2013年8月22日木曜日

Critical Applied LinguisticsとAlternative Approaches to SLAを学んだ学生さんの感想



前期の大学院(M1)の授業について、何人かの学生さんが感想を書いてくれたので、それをそのまま掲載します。授業では、Pennycook (2000) Critical Applied Linguistics (Routledge)とAtkinson (2011) Alternative Apporoaches to Second Language Acquisition (Routledge)を読みました。前者はCALx、後者はAASLAと略して呼んでいましたので、以下にもこの略号が出てきます。大変だっただろう授業についてきてくれた、院生の皆さんには感謝します。





YK君


授業全体を通して、私が学んだことを大きく2点あげると

1.「多角的な視点を得たこと」

2.「自分の日常に落として考えること」

の2つです。CALxであれAASLAであれ、本授業を通して、これまで私が当然だと思っていたこと(イデオロギー)を別な視点から再度考察する機会となりました。さらには、読書や先生のお話を通して得た概念を知識として留めておくだけではなく、生活に当てはめて考えることの大切さを経験させて頂きました。こうすることで、頭の中にどこかふわふわと浮いていた理解を、具体的なものとすることで、より地に足ついた解釈ができるようになった実感があります。

「多角的な視点を得たこと」

 結局のところ、ある一つの手段が全ての課題を包括的に解決するなんてことはなく、状況に応じて、様々な選択肢のメリット・デメリットを考慮した上で、バランスをとった意思決定をしようとする姿勢を持つことが重要だと言えるかと思います。そうした判断をより適切に行うためには、多角的な視点から情報を得たうえで、物事を捉えることが有益です。しかし、この授業を受ける前の私は、視野の狭い世界から物事を捉えていました。SLAについての捉え方を例に取りたいと思います。  

 私は学部3年生からSLAという分野について学んできました。そしてその学習で得たもののほとんどはCognitive Approachesを採択した研究に根付いた知識でしたし、それが"SLA"なのだと思い込んでいました。もちろん、これまでの研究は第二言語習得の一体系を明らかにする貴重な結果を残しており、その礎の上に私は研究をしているわけですから、全てを否定するつもりは全くありません。しかし、どこか現実離れした実験環境を生む研究手法や、過度の一般化(十数人の実験協力者で得られた結果からの行き過ぎた主張等)、またはそれらを基にした"効果的"と呼ばれる教授法等をこれまで鵜呑みにしていた自分を恐ろしく感じました。Rod Ellisが言っているのなら、Larsen-Freemanの論文ならと、あらゆる権威に対して批判的な目を向けず、ある意味家畜のように(言い過ぎ?)従っているだけだったのです。  

 こんな私にとって、特に今回の授業で印象に残っているのが、AASLAでのAlternative Approachesの存在です。従来の量的な研究から脱却し、観察やインタビューを通して質的に第二言語習得を捉えていくという観点は、個の要素を排除しないため、その実験協力者数は量的研究に比べ少ないにしろ、結果がより現実を反映したものとなる可能性を高めます。将来教員を志す私個人の感覚としては、クラス全体のテスト点数の傾向だけを見て指導を進めるスタイルよりも、生徒一人ひとりの性格や教室の環境を考慮した上で授業を考案していくスタイルのほうに魅力を感じます。なぜなら、後者のほうが、実際に授業を進めている自分や授業の雰囲気、「あの生徒にこの発問をふればうまく授業が盛り上がるだろう」といったことを、授業前に予測しやすくなると感じるからです。また、生徒個人を深く理解することは、授業だけでなく、生活指導・進路指導・家庭との連携等、他の様々な面でも必要とされることだからです。  

Alternative Approachesと向き合ったことは、これまで私がSLAに対して持っていたイデオロギーを崩し、別の視点から自分の研究を見つめなおすことにも繋がりました。第二言語習得研究の方法論を説く概説書を読んでも、その多くが量的な研究を主に紹介しており、その道をゆくことが王道だと思い込んでいた私にとって、質的研究の意義と可能性を示唆して頂いた本授業は、本当にありがたく、有益なものでした。院生活のはじめの時期にこうした視点を得られたことを、心底嬉しく思います。感謝申し上げます。

