、一般的に残念といわれる指導法であっても力のある教師が実践すれば、優れた指導法を実践している教師よりも成果を上げてしまうこともありえるのではないか、と思います。それは反対にいえば、摩擦のうち「教室を取り巻く環境」の部分については、授業をする教師が「どうにかできるもの」だということです。
「カリスマ」と呼ばれるような熟達した教師には、もちろん「理論」に沿った指導方法を考えだし成果を上げている先生もいるでしょうが、少なくともどのカリスマも「摩擦」をできるだけ取り除いて、指導法が機能するような環境を(自覚的か無自覚的にかは別にして)作り上げているのは確かです。
 そっちの方が効果量が大きいのですから、「現場」の教員が「摩擦取り除き」に関心を寄せがちなのは当然と言えます。ですから、巷のワークショップ等にて英語教師間で共有されているのは、そういった「知恵」であることが多いように思います。
 ただそういった作業が「理論」とは別世界なわけではありません。理論を「現場」に当てはめる際には摩擦の計算が絶対に必要なわけで、こういった摩擦を取り除く知恵を「質的」に研究する試みも、十分に「科学的」でありえるはずです。ここで何度も宣伝させてもらっている拙著にて「教師の語り」を集めて共有しようとしているのも、そういう試みのひとつだと思っています。







追記  (2013/08/13)

ちなみに本日、岡倉由三郎(1911,M11)『英語教育』を近代デジタルライブラリーで読了しました。


岡倉由三郎(1911,M11)『英語教育』(近代デジタルライブラリー)




社会情勢と情報技術の変化を差し引けば、ここ百年間「英語教育学者」が論じていることは、ほとんどこの本で説かれているような気すらします。

上述の「英語教育(学)への2つのアプローチ」では「英語教育学」や「応用言語学」について、以下のようにも書かれていましたが、それと同じ事は岡倉も「(英語)教授法」について言っています。以下、2013年と1911年の発言を連続して引用します。

応用言語学系の専門書を読んでいて、それなりに納得はするのですが、どこかしら、自分の向き合っている現実の教室にはぴったりとそぐわない感覚を持ってきました。
また、広い意味で言って英語教育の改善を志向するといえる(たぶん)種々の「英語教育学会」がありますが、この「学会」というものを、敷居が高く、あるいは縁遠いものと感じる中高現場の教員は少なくないようです。
私自身はいちおう大学院まで行って研究の手ほどきまでは受けたこともあり、学会に参加すること自体には全然抵抗がないのですが、もしそういうトレーニングを受けていなければ、たしかに学会という場は中高の現場とは縁遠いものに感じられてしまうであろうことは容易に想像がつきます。
いや、もっとドギツイ言葉で言えば、小難しい言葉を並べてもっともらしい顔をして大真面目に机上の空論を戦わせているものの、そこで議論されている内容は、「俺らには関係ない、俺らの仕事の役には立たない何か」であると捉えられることでしょう。
急いで付け加えますと、私自身が、学会で議論されていることが「自分には関係ない」とか「自分の仕事の役には立たない」とか思っているということではありません。仮に私が大学院で研究の真似事らしきことをしていなければ、そのように感じられたであろう、という仮定の話です。
しかし、小難しい言葉で、なんだか自分が日々向き合っている現実の教室に当てはまるんだか当てはまらないんだかよくわからないような話が飛び交っているという印象は、実はまったくのウソでもありません。
実際、学会にはほとんど参加したことのないような教員から、「学会でやってることって現場には関係ないよね」という反応が出されるのは、これまでに何度か経験してきたことです。 (2013)
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/196.html


「世間で動もすると、教育学や教授法を斯く専門的のもの、入り易からざるものとして遠ざける傾向があるに就いては、しかく誤解する方にも思ひ違ひがあるに相違無いが世間の所謂教育学者達にも、多少の責任がある様に思はれる。それ等の人々は概していふと、好んできつくつな術語を用ゐ、左程の用も無いに、内外諸国の大家の語句を殊事しく引用し尋常の事までも態々神秘的の霧の中に祭り込んで仕舞ふ癖があると思ふは、自分ばかりの陋見でも無い様である。(1911, p.2)
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812330/99

 「蓋し自分が平生信ずるには教育学でも教授法でも其大部分は常識の産物で殊に教授法のごときは全然然りと思ふ」(1911, p.2) 
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812330/99

この引用も「内外諸国の大家の語句を殊事しく引用」する愚なのでしょう。英語教育界の私たちは、相当に自らの愚かさを自覚しなければならないように私には思えます。





 追記(2013/10/05)

生態学的アプローチと工学的アプローチのバランスを考える上で参考にしたい動画です。ぜひ御覧ください。








[草稿] リフレクティブな英語教育:10年間の動向



[以下は、全国英語教育学会40周年記念誌のために書いた原稿の草稿です。実際に提出した原稿は、これを4分の3に縮減したものとなりました。この記念誌は後に正式に広く公開されるものと聞いていますし、草稿版でもありますので、ここで公開することにします。8/10(土)の「中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」なども、以下に述べられているような基本認識に基いて行なっています。]


*****



リフレクティブな英語教育:10年間の動向



1 英語教育実践者の動き

 単に自らの実践を報告するだけにとどまらず、自らの実践を(時に同僚と共に)振り返り省察を深め、より幅広く多元的な視点から実践について記述と論考を加えるという意味での「リフレクティブな英語教育」は、「アクションリサーチ」や「リフレクティブプラクティス」あるいは"Exploratory Practice"といったキーワードで進められ、日本でも多くの書籍が刊行されている。また、特にこれらのキーワードを用いずとも、学校単位のプロジェクトにおいて上記の意味で「リフレクティブな英語教育」を実践し報告した書籍も少なくない。
 
  もともと日本は、現職教員が教育書を出版するという点で、大学研究者やジャーナリストだけが教育書を書く諸外国とは異なった文化伝統をもっているが(佐藤 2009)、そういった現職教員が著す実践的な英語教育書においても、いわゆる「How to本」をはるかに超えた「濃密な記述」(thick description)を志向し、教育技術を採択するに至った学校・学級・実践者の歴史・背景・理念的前提などを省察し記述する本も増えている。さらにこれらの実践者による書籍の中では、教育行政の施策や流行のSLA理論に無批判的に追従するのではなく、実践現場からの視点で主体的・批判的に施策や理論を読み解き、実践に裏付けられた独自の見解を示す本も珍しくない。これらの実践書は、(おそらくは販売促進のためにつけられた)タイトルこそ「How to本」のようだが、その内実はきわめて「リフレクティブな英語教育」である。実践の技術(HOW)だけに注目するだけでは駄目で、その実践の正体(WHAT)を見極め、それがなぜ必要となったのか (WHY) を実践から省察し思考しなければならないということは、少なくとも出版された書籍で見る限り、日本の英語教育実践者に随分と浸透してきたようにも思える。


2 全国英語教育学会の動き

  全国英語教育学会(以下、本学会)もシンポジウムやフォーラムにおいては2004-2005年の関西地区課題研究「教師が変わる授業研究」、2012-2013年の中国地区課題研究「英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-」、2013年度の四国地区授業研究フォーラム「教室で成長する英語教師 ―リフレクティブな授業改善の手法の可能性と課題」など、「リフレクティブな英語教育」をめぐる動きが見られる(注1)。

  しかしながら本学会の研究紀要であるARELEに掲載された研究論文と実践報告においては、「リフレクティブな英語教育」および質的研究は、例えばJACET Journal(大学英語教育学会)やApplied Linguistics (Oxford University Press)と比べても少ない。下の図は、ARELEJACET JournalJJ)とApplied Linguistics (AL)の2002-2011年度に掲載されている論文(注2)の論文名と要約を対象にした検索結果である(ARELEJJに関してはCiNiiで、ALに関してはOxford University Pressのホームページからそれぞれの検索エンジンを使って検索した)。検索語は、"reflective", "reflection", "qualitative"、およびリフレクティブな英語教育研究や質的研究でしばしば取り上げられる"socio(-)cultural", "epistemological", "epistemology"とした。それぞれの出現数をそれぞれの雑誌の総論文数で割ったパーセントをグラフで表示したのが図1である。



図1 ARELE, JACET J, ALにおけるキーワード出現率
(クリックして拡大)

   図1から明らかなのは、本学会のARELEは、JJALと比べて"reflective", "reflection"をキーワードとして含む研究論文・実践報告が明らかに少ないことである。"Qualitative"についてはある程度は出現しているが、出現はJJとALよりも約3割少ない。関連語である “socio(-)cultural", "epistemological", "epistemology"に関しては、ARELEは("reflection"と並んで)出現が皆無であり、JJALと異なる。無論これらの出現総数/論文総数は絶対値としてあまり大きくない (ARELE 12/258, JJ 18/139, AL 59/446) ので、パーセント表示比較の解釈には注意が必要だが、本学会はJACETといった他の日本の英語教育系学会やApplied Linguisticsといった欧米の応用言語学の代表誌と比べて、「リフレクティブな英語教育」および広く「質的研究」を、正式な業績としての研究論文および研究報告として認めていないかもしれないことが、図1からは示唆される。

  英語教育実践者の出版活動の隆盛や本学会のシンポジウムやフォーラムでの活動からすれば、ARELEにおいて「リフレクティブな英語教育」や「質的研究」はもっと掲載されてもいいはずである。この掲載数の少なさは何に起因するのであろうか。浦野 (2012) は、本学会の下部組織である中部地区英語教育学会紀要(第36-41号)を対象に論文掲載傾向を調べ、質的データを扱った研究が少ないことを見出し、その理由として (1) 濃密な記述 (thick description) に必要なページ数が紀要に確保されていない、(2) そもそも質的研究が浸透していない、(3) 査読者が質的研究に精通していないため、適切な審査ができていない、という3つの可能性をあげている。(1) は、紀要の補遺をWeb上に掲載するといった技術的改善で解決可能であるが、問題は (2) および (3) である。しばしば指摘されるように、量的研究が19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパで称揚された実証主義 (positivism) を基盤にする一方で、リフレクティブな教育研究や質的研究は20世紀後半からの欧米(および近代以前・非欧米圏)での哲学や認識論を基盤にしている。したがって実証主義の枠組しか知らない者にとっては、リフレクティブで質的な英語教育研究など、理解し難く研究としては認めがたいものにしか思えないのかもしれない。現状を見る限り、本学会論文執筆者の多数派はもっぱら実証主義を自らの基盤としているようにも思えるが ―そもそも「哲学」や「認識論」といった用語自体に嫌悪感を示す者も珍しくない―、その推測が正しいとするなら、本学会が「リフレクティブな英語教育」を正式な研究業績としてあまり認めない傾向が今後も続くのであろうか?


3 欧米の応用言語学と日本の英語教育学の比較

  この点において、欧米の応用言語学会の動きは、今後の本学会(および日本の英語教育学界全体)の今後のあり方を考える上で参考になる。最近の米国応用言語学会 (AAAL) のシンポジウム(例えば2013年度のBridging the Gap: Cognitive and Social Approaches in Applied Linguisticsや2012年度のAddressing the Multilingual Turn: Implications for SLA, TESOL and Bilingual Education)の論調を見ても、もはや実証主義が研究の唯一の枠組として他の枠組を排除することは決して認められず、"epistemological modesty/diversity"のための哲学的議論が深められている。 “Sociocultural approach"を含む、実証主義以外の基盤をもつ"alternative approaches" (Atkinson 2012) は、実証主義だけを基盤とする"mainstream"よりも勢いがむしろあるようにも思える。研究方法のガイドブックにしても、例えばDornyei (2007)がquantitative data, qualitative data, mixed methodを柱にするなど、「リフレクティブな英語教育」のための研究を支える基盤はできているようである。さらに、リフレクションの時空をより広範囲にとったいわゆる「批判的研究」 (critical studies)も、Pennycook (1999) やBlock  (2003) などに見られるように、応用言語学の一分野として既に十分に確立している。

  だが日本の英語教育学界においては、研究法のガイドブックや研究概説書の良書 (例えば竹内・水本 2012, JACET SLA研究会 2013) ですらも、実証主義が中心であり質的研究の扱いは少ない(批判的研究においてはその項目すら存在しない)。別に日本の研究はすべからく欧米の研究に倣うべきとは言わないが、確固たる理由がない限り、日本の英語教育界が欧米の応用言語学界で普通に認められている領域を無視・軽視し続けることの理はない。


4 「真理の体制」の今後

  学会とはフーコーの表現を借りるなら「真理の体制」であり、学会が正式な業績として認めるものが「真理」(の近似値)として認められ、それゆえにそれは「権力」を得る。その権力は政策決定や教師教育の実際において多くの人に影響を与える。もし「真理の体制」としての英語教育学会が、"epistemological modesty/diversity"を志向しないなら、そこで創られる権力は英語教師ひいては英語学習者や一般市民に歪な影響を与えかねない。もし本学会のARELEの「リフレクティブな英語教育」や「質的研究」の軽視を事実として認めてよいのなら、その軽視は是正されなければならないだろう。本学会が、英語教育実践者がますますその力を認める「リフレクティブな英語教育」の認知を、論文としての承認において怠り続けるならば、本来は優れて実践的であるべき「英語教育学」において、研究(者)と実践(者)はますます乖離しかねない。

  今後は本学会も、紀要における"guest editor"や"special contributor"の招聘による「リフレクティブな英語教育」(および実証主義以外の基盤をもつ英語教育研究)の振興を行ったり、大会においてワークショップを開催し"alternative"な研究への理解を深めたりするべきではあるまいか。さらに、無理解な査読者による的外れのコメントを避けるために紀要論文審査者のための"code of ethics"を策定するなど、他学会では当たり前に行われていることを本学会も行うべきだと筆者は考える。




(1) この報告は筆者が2002年以降のARELE印刷媒体版で確認したことに基づく。本学会全国大会の記録はWeb上には十全な形では残されていない。本学会がWeb上に残している記録は第37回大会からの3大会だけである。CiNiiにおいても、例えばJACETのように大会要綱を掲載することも本学会はしていない。研究発表の公開と責任の点からするなら、全国大会については、本学会によるWeb記録保存およびCiNiiによる大会要綱掲載を行うべきではなかろうか。

(2) Applied Linguistics誌では、狭義の論文であるArticleだけでなく、ReviewやForumなども検索対象に入れている。


引用文献

Atkinson (2012). Alternative approaches to second language acquisition.  NY: Routledge

Block (2003). The social turn in second language acquisition.  WA: Georgetown University Press.

JACET SLA研究会 (2013). 『第二言語習得と英語科教育法』東京:開拓社

Pennycook (1999).  Critical applied linguistics.  NY: Routledge

佐藤学 (2009). 『教師花伝書』 東京:小学館

竹内理・水本篤 (2012). 『外国語教育研究ハンドブック』 東京:松柏社

浦野研 (2012) 「紀要論文の分析」2013年6月29日に浦野氏のホームページ
http://www.urano-ken.com/research/project/project_3.pdf より入手






[草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―



[ この記事は、昨年(2012年)の8/4に行われた全国英語教育学会山形大会での発表をまとめた草稿です。完成原稿は「樫葉みつ子・上山晋平・山本真理・柳瀬陽介 (2013) 「英語教師が自らの実践を書くということ (1)  ― 日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No.43, 2013, pp.61-70. 共著」の形で論文化されました。ここではその元になった草稿を掲載します。

草稿掲載は研究者コミュニティで全世界的に容認されている慣行だと理解しています。また、この草稿には、私としては言いたかったものの、査読者により削除を求められ、論文では姿を消した表現もそのまま残っていますので、私としてはぜひこのような形で公開しておきたいと考えています。

きたる2013年8月10日の全国英語教育学会札幌大会の発表は、昨年度のこの研究を継続発展させたものです。できるだけ面白いフォーラムにしますので、ぜひご参集ください。特に小中高の現職教員の研究力と実践力を統合的に向上させることに興味をおもちの方、どうぞお越しください。]



*****

英語教師が自らの実践を書くということ (1)

―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―


広島大学                 樫葉 みつ子
福山市立福山中・高等学校 上山 晋平
兵庫県立北須磨高等学校   山本 真理
広島大学                 柳瀬 陽介



1 序論

  教師に対する社会からの要求は近年ますます高まる一方、教師はますます多忙化している。平成18年度「文部科学省教員勤務実態調査」によれば、小中学校の教諭の平日の残業時間は、昭和41年にはひと月に約8時間だったものが、平成18年度では約34時間と、26時間も増えている。この調査における残業時間には、教員が持ち帰って行う授業準備などの業務は含まれていないので、通勤や持ち帰りの仕事を考慮すると、時間的なゆとりがほとんどない教師の生活実態が浮かんでくる。同調査は、現在の教師の職場での休憩時間の平均は1日14分だとも報告している。

  この多忙化から現れた現象は、学校の同僚性の低下である(文部科学省2006a)。また、校内研修の減少、自主的研究会の衰退も指摘されている(山崎・榊原・辻野2012)。本来、教師は学校という現場で育つ。その現場は児童・生徒との関係性だけでなく、同僚教師との関係性でも成り立つ場である。教師は、職員室で同僚と様々な課題について会話を交わしたり、校内研修その他の研究会で実践報告をしたり、教師仲間からフィードバックを得たりする中で、自分の視野を少しずつ広げ、状況を深く理解し、考える力をつけてきた。しかし、今やそのような時間が大きく奪われている。

  そのような現状を受けてなすべきことの一つは現場研修の機会の回復・獲得であるが、他方、その回復・獲得が短期間には実現しがたい以上、教師は現状でも可能な自己成長の方法を探究することも必要である。山崎ら(2012)は、専門的な教職像を「省察的実践家」に求めているが、その省察・リフレクションを一人でも行うことができるジャーナル・ライティングは、この意味でとりわけ注目される。このような認識から本論文の第一著者と第四著者は、自らの実践の中にジャーナル・ライティングを取り込んで長年にわたり自己改革を続けている中高教員2名を第二・第三著者として招き、研究チームを結成した。

  しかしながらジャーナル・ライティングひいては質的アプローチ全般に対する日本の英語教育学界の理解は未だに乏しい。浦野 (2012) は、中部地区英語教育学会紀要36-41号の実証研究151本を分析した結果に基づき、質的研究法がなかなか浸透していない理由として、紀要のページ数制限が足かせになりthick descriptionができないこと、および、査読者が質的研究に精通していないため適切な審査ができていないことを推測している。実際、量的研究法については非常に充実した内容をもつ竹内理・水本篤 (2012) 『外国語教育研究ハンドブック』でさえも、質的研究法の記述は、学問一般で常識的に質的研究法として認識されている方法のごく一部しか扱っていない。このように質的研究法・アプローチに対する理解が共有されていないなら、国内外の教育学一般では既に十二分に認められているジャーナル・ライティングも、他ならぬ英語教育学者によって阻害されかねない。

  したがって本論文では第二・第三著者のジャーナル・ライティングの事例を、当人との密接で批判的な対話から分析的に考察し、ジャーナル・ライティングが日本の英語教育界においても有効なものであることを実証的かつ原理的に解明することを目的とする。実証性は、実践者としての第二・第三著者のジャーナル・ライティングについて具体的に解明することにより担保する。本論文がさらに原理的解明を加えるのは、質的アプローチに対して未だに投げかけられる「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」という認識論的反省を欠いた的外れの批判(鯨岡、2005)に対して応答するためである。残念ながら認識論的考察を展開しても、量的アプローチの信奉者は「そんな哲学的議論は必要ない・わからない」と対話や理解を拒絶することが多い。したがって、本論(および本論に続く今後の研究)では、日本の英語教師が、日本語もしくは英語で自らの実践について書くというジャーナル・ライティングがどのような営みかを少しずつ原理的に解明する(もちろん、本論文だけで解明は終了しないことはこの時点で述べておく)。

  もちろんこれまでの日本の英語教育界に、ジャーナル・ライティング、およびそれに連なるAction Research, Exploratory Practice, Reflective Practiceについての研究がなかったわけではない(佐野 2000, 2005; 高橋 2011; Yoshida, Imai, Nakata, Takeuchi, and Tamai 2009)。そういった研究の流れを受けて浮かび上がってきたことに、教師は熟練するにつれ、ある授業要因Aを、A単独で認識することから、A-Bの関係性、A-B-Cの関係性、A-B-C-Dの関係性・・・(Bなどの記号は他の関係要因を抽象的に意味している)と、多重の関係性で認識できるようになること(柳瀬 2009) や、この認識力の高まりは観察力・分析力・思考力に類別できること(柳瀬 2012b)、さらには自らをどう観察し記述するかという自己観察・記述の問題としてとらえられること(柳瀬 2012a)がある。本研究はこれらを理論的背景とする。

  この背景を踏まえて、本論文の目的である、2つの事例の実証的検討を通じてのジャーナル・ライティングの原理的解明の課題を、さらに具体的に述べるなら、実践者が自らの実践に対して働かせる観察力・分析力・思考力を育む自己観察・自己記述をより理論的に解明すること、とまとめられる。本研究の意義は、直接的にはジャーナル・ライティングの効果的実践のために資することだが、間接的意義は、英語教師ということばの教師が、自らの実践というもっとも切実な課題に対して、書くことの質を高めてゆくことに繋がることである。ことばの教師が自らの仕事についておざなりな文章でしか考察できないのは、アイロニーである。英語教師が日本語および英語で自らの仕事について書き、国内・国外の英語教師と連帯することは、これからの英語教師の重要な課題である。


2 方法

  質的研究法では、データとなる言説が生じる際の背景となる権力的・社会的関係性について自覚しておくことが必要なので、ここで研究チームの関係性について記述しておく。第二・第三著者は前述のように中高の教師である(第二著者は中高一貫校、第三著者は高校で、共に公立校)。第二著者は自らの実践を日本語で記述し、それをブログや書籍の形でも公開している。第三著者は英語で自らの実践について書き、それは公開せず自分か信頼のおける人だけに見せている。他方、第一・第四著者は大学に籍をおき教師教育に携わっている(両者とも教育実践のジャーナル・ライティングを長年続けた経験はないが、第四著者は研究・教育内容についてのブログを日英語で多く書いている)。こういった関係性では、権威主義的な「大学研究者vs中高現場教師」の「指導-拝聴」という構図にひきずられ(注1)、対話の対等性が損なわれる場合がある。これを避けるため、第一・第四著者は抑圧的態度を排し、下に書く相互確認を何度も繰り返しまた言動で表すようにした。その結果、この研究の口頭発表(90分間のフォーラム形式)ではお互いのことを基本的に「さん」の呼称で呼ぶことが自然な関係性が構築できた。

  相互確認したのは以下の四点である。(ア)この研究は特定のジャーナル・ライティング形式だけを推奨するものではない。(イ)特定の実践者だけがすばらしいといった主張をするものでもない。(ウ)英語教師の成長には個々人の個性が反映されると考える。(エ)自分が否定されることを怖がらずに、自分の(部分的)否定を、自己再生の契機と考えよう。この四点は口頭発表の際にも聴衆に示した。  今回の研究は準備期間を入れるなら約半年間にわたり、主には次の10の手順で進められた(ただし準備期間以前にも四人の著者は相互の研究・教育活動についての理解を有してはいたことは付記しておく)。手順は、(1) 書面による10の質問、(2) 書面による10の質問への回答、(3) 書面によるさらなる3つの質問、(4) フォーラム前日の相互信頼感のさらなる醸成のための話し合い、(5) フォーラム当日の壇上での対話、(6) フォーラム参加者との質疑応答、(7) 音声記録の聞き返しとメール交換、(8) 第四著者による第一次原稿の執筆、(9) 第一次原稿への相互コメント、(10) 第一著者による改訂(第二次原稿)、(11) 第二次原稿への相互コメント、(12) 第一著者による最終原稿作成、である。それぞれの詳細は後述するが、基本的に書記言語を通してのコミュニケーションが (1) ~ (3) と (7) ~ (10) で、口頭言語でのコミュニケーションが (4) ~ (6) である。学会発表では、(5) の当日発表は予め書記言語で準備されていたテクスト(予稿)を口頭言語で発表することも多いであろうが、今回の研究では、醸成された相互信頼による対等性にもとづいて、即興的に発話し、言説データの内的妥当性(メリアム 2004) を高めることをめざして、(5) の対話を、基本的には当日初めて行うものとした。なおその対話をフォーラム聴衆にも理解してもらうため、(1) ~ (3) のデータは予め予稿集およびWebで公開しておいた。また (5) ~ (6) は録画・録音し四人の著者で共有した(対話の中で個人特定はできないものの、生徒の個性について語っている箇所があったので、万が一の誤解を避けるため録画・録音の一般公開は見送った)。

  質的研究については、その独自性の理解を欠いたまま、量的研究の認識論から妥当性や信頼性に対して疑義が表明されることは前述した通りだが、念のためこの点について確認しておくと、本研究は内的妥当性を上述の相互信頼・対等性・対話の即興性に求め、外的妥当性を複数の実践者について検討し次年度もさらに別の複数の実践者を検討することにより高めようとしている。また信頼性については (1) ~ (3) のデータ公開(注2)と (5) ~ (6) の録画・録音を複数回再生すること、および特に (8) ~ (10) を中心として著者間でチェックと批判を頻繁にすることなどにより担保することを試みた。


3 結果と考察

  紙幅は限られているので、ここでは手順の (2) と (5) と (6) で得られた知見を主に報告し、その他の手順については簡単に報告する(上述の浦和 (2012) にもあったように、原稿の紀要は量的研究論文を主に想定しているせいか、質的研究論文にとっては頁数が十分でないことがほとんどである。本論はその問題点を少しでも克服するため(注2)の措置をとった)。

3.1  10の質問への回答とその分析

  手順(1)の10の質問(ジャーナル・ライティングの実態に関する4問、認識に関する6問)であり、その質問と回答の概要は表1と表2のようにまとめられる。

表1:ジャーナル・ライティングの実態



第二著者(日本語執筆)
第三著者(英語執筆)
書き始めたきっかけ
教師生活1年目に読んだ本の「書かないと 実践は残らない」という言葉に触発された。教師人生の有限性を感じた。
勤務しながら通学した大学院の課題の一環として始めた。最終的には修士論文もジャーナル・ライティングについて書いた。
いつ・どこで・何を・どのように書くか
授業だけでなく学級経営・校務分掌・部活にわたって「うまくいったこと」「新しく取り組んだこと」「発見したこと」を書き、「自己更新」感を高める
ある一つのクラスについてだけ週に2,3回書く。うまくいった点もいかなかった点も、なぜそのようなことが起こったかも含めて書く。
書いたものを読み返すか
「メモ」→「実践記録」→「ブログ」→「発表資料」の4段階で書き、段階を進めるにつれ読み返している。
あまり読み返さないが、内容は頭に残っている。
書くことの苦労や限界
ポイントだけでもよいから、その日のうちに書くことを意識的に行なっている。「時間があるときに書こう」では書けない。だが時間を作り出すことは簡単ではない。
観察力が高まったせいか、以前より他人の言動に対して鋭敏になったり自分の弱さに向き合うことになったりして一時は書くことをやめようかとも思った。





表2: ジャーナル・ライティングの認識



第二著者(日本語執筆)
第三著者(英語執筆)
書くことの感触の変化
書く経験を重ねるにつれ、頭が整理され考えがまとまり、他人も読みたくなるように書くことが短時間でできるようになった。
最初は課題と論文のためであり他人のために書かなければならないという義務感をもっていた。今は義務から解放され、書くことが生活習慣。
書き続けたことによる自分の変化
気づきが多くなり、メモ取りの頻度が増えた。読者を想定することにより自分の実践を俯瞰的にとらえられるようになった。
「なぜ」を自問することが増えた。「よかった」や「だめだった」で終わらず分析するようになった。分析のために自他の観察や自他との対話が増えた。
これからも書き続けるか
必ず書き続ける。教師としての時間は有限であり、生徒にとっても二度とない時間である。自分の体験を残し、次の改善につなげるためにも書き続けたい。
おそらく書く。書くと辛いこともあったが救われたことも多い。自分が見ていることがすべてではないことが感じられるようになり、生活そのものも変わった。
もし書いてこなかったらどうなっていただろうか
授業の質は高まらなかったし、発表や書籍公刊の機会も与えられなかっただろう。「書くことは自他の幸福につながる」と信じる。
自分のまとまらない思いを抱えて、他人から傾聴され承認されることをもっと求めていたかもしれない。
もし英語で(もしくは日本語で)書くならばどうなるか
英語で書くと英語力は高まるだろうが、時間がかかるし、他の人のためになるという効果は薄くなるだろう。書くことの目的が記述言語の違いとなる。自分は当分、日本語で書き続けるだろう。
英語なら職員室・部活の場・喫茶店などで書いても、ほとんどの人に傍目から読まれることがないので便利。ジャーナル・ライティングを普及させるためには日本語の方がいいかもしれないが、自分はジャーナルの公開は考えていない。
その他
書くことは残すこと。考えること。拡げること。自分の実践を自他に活かすこと。 自分を育てること。新たな発見をすること。
自分自身を冷静に見つめ、目の前の状況を受け入れることができるようになった。自分の意思を確認することで、ただ周りに流されたり不安なままやりすごすことが減った。





原理的に重要な知見をまとめるなら次のようになる。

・自らの実践について書き続けることにより、観察力・分析力・思考力などが高まり、自分および自分の生活が変化する。
・(自分自身を含む)読み手がどのような存在であるかが、書くことに大きく影響する。

この二つの論点から、第四著者は、自らの実践について書くという自己観察・記述がいかに観察力・分析力・思考力を高めるのかをより解明するために、第二著者に以下の質問 (a)、第三著者に (b) をフォーラム当日に尋ねることとした。第一著者は、読み手が周りにいない教師に対してジャーナル・ライティングをいかに普及させることができるかという観点から、第二・第三著者両人に対して (c) の質問をすることにした。

(a) 四段階 (メモ・実践記録・ブログ・発表資料)で改訂する (revise) ことについてもっと解説してほしい。自己観察・記述のあり方が変化するのだろうか?
(b) おざなりのことばでしか自分を語れず書くことが自己改革につながらない人もいるのに、なぜ自己変革につながるような自己観察・記述ができたのか?
(c) まったく経験もないしメンターも周りにいない人が実践について書いてゆきたいとしたらどのような助言をするのか?

これらの質問は、フォーラムの一ヶ月前に第二・第三著者に提示された。その際、第一・第四著者はこれらの質問をした背景や自分なりの考えも提示したが、それには拘らずそれらを否定することも歓迎するという当初からの相互確認を繰り返した。第二・第三著者からの返答は、フォーラム当日に初めてすることとし、第二・第三著者がよく考えたことを、フォーラムまでにさらに高めた相互信頼関係の中で、フォーラム当日に、ニュアンスを伝えやすい口頭言語で発表し語り合うこととした。

3.2  フォーラムでの対話とその分析

  上記の流れを受けて、フォーラムでの対話が行われたが、ここではその当日の対話を概括して報告する。

(a) 改訂について

  前節に掲載した(a)の質問の背景として第四著者は、社会学者ルーマンの二次的観察・記述の理論について簡単に触れ、(i) 時間をかけて目前に自らの言語表現を視覚化する、書くという行為は、自分が書いたことを観察する行為(リフレクション)でもあり、(ii) その自己観察からさらなる分析と思考が促され、(iii) その分析と思考から「ありえたかもしれない」現実の可能性が浮かび上がり、その結果第三著者の述懐にあったような「自分が見えたことだけが現実ではない」という認識も生じうるのではないかと説明した。さらに、第二著者の四段階の書き分けにおける改訂は、改訂の二次的観察・記述性が極めて明確ではないのか、と問うた。つまり、少なからずの人にとっての改訂が、誤字脱字や「てにをは」のチェックにとどまるのは、自己観察(およびそこから生じる分析と思考)が十分でないからであろうが、第二著者は、書くことを明確に四段階(メモ・実践記録・ブログ・発表資料)に分けて、それぞれの段階での目的と読み手を明確に想定しているから、自己観察と分析・思考が促されているのではないか、という趣旨説明であった。

  それに対する第二著者の最初の答えは「そう言われればそうかもしれない」であり、続けて第二著者は「書く時から、予め後で自分が読み返したくなる・読み返しやすくなるように、他人でも読みたくなる・読みやすいように、タイトル・目次・表現をつける(ただし最初の段階のメモはとにかくひたすら書く)」など改訂の具体について説明した。さらに対話を重ねる中で第二著者は、「師匠」と仰ぐ(インフォーマルな関係での)メンターの「書いたら、批判的な読者を想定して、その人ならどう言うだろうということを想像しながら、読み直し改訂せよ」と口癖のように言われていたことを述懐した。

  この具体的工夫の説明とメンターの口癖は、それぞれ「未来の先取り」と「二次的観察の象徴的人格化」とまとめられるかもしれない。つまり第二著者は、四段階の書き分けを習慣化することにより、既に書く時点において、書かれた文章が読まれる未来の時点を先取りし、かつその読みを行う人物を「批判的読者」として象徴的に概念化していると解釈できるだろう。

(b) 自己改革につながる自己観察・記述について

  質問 (b) の背景として、第四著者は「自分に向き合う」ことは多くの神話や物語で鏡などのイメージで語られていることであり、人間にとって決して容易なことでないと考えられると述べ、多くの人間は自らについて書こうとしても固定的なおざなりのパターン(例、愚痴や自己憐憫など)で書いてしまう中、なぜ第三著者は、正面から向き合うことが苦しくなるぐらいの自己観察・記述ができたのか、あるいはそれはそのような自己観察・記述を「やっちゃった」のか、と尋ねた。

  それに対して第三著者は第一声で「『やっちゃった』のかもしれない」と苦笑しながら答えた(このように口語やパラ言語的表現でニュアンスを伝えやすいのが直接対話の長所である)。第三著者のそれからの発言は、最初はA4ノートに3分の1ページも書けなかった自分が今では平気で2,3ページ書けるようになったかの自己分析であった。第三著者は、書けない自分に直面し自分には観察力がないと思っている時に、第三著者の授業風景を観察した者に「生徒を見ていないのでは」と指摘され驚いた。というのも第三著者の自己認識は「自分は生徒のことを見ている」であったからである。そこから一方では「見る」とは何かについて考えながら、他方でジャーナルを「書くために見る」ようになった。つまり以前は「生徒のA君が寝ていた」だけであった「見る」ことを、授業の様子をより具体的にジャーナルに書くために、「どの授業の流れで、どのくらいの時間、どのような様子で寝ていた」と「見る」ことがより具体的にそして冷静になっていった。おそらくはその具体的で冷静な観察により、第三著者はさらに、「寝ている生徒を起こすにも、やり方次第でうまくもゆけば逆効果にもなるだろう。それならば○○のように起こしたならばどのようになるだろう」と、生徒の居眠りという教育的には否定的な事象に対して、想像的に知性を働かせ主体的に取り組むようにもなった。これについて第四著者は、実践について書くことを習慣化することにより、観察力が向上し、それにより分析的に思考して、その思考からいわばAction Researchのように授業改革の可能性を探求できる主体性が育ったのではないかと解釈し、第三著者もこの解釈を「そうかもしれない」と受容した。

  しかしこの高まった観察力・分析力・思考力を教室外でも使用してしまうことにより、第三著者はさまざまなことに気づき・検討し・究明しようとして、「気にしぃ」(=万事につけ気にし過ぎてしまう状態)に陥る。これが「やっちゃった」の含意である。だがこうなった時期は、大学院修了数ヶ月後で読み手としてのメンターを制度的に失った状態であった。本人はジャーナル・ライティングを大学院修了後も続けるべきという義務感を覚え、そのことにより一層の苦しさを感じていたが、大学院の同級生から「そんなら、書くのを止めたらいいやん」と(第三著者からすれば驚くほど)あっさり言われ、その解放感から涙を流した。夏休みに突入することもあり、結果的に書くことをしばらく休止した形になったが、9月からは制度的な読み手なしに、義務感からも解放されて、自分のために書くようになり、第三著者は今日までジャーナル・ライティングを続けている。鋭敏で的確な自己観察・記述は自己改革につながるものだが、他方で認知的・心理的負担にもつながり、「何のため」(あるいは「誰のため」)に書くかという基盤が揺らぐと、いたずらに本人を苦しめるものになると言えるかもしれない。

(c) メンターがいない状況でのジャーナル・ライティングについて

  教師集団が弱体化し教員が孤立する現状では、優れた「読み手」(第二著者なら「師匠」、第三著者ならメンター)をもつことは容易ではない。故に、周りに読み手がいない状況でジャーナル・ライティングを行うとしたらどのような助言をするかというのが、元中学教員の第一著者の問いであった。

  これに対して第二著者は、書かないと自らの実践は残らないし、残らないと改善を考えることもできないのだから、「ぜひ書いてみよう」と述べた。しかしそれに続けて「何のために書くか」を明確にしないと書くことの焦点が定まらないし、ブログなどの一般に公開された媒体では、否定的な言辞を誤解されて社会的な問題を起こしかねないことに注意を喚起した。また一教師としての自分が感じて考えることは、他の誰もが経験しないことなのだから、その個性を有限の人生時間の中で育ててゆく意義を説き、書くことによる「自己更新」感の喜びを対話者と聴衆に伝えた。

  第三著者は、授業改善のためなのか、自分をより知るためなのか、というように目的次第で自分の助言は変わってくると、やはり書く目的の重要性を述べた。逆に言うなら自発的な目的なしに「流行っているから・いいと言われているから」と書き始めても長続きしないだろうということである。さらに第三著者は、メンターが大学院の指導教師であったが、それ以上に「読み手」であったことが決定的に重要だったと述懐した。この場合の「読み手」とは、書かれていることのより詳細な具体的事実やその背景の心情や考えを尋ねることはあっても、「そういう時にはこうすればいい」「それはこう考えろ」などと望まれてもいない助言や忠告をしない人間である。ジャーナルを読む人間が、もっぱら助言者や忠告者であれば自分は書き続けることはできなかったと第三著者は考えている。「それではそのような『読み手』を見つけるにはどうしたらよい」という第四著者の質問に、「それが簡単にわかれば苦労しない」と苦笑しつつも、一言で言うなら「相性」や「匂い」で直感を働かせながら近づき、お互いにだんだんと関係を親しくしつつ、読んでもらう(あるいはお互いに読み合う)ことを助言した。第四著者は、「匂い」などと論文に書けば量的研究だけを信奉する査読者には罵倒されるが、と言い会場を笑わせた後、「匂い」といった主観を神秘化したり特権化したりしてはいけないが、主観(あるいは相互主観)は私たちの否定できない側面であることを強調した。

  これらの登壇者間の対話を終えたあと、フォーラムでは、予定よりも多く40分の時間をとり、聴衆との対話を試みた。以下は、その一部の概要である。

(d) 書くことの目的・内容・読み手・書き手・媒体の相互関連性について

  第一質問者は「本当に書きたいこと」があればどの媒体に書くかと尋ねた。個人日記のようにして書けば否定的なことばかりになりがちだし、かといってSNSなどに書くとなればプライバシーや守秘義務についての格別な配慮がいるという自身の経験を踏まえての質問だった。しかし「本当に書きたいこと」というのは、少なくとも第三著者にとっては理解し難い概念であった。第三著者にとって「本当に書きたいこと」とは、誰を読者として考えるかによって初めて定まることだからである。第一質問者の「広く一般に伝えたいこと」であるという補足説明を受け、第二著者は「即時性ならブログ。長い目で見れば書籍」、第四著者は「少なくとも3~5倍、ひょっとしたら10倍ぐらい時間がかかるが学術的内容なら英語ブログ」と答えた。しかし第四著者は、他の英語教育関係者からの、英語表現の巧拙・間違いだけに集中した否定的なコメントに苦しんだ経験を語った。上掲の表でも第二・第三著者ともに、広い読者層を求めるなら日本語で書く、と述べていることからしても、「コミュニケーションのための英語」というスローガンとは裏腹に、英語教師の実人生においては、英語がコミュニケーションのための言語としては十分に認識されていないことがうかがわれる。

  第二質問者は、原理的解明を目指すというフォーラムの趣旨を理解した上で、やはり具体的なテクスト(書かれた内容)を知りたいと要望し、第二・第三著者は、公開に差し障りがない範囲で具体的内容を口頭で紹介した(ただし第三著者は、もともと書かれた英語をそのまま読み上げることなく、日本語に抄訳して紹介するコミュニケーションを選んだ)。この具体的内容の共有の後、第二質問者は、具体的な内容を読み手が読むことにより読み手が成長し、読み手が成長することで書き手も成長できるのではないかと指摘した。

(e) 登場人物を実名で書くことについて

  上記の具体的内容の共有において、登壇者はもちろん登場人物(生徒)の名前は匿名・仮名にしたが、第三著者は、自らの記述では登場人物の名前をすべて実名で書いており、それにより記述が一気にダイナミックになることを説明した。第二著者も最初は自分専用のテクストでも匿名・仮名を使っていたのだが、それだとその後に読み返した時に、誰のことかわからなくなってしまった。そこで実名での記述を開始したところ、想起に容易なだけでなく、何より記述の生き生きさがまったく別物になったという(実践記述に際しての実名使用に関しては、寺島 (2002) にも同様の指摘(「生徒の顔が見えるようにすること」がある)。

(f) 書くことから生じるヤル気・冷静さ・勇気

  第三質問者は、ジャーナル・ライティングが、精神的安定やヤル気以外にも、問題への冷静な対応を生み出しているのではないかと尋ねた。これに対して第三著者は、自ら書いて考えたことによって、考え抜いたという静かな自信があるので、これ以上は当人に聞いてみるしかないと冷静に問題行動を起こす生徒に何が問題なのかを尋ねる勇気が定まると答えた(ただし問題行動を起こす生徒は、たいてい教師に怒られると思い込んでいるので、尋ねることは必ずしも容易ではないと付け加えた)。第二著者は、問題について書いているといつのまにか解決方法が浮かんでくるのは不思議なぐらい多いとも述べた。このようなジャーナル・ライティングの有効性を受けて、第四質問者は、ジャーナル・ライティングは教師の仕事の一つとして、その時間を制度的に保障してもいいのではないかと問題提起をしたが、残念ながらそれを検討する時間はフォーラムには残されていなかった。


4 結論

  本研究の課題は、実践者がジャーナル・ライティングの自己観察・自己記述において、観察力・分析力・思考力をどう育むかを理論的に解明することであったが、それについては3.1を受けての3.2において、以下のような知見が得られた。(a) 改訂に習熟することにより、しばしば「二次的観察の象徴的人格化」が起こり、書く際に過去を振り返るだけでなく「未来の先取り」もできるようになり自らの実践を俯瞰できるようになる。(b) しかし自己改革につながるジャーナル・ライティングは時に認知的・心理的負担につながりかねないので、何のために書くのかという基盤をはっきりさせなくてはならない。(c) 助言や忠告よりも理解を求める「よい読み手」がいるに越したことはないが、よい読み手がいなくても目的意識をはっきりさせてジャーナル・ライティングをとりあえず始めてみることは推奨できる。(e) 例えば臨床心理学界にケース記述の文化があるように、これからは英語教育界でもプライバシーや守秘義務などを考慮した上での豊かな記述のための文化を構築し共有してゆく必要がある。(f) ジャーナル・ライティングを、実践者に精神的安定やヤル気だけでなく冷静さや勇気をもたらす実践と考えるなら、その機会を実践者に(制度的に)保障するべきだろうが、その前にさらにジャーナル・ライティングを実証的かつ理論的に研究して、ジャーナル・ライティングに対する理解を深める必要がある。




1  佐藤(2009)は、大学研究者が小中高の現場教師の授業の「良い点・悪い点」を指摘し「指導」する権力構図が、現場の理解を阻害することを指摘し、自らの圧倒的な現場体験からも大学研究者は現場教師をまず理解しなければならないと説いている。

2  (1)~(3)のデータについては著者名を匿名化した上でWeb上に掲載し、本研究の信頼性の担保のための一助としている(https://www.box.com/s/r36eh8joggkaj33kfpfu)。


引用文献

Yoshida, T., Imai, H., Nakata, Y., Takeuchi, O., and Tamai, K. (2009). Researching Language Teaching and Learning: An Integration of Practice and Theory. New York: Peter Lang.

浦野研.(2012).「課題別研究プロジェクト:英語教育研究法の過去・現在・未来」(第42回中部地区英語教育学会岐阜大会口頭発表資料).

鯨岡峻.(2005).『エピソード記述入門 実践と質的研究のために』東京:東京大学出版会.

佐藤学.(2009).『教師花伝書』東京:小学館.

佐野真之.(2000).『アクション・リサーチのすすめ』東京:大修館書店.

佐野正之.(2005).『はじめてのアクション・リサーチ』東京:大修館書店.

高橋一幸.(2011).『成長する英語教師』東京:大修館書店.

竹内理・水本篤(編著).(2012).『外国語教育研究ハンドブック』東京:松柏社.

寺島隆吉 .(2002).『英語にとって「評価」とは何か?』岐阜:あすなろ社.

S.B.メリアム(著)、堀薫夫、久保真人、成島美弥(訳).(2004).『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』京都:ミネルヴァ書房.

文部科学省.(2006a).「中央審議会(答申)今後の教員養成・免許制度の在り方について」(最終閲覧日:2012年9月30日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06071910/003.htm

文部科学省.(2006b).「文部科学省教員勤務実態調査」(最終閲覧日:2012年6月8日)http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/icsFiles/afieldfile/2010/09/22/1297939_09.pdf 
 
柳瀬陽介.(2009).「質的研究のあり方について」吉田達弘・横溝紳一郎・今井裕之・玉井健・柳瀬陽介(編).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』309-325.東京:ひつじ書房.

柳瀬陽介.(2012a).「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」『中国地区英語教育学会研究紀要』42,51-60.

柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編).(2012b).『成長する英語教師をめざして』東京:ひつじ書房.

山崎準二・榊原禎宏・辻野けんま.(2012).『「考える教師」―省察、創造、実践する教師―』東京:学文社.

追記:本研究は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 






2013年8月6日火曜日

アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫



[この記事は、8/10の全国英語教育学会シンポでの発表のための基礎ノートとして作りました]

佐伯啓思先生の『貨幣と欲望』を読んでアダム・スミスに興味が出て、出たばかりの『道徳感情論』新訳である本書を出張の行き帰りの新幹線で読んだらとても面白く、リフレクションやコミュニケーションについていろいろ洞察を深められると感じました。

本書の翻訳は非常に丁寧で親切であり、この世界的古典が読みやすい日本語で読めるようになったことに対して、私は一読者として心から感謝します(多くの世界の古典が文庫本で読める日本はなんと文化的な国でしょう!私は皮肉でなくそう思っています)。

ですが、この記事では、私なりの用語法と一貫させるため、この新訳の翻訳語とは異なった翻訳語も使うことにします。

また、著作権自由の原典は


Library of Economics and Liberty



から引用しました。
引用の節番号はこのサイトのものです(翻訳書は少し異なる節番号を使用していますが、両者の間の関係はわかりやすいものですから、いちいち翻訳書の節番号を併記することは割愛しました)。

以下、私の関心からのまとめを書きますが、その前に用語の整理をしておきます。これらは重要な語であり、かつ、いくつかは翻訳書とは異なる表現を使っていますので、予め私なりに用語の定義をしておく次第です。

(a) 情動 (emotion)

私はダマシオの神経科学理論で使われている意味の用語として読み、かつ、その意味でこの本を読み通すことができたと信じていますので、この「情動」とは、「感情」より根源的なもので、主に身体で生じるものと定義しておきます。


(b) 感情  (feeling)

 これもダマシオの用語法で私は理解し、根源的で身体的な「情動」を意識で感知したものと定義しておきます。


(c) 情感 (affection)

あまり出てこない用語ですが、私はこれもダマシオに倣い、「情動」と「感情」を総称する語として使っています。


(d) 情操 (sentiment) 

これは原典の題名(The Theory of Moral Sentiment)でも使われている語であり、"sentiment"は、翻訳では「感情」と訳されることが通常ですが、私は上記の "feeling"との差異を明確にしたかったので「情操」と訳しました(ですから私なりにこの書の題名を翻訳すると『道徳的情操の理論』となります)。私はこの語を、「情動」「感情」「気持ち」「共感」「連帯感」などを総称する語として理解しています。


(e) 感覚 (sense, sensation)

"Sense"を「知覚されたさまざまな情操」、"sensation"を「さまざまな情操を知覚すること」として私は理解しています。


(f) 気持ち(passion)

翻訳書では「激情」と訳されていますが、原文(といっても私は以下に引用した箇所を読んだだけです)を読むと、日本語でいう「激情」ではない意味で使われている箇所もありますので、この語は「激情」よりは広い一般的な意味で使われ、"the state or capacity of being acted on by external agents or forces"  (Merriam-Webster) ぐらいを意味するのかと考え、日本語で広い意味を有し、かつ自らの意思で生じさせるものでなく、どこからかやってくる・湧いてくるものである「気持ち」という表現を使うこととしました。


(g) 共感 (sympathy)

この書での重要語です。詳しい意味は以下のまとめで説明しますが、一言でまとめるなら「身体もしくは想像力を基盤とする他者との社会的な連帯感」ぐらいになると理解しています。


(h) 連帯感 (fellow-feeling)

翻訳書は「一体感」と訳していてこれはうまい訳語だと思いましたが、他者との間にどうしても残らざるを得ない差異を強調したかったので「連帯感」と訳すことにしました。


(i) 適合性 (propriety)

「ぴったりと合っている感覚」で、計算や検証によるものではなく、身体的・直感的に感じるものと私は理解しています。

(j) 感性 (sensibility)

カントの『純粋理性批判』の三区分である「感性・知性・理性」、"seisibility, understanding, reason" (Sinnlichkeit, Verstand, Vernunft)の意味での「感性」として理解しています。



それでは以下、『道徳的情操の理論』の私なりのまとめを簡単に書きます。日本語は原典の引用に基いていますが、私なりのまとめ方をしたものであり、抄訳とも呼べないぐらいの変容を経たものです。この本にご興味を持たれた方は、必ず信頼できるこの翻訳書と原典をご自身でチェックしてください。なお、※の箇所は私の蛇足的補足です。



*****


『道徳的情操の理論』



1 道徳は情操に基づく

1.1 私たちは一般規則を考慮して道徳的に行動するのではなく、経験により道徳的情操を学び、その情操に基いて道徳的に行動する。道徳の一般規則とは情操から反省的に形成されたものにすぎない。

It is thus that the general rules of morality are formed. They are ultimately founded upon experience of what, in particular instances, our moral faculties, our natural sense of merit and propriety, approve, or disapprove of. We do not originally approve or condemn particular actions; because, upon examination, they appear to be agreeable or inconsistent with a certain general rule. The general rule, on the contrary, is formed, by finding from experience, that all actions of a certain kind, or circumstanced in a certain manner, are approved or disapproved of.
III.I.95
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS3.html#firstpage-bar

※やはりこの本も大陸合理論への批判として書かれたのか。


2 共感は、身体もしくは想像力を基盤とする他者との社会的な連帯感である

2.1 共感は、何らかの気持ちを伴っての連帯感である

Pity and compassion are words appropriated to signify our fellow-feeling with the sorrow of others. Sympathy, though its meaning was, perhaps, originally the same, may now, however, without much impropriety, be made use of to denote our fellow-feeling with any passion whatever.
I.I.5
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※ここでの「連帯感」が社会性を表現しているが、後に記すようにアダム・スミスは社会性を非常に重視している。


2.2 共感は身体と想像力を基盤とする

How selfish soever man may be supposed, there are evidently some principles in his nature, which interest him in the fortune of others, and render their happiness necessary to him, though he derives nothing from it except the pleasure of seeing it. Of this kind is pity or compassion, the emotion which we feel for the misery of others, when we either see it, or are made to conceive it in a very lively manner. That we often derive sorrow from the sorrow of others, is a matter of fact too obvious to require any instances to prove it; for this sentiment, like all the other original passions of human nature, is by no means confined to the virtuous and humane, though they perhaps may feel it with the most exquisite sensibility. The greatest ruffian, the most hardened violator of the laws of society, is not altogether without it.
I.I.1
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※原著の冒頭段落であり、後に「共感」とほぼ同意とされる「哀れみ」 (pity) や「同情」 (compassion)  ― どちらも「情動」― は、万人が有する人間の原理 (principle)だとしている。これは見るだけで身体に感じられたり、想像力で感じられたりするものだとしているが、身体も想像力も通常は大陸合理論では軽視されがちであること(そして現代の合理性の考えでも軽視されがちであること)に注意。


2.2.1 共感は、瞬時に生じることもある

Upon some occasions sympathy may seem to arise merely from the view of a certain emotion in another person. The passions, upon some occasions, may seem to be transfused from one man to another, instantaneously and antecedent to any knowledge of what excited them in the person principally concerned.
I.I.6
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※現在流行りの概念を臆面もなく使えば、いわゆるミラーニューロンの働きによる共感と言えるかもしれない。


2.2.2 情動は想像力からも生じる

By the imagination we place ourselves in his situation, we conceive ourselves enduring all the same torments, we enter as it were into his body, and become in some measure the same person with him, and thence form some idea of his sensations, and even feel something which, though weaker in degree, is not altogether unlike them.
I.I.2
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※ここでいう「想像力」とは、他人の身になって考えることであり、それにより、他人が感じているはずの感覚をある程度自分も感じることができるとアダム・スミスは主張している。(ちなみに18世紀のこの本に、現代の実験心理学的証拠を求めるべくもないが、彼が引用するさまざまな事例からこの本は「偉大なる人間観察の書」として古典的価値をもっていると思わざるを得ない)。


3 共感は人間の喜びであり、諸判断の基盤である

※理性でなく、身体や想像力に基づく共感という情感が諸判断の基盤であるというのがアダム・スミスのもっとも主張したいことだと私は理解している。


3.1 自らの身体の情動と他人が示す感情が一致する共感ほど喜ばしいものはない

But whatever may be the cause of sympathy, or however it may be excited, nothing pleases us more than to observe in other men a fellow-feeling with all the emotions of our own breast; nor are we ever so much shocked as by the appearance of the contrary.
I.I.14
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※「情動」と「感情」は、ダマシオの用語法と同じように使い分けられている。

3.1.1 自らの身体の情動がたとえ小さくとも、それが他人の示す感情と一致するなら人間は喜びを感じる。

When we have read a book or poem so often that we can no longer find any amusement in reading it by ourselves, we can still take pleasure in reading it to a companion. To him it has all the graces of novelty; we enter into the surprise and admiration which it naturally excites in him, but which it is no longer capable of exciting in us; we consider all the ideas which it presents rather in the light in which they appear to him, than in that in which they appear to ourselves, and we are amused by sympathy with his amusement which thus enlivens our own.
I.I.15
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※自らはよく知る本などを朗読し、それにより聞き手の感情が変わる経験を引用する点も、アダム・スミスの人間観察の確かさを示しているように思える。


3.2 正当性や適切性の判断は共感によるものである

When the original passions of the person principally concerned are in perfect concord with the sympathetic emotions of the spectator, they necessarily appear to this last just and proper, and suitable to their objects; and, on the contrary, when, upon bringing the case home to himself, he finds that they do not coincide with what he feels, they necessarily appear to him unjust and improper, and unsuitable to the causes which excite them. To approve of the passions of another, therefore, as suitable to their objects, is the same thing as to observe that we entirely sympathize with them; and not to approve of them as such, is the same thing as to observe that we do not entirely sympathize with them.
I.I.20
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※ここでいう"original passions"とは、「他人の身体内に生じた元々の気持ち」ぐらいの意味と解した。また"just"や"proper"の判断も大陸合理論などでは理性的な判断とされがちであることに注意。


3.3 共感が想像力によって生じるとすれば、その想像力は、公平な観察者によるものでなければならない。

The compassion of the spectator must arise altogether from the consideration of what he himself would feel if he was reduced to the same unhappy situation, and, what perhaps is impossible, was at the same time able to regard it with his present reason and judgment.
I.I.11
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※この引用箇所では「公平な」(impartial)という形容詞は使われていないが、後には「公平な観察者」 (impartial spectator) という表現が多用される。

3.3.1 感謝や憤りが適切であるかどうかの判断も、公平な観察者の共感に基づく

But these, as well as all the other passions of human nature, seem proper and are approved of, when the heart of every impartial spectator entirely sympathizes with them, when every indifferent by-stander entirely enters into, and goes along with them.
II.I.11
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS2.html#firstpage-bar

※ここでは「公平な観察者」の同意表現として「利害のない傍観者」 (indifferent by-stander) という表現も使われている ― ここでの"indifferent"は"marked by impartiality : unbiased" (Merriam-Webster)の意味と解した。

3.3.2 適切な自己肯定 (self-approbation) や自己否定 (self-disapprobation) のためにも公平な観察者は必要

The principle by which we naturally either approve or disapprove of our own conduct, seems to be altogether the same with that by which we exercise the like judgments concerning the conduct of other people. We either approve or disapprove of the conduct of another man according as we feel that, when we bring his case home to ourselves, we either can or cannot entirely sympathize with the sentiments and motives which directed it. And, in the same manner, we either approve or disapprove of our own conduct, according as we feel that, when we place ourselves in the situation of another man, and view it, as it were, with his eyes and from his station, we either can or cannot entirely enter into and sympathize with the sentiments and motives which influenced it. We can never survey our own sentiments and motives, we can never form any judgment concerning them; unless we remove ourselves, as it were, from our own natural station, and endeavour to view them as at a certain distance from us. But we can do this in no other way than by endeavouring to view them with the eyes of other people, or as other people are likely to view them. Whatever judgment we can form concerning them, accordingly, must always bear some secret reference, either to what are, or to what, upon a certain condition, would be, or to what, we imagine, ought to be the judgment of others. We endeavour to examine our own conduct as we imagine any other fair and impartial spectator would examine it. If, upon placing ourselves in his situation, we thoroughly enter into all the passions and motives which influenced it, we approve of it, by sympathy with the approbation of this supposed equitable judge. If otherwise, we enter into his disapprobation, and condemn it.
III.I.2
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS3.html#firstpage-bar

※ここでは、人間は社会的な交流(コミュニケーション)を通じて、まず他人について判断することを学び、その過程で生じた(公平な)観察者の意識から自分について判断するようになるという順序も示されている点に注意。


4 相互に共感しようとする中で、「公平な観察者」の意識が生じる

※相互に共感しあえる関係をもつためには、共感しようとする者と共感されようとする者の双方が努力しなければならない。

4.0.1 共感するためには、観察者は、できるだけ観察対象者の身になって考えなければならない

In all such cases, that there may be some correspondence of sentiments between the spectator and the person principally concerned, the spectator must, first of all, endeavour, as much as he can, to put himself in the situation of the other, and to bring home to himself every little circumstance of distress which can possibly occur to the sufferer. He must adopt the whole case of his companion with all its minutest incidents; and strive to render as perfect as possible, that imaginary change of situation upon which his sympathy is founded.
I.I.35
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※想像力を使う共感は必ずしも自動的に生じるものではなく、観察者はできるだけ他人に身になるよう努めなければならない。

4.0.2 共感されるためには、自らの気持ちを観察者がついてこられるぐらいに抑えなければならない

He longs for that relief which nothing can afford him but the entire concord of the affections of the spectators with his own. To see the emotions of their hearts, in every respect, beat time to his own, in the violent and disagreeable passions, constitutes his sole consolation. But he can only hope to obtain this by lowering his passion to that pitch, in which the spectators are capable of going along with him. He must flatten, if I may be allowed to say so, the sharpness of its natural tone, in order to reduce it to harmony and concord with the emotions of those who are about him. What they feel, will, indeed, always be, in some respects, different from what he feels, and compassion can never be exactly the same with original sorrow; because the secret consciousness that the change of situations, from which the sympathetic sentiment arises, is but imaginary, not only lowers it in degree, but, in some measure, varies it in kind, and gives it a quite different modification. These two sentiments, however, may, it is evident, have such a correspondence with one another, as is sufficient for the harmony of society. Though they will never be unisons, they may be concords, and this is all that is wanted or required.
I.I.36
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※この努力から、自制の徳も生じる。アダム・スミスにとってよい社会とは、感性の調和により生じるものであるとも思える(規則への適合よりは、感性の働きを重視するこの発想は日本的な発想でもあると言えるだろうか)。


4.1 共感を得ようとする中で、人は自らの公平 (impartial) な観察者であろうとする意識をもつ

In order to produce this concord, as nature teaches the spectators to assume the circumstances of the person principally concerned, so she teaches this last in some measure to assume those of the spectators. As they are continually placing themselves in his situation, and thence conceiving emotions similar to what he feels; so he is as constantly placing himself in theirs, and thence conceiving some degree of that coolness about his own fortune, with which he is sensible that they will view it. As they are constantly considering what they themselves would feel, if they actually were the sufferers, so he is as constantly led to imagine in what manner he would be affected if he was only one of the spectators of his own situation. As their sympathy makes them look at it, in some measure, with his eyes, so his sympathy makes him look at it, in some measure, with theirs, especially when in their presence and acting under their observation: and as the reflected passion, which he thus conceives, is much weaker than the original one, it necessarily abates the violence of what he felt before he came into their presence, before he began to recollect in what manner they would be affected by it, and to view his situation in this candid and impartial light.
I.I.37
http://www.econlib.org/library/Smith/smMS1.html

※ここも日本的な言い方を臆面なく導入するなら、「思いやり」の大切を説いている箇所であるようにも思える。


4.2 私たちは単に称賛されて喜ぶだけではなく、称賛に値することをしたと自覚した時にも喜ぶ

As ignorant and groundless praise can give no solid joy, no satisfaction that will bear any serious examination, so, on the contrary, it often gives real comfort to reflect, that though no praise should actually be bestowed upon us, our conduct, however, has been such as to deserve it, and has been in every respect suitable to those measures and rules by which praise and approbation are naturally and commonly bestowed. We are pleased, not only with praise, but with having done what is praise-worthy.
III.I.12
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※公平な観察者の意識が自分の中で高まると、実在の他人からの承認だけでなく、公平な観察者からの承認も重要となってくる。もちろんこの観察者は一人よがりなものであってはならない。自らが想像する観察者の公平さを保つことは極めて困難であるが、それだけにそれを保とうとする人は人々に称賛されるとアダム・スミスは考えている。


5 公平な観察者の意識を自らの中に保つ人が有徳であるとされる

5.1 黄金律の補完:自分が人々に愛されている程度に、自ら自分を愛せ

And hence it is, that to feel much for others and little for ourselves, that to restrain our selfish, and to indulge our benevolent affections, constitutes the perfection of human nature; and can alone produce among mankind that harmony of sentiments and passions in which consists their whole grace and propriety. As to love our neighbour as we love ourselves is the great law of Christianity, so it is the great precept of nature to love ourselves only as we love our neighbour, or what comes to the same thing, as our neighbour is capable of loving us.
I.I.44
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※キリスト教の「自分を愛するのと同じように隣人(=他人)を愛しなさい」を補って、「しかし自分を愛するのは、隣人(=他人)が自分を愛してくれる程度の公正な愛でなければならない」としている(だが、これは律法的な戒律ではなく、社会的動物としての人間の性質が必然とすることである)。

5.1.1 社会的な人間は中庸に落ち着くことが結局一番快適

The propriety of every passion excited by objects peculiarly related to ourselves, the pitch which the spectator can go along with, must lie, it is evident, in a certain mediocrity. If the passion is too high, or if it is too low, he cannot enter into it. Grief and resentment for private misfortunes and injuries may easily, for example, be too high, and in the greater part of mankind they are so. They may likewise, though this more rarely happens, be too low. We denominate the excess, weakness and fury: and we call the defect stupidity, insensibility, and want of spirit. We can enter into neither of them, but are astonished and confounded to see them.
I.II.1
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※合理的計算を重んずる文化は時に中庸を軽んずるが、アダム・スミスは他の古今東西の常識知と同様に中庸の重要性を説く。


5.2 完全なる徳を有する人とは、他人の(身体的な)元々の感情と(想像力による)共感的な感情の両方に対して繊細な感性をもち、かつ、その感性を自分の元々の自己中心的な感情の制御につなぐことができる人のことである。

The man of the most perfect virtue, the man whom we naturally love and revere the most, is he who joins, to the most perfect command of his own original and selfish feelings, the most exquisite sensibility both to the original and sympathetic feelings of others.
III.I.77
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※これも日本的な言い方に換えるなら「他人の気持ちがよくわかる」ことの重要さを説いていると言える。


5.3 軸がぶれない人は、公平な観察者の判断を常に忘れない

The man of real constancy and firmness, the wise and just man who has been thoroughly bred in the great school of self-command, in the bustle and business of the world, exposed, perhaps, to the violence and injustice of faction, and to the hardships and hazards of war, maintains this control of his passive feelings upon all occasions; and whether in solitude or in society, wears nearly the same countenance, and is affected very nearly in the same manner. In success and in disappointment, in prosperity and in adversity, before friends and before enemies, he has often been under the necessity of supporting this manhood. He has never dared to forget for one moment the judgment which the impartial spectator would pass upon his sentiments and conduct. He has never dared to suffer the man within the breast to be absent one moment from his attention. With the eyes of this great inmate he has always been accustomed to regard whatever relates to himself. This habit has become perfectly familiar to him. He has been in the constant practice, and, indeed, under the constant necessity, of modelling, or of endeavouring to model, not only his outward conduct and behaviour, but, as much as he can, even his inward sentiments and feelings, according to those of this awful and respectable judge. He does not merely affect the sentiments of the impartial spectator. He really adopts them. He almost identifies himself with, he almost becomes himself that impartial spectator, and scarce even feels but as that great arbiter of his conduct directs him to feel.
III.I.67
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※ "The man of real constancy and firmness"を翻訳書は「志操堅固な人」と巧みに訳していたが、ここでは少し柔らかく「軸がぶれない人」と訳した。ここでの「軸がぶれない」とは「特定の教条に忠実」という意味でなく、「どんな状況下でも公平な観察者の目で自らを見ようとする」という意味であることに注意。


5.4 宗教は、神という公平な観察者の概念により、現世では慰めようのない人にも慰めを与えることができる

To persons in such unfortunate circumstances, that humble philosophy which confines its views to this life, can afford, perhaps, but little consolation. Every thing that could render either life or death respectable is taken from them. They are condemned to death and to everlasting infamy. Religion can alone afford them any effectual comfort. She alone can tell them, that it is of little importance what man may think of their conduct, while the all-seeing Judge of the world approves of it. She alone can present to them the view of another world; a world of more candour, humanity, and justice, than the present; where their innocence is in due time to be declared, and their virtue to be finally rewarded: and the same great principle which can alone strike terror into triumphant vice, affords the only effectual consolation to disgraced and insulted innocence.
III.I.19
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※一神教的な「神」の発明とは、やはりいろいろな意味で人類史を変える出来事だったと思える。



6 公平な観察者とコミュニケーション

6.1 自らを省みる時、自分は観察者と行為者 (agent) に分かれる(しかし、観察者である自分が行為者である自分を適切に評価することは極めて困難)。

When I endeavour to examine my own conduct, when I endeavour to pass sentence upon it, and either to approve or condemn it, it is evident that, in all such cases, I divide myself, as it were, into two persons; and that I, the examiner and judge, represent a different character from that other I, the person whose conduct is examined into and judged of. The first is the spectator, whose sentiments with regard to my own conduct I endeavour to enter into, by placing myself in his situation, and by considering how it would appear to me, when seen from that particular point of view. The second is the agent, the person whom I properly call myself, and of whose conduct, under the character of a spectator, I was endeavouring to form some opinion. The first is the judge; the second the person judged of. But that the judge should, in every respect, be the same with the person judged of, is as impossible, as that the cause should, in every respect, be the same with the effect.
III.I.6
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※リフレクションとは、行為者でしかなかった自分を、行為者の自分と観察者の自分に分化させることである。だが適切なリフレクションは容易なことではない。


6.2 他人との社会的交流からしか、自分を見る鏡 (公平な観察者)は生じない。

Were it possible that a human creature could grow up to manhood in some solitary place, without any communication with his own species, he could no more think of his own character, of the propriety or demerit of his own sentiments and conduct, of the beauty or deformity of his own mind, than of the beauty or deformity of his own face. All these are objects which he cannot easily see, which naturally he does not look at, and with regard to which he is provided with no mirror which can present them to his view. Bring him into society, and he is immediately provided with the mirror which he wanted before. It is placed in the countenance and behaviour of those he lives with, which always mark when they enter into, and when they disapprove of his sentiments; and it is here that he first views the propriety and impropriety of his own passions, the beauty and deformity of his own mind.
III.I.3
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※容易に観察できる他人について判断し、また他人同士の判断を観察することにより、私たちはようやく自分についても判断することを学ぶことができるようになる。こうなると社会的経験が極度に乏しい者の自己判断は怖いことがわかる。社交と会話は人間を正気に保つために必要である。


6.3 社会的コミュニケーションを経ずに、自らの政治的決定を至高と定める者ほど傲慢な者はいない

Some general, and even systematical, idea of the perfection of policy and law, may no doubt be necessary for directing the views of the statesman. But to insist upon establishing, and upon establishing all at once, and in spite of all opposition, every thing which that idea may seem to require, must often be the highest degree of arrogance. It is to erect his own judgment into the supreme standard of right and wrong. It is to fancy himself the only wise and worthy man in the commonwealth, and that his fellow-citizens should accommodate themselves to him and not he to them. It is upon this account, that of all political speculators, sovereign princes are by far the most dangerous. This arrogance is perfectly familiar to them. They entertain no doubt of the immense superiority of their own judgment.
VI.II.43
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※政治的判断とは、さまざまに異なる多くの人を巻き込む判断であるが、それを、社会的コミュニケーションを減ることなしに、特定個人が一人でしかも一気に決定できると思い上がることは傲慢であるだけでなく危険である。リフレクションにしても、コミュニケーションを必要とすると言えよう。


6.4 率直で開かれたコミュニケーションが共感そして道徳をもたらす

Frankness and openness conciliate confidence. We trust the man who seems willing to trust us. We see clearly, we think, the road by which he means to conduct us, and we abandon ourselves with pleasure to his guidance and direction. Reserve and concealment, on the contrary, call forth diffidence. We are afraid to follow the man who is going we do not know where. The great pleasure of conversation and society, besides, arises from a certain correspondence of sentiments and opinions, from a certain harmony of minds, which like so many musical instruments coincide and keep time with one another. But this most delightful harmony cannot be obtained unless there is a free communication of sentiments and opinions. We all desire, upon this account, to feel how each other is affected, to penetrate into each other's bosoms, and to observe the sentiments and affections which really subsist there. The man who indulges us in this natural passion, who invites us into his heart, who, as it were, sets open the gates of his breast to us, seems to exercise a species of hospitality more delightful than any other. No man, who is in ordinary good temper, can fail of pleasing, if he has the courage to utter his real sentiments as he feels them, and because he feels them. It is this unreserved sincerity which renders even the prattle of a child agreeable. How weak and imperfect soever the views of the open-hearted, we take pleasure to enter into them, and endeavour, as much as we can, to bring down our own understanding to the level of their capacities, and to regard every subject in the particular light in which they appear to have considered it.
VII.IV.28
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※お互いの気持ちと意見を率直に表現しながら、共感が深まることがコミュニケーションが目指すことと言えるかもしれない。そのようなコミュニケーションは人間の道徳性を促進し、よい社会の基盤となる。




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追記

この他にも、この本にはこれからの私の生き方の指針にしたいようなすばらしい記述が多くありましたが、今は時間がありませんので、その引用は割愛します。