「自分の日常に落として考えること」

 これまでの私の学習スタイルは、授業中に出てきた例で表現すると、「点の学習」(個々の要素をバラバラに頭のなかに入れる学習)でした。しかし、思考するためには、「線(面)の学習」(個々の要素の関連の理解、さらにはそこから推測されること等に焦点化した学習。思考の訓練・土台となる。)が求められることを学びました。本授業過程の途中でこの考え方を知り、実際に予習をする中で知る概念を関連付けようと試みました。しかし、一つの概念に対しての理解が曖昧なまま他の概念と結びつけようとしても、うまくいくことは少なかったです。そこでその解決策として、思考を日常に落とし、一つ一つの概念を生活の中に当てはめていくメソッドを授業で学びました。こうすることで、概念解釈がより深く身近なものとなり、他概念との関連が構築しやすくなったと感じています。一つのことに対して充てる時間は少し多くかかりますが、これまでその手間を省いて非効率な時間の使い方をしていた以前の"学習"と比べれば、こちらのほうがより本来の学習と呼べるでしょう。  

 一つのことを深める術を知っていれば、そのノウハウを別のことに活かすことが可能です。例えば、ラグビー、バドミントン、ギター、バイト、麻雀等をそれぞれに突き詰めてきた友人の素晴らしい思考は、ある分野のノウハウを今回の授業に生かした成果と言えます。「表面的な学習に終始して何も残らなかった」では、せっかく院に来て2年も時間を与えられた身としてはあまりに悲惨過ぎます。これからの一つ一つの学習を深めることを大切にしていこうと、決意を新たにしています。





SS君


この授業を終えて、今CALxやAASLAを見ずに思い出せるのが以下の概念です。これらの概念については、自分なりにある程度理解していると思っています。

critique of pure reason / politics / power / intuition / epistemology / symbolic capital / voice(フレイレ) / self-regulation / dynamic assessment / complex systems

今ここに出てこない概念については、原書や授業ノートを読めば思い出すものが多いです。しかし、それらは腑に落ちて理解していないということかなと思います。

 これらの概念の理解に共通している要因は、  

①日常に落として自ら考えた

②他のM1生の予習・復習・発言に理解を助けられた

③授業中に先生が内容を扱ってくださったことと、ディスカッションを行ったこと


という3点ではないかと思います。

 ①点目に関しては、学部生の頃から先生に教わってきたことですが、今ようやくその習慣が身につきました。この授業の予習・復習はもちろん、N先生の授業・研究・部活中・友達と話すときでさえも、できるだけ自分の日常の中で考えるようにしました。その結果、今までの学習の部分部分がだんだんと統合されていく感覚を最近感じています。最後の授業の感想で「初めて勉強をしているような感覚」と申したのは、あらゆる学習が統合されていったということを意味しています。しかし、「今」の自分で深く理解し、思考し、統合させていくといった作業がまだ甘いとも感じているので、今後もっと思考力を磨いていく意志をもって院生活に臨みます。

 ②点目の「他のM1生の予習・復習・発言に助けられた」ことに関しては、M1生がいろいろな趣味をもち、それを授業内容に盛り込み、皆の理解が深まっていったことがすばらしいと思います。例えばA君はラグビー、B君はユニクロとギター、C君は麻雀…など、さまざまな視点から話を聞くことができました。皆予習・復習で、ある程度量を書いてくれるので、読んでいて楽しめました。自分も「適当なことは書けない」という思いでWebCTの投稿をした(ことがほとんどでした)。

 ③点目の「授業中で先生が内容を扱ってくださったことと、ディスカッションを行ったこと」に関しては、15回の授業全て、足りない思考力をフル回転させて臨みました。内容の難しさもありますが、先生の話すスピードが速いのと、ディスカッションや発言の機会が多いので常に思考し続けられました。先生の授業の速度はわたしにとって心地よく、思考を続けるのに適度なスピードでありました(ごくたまに置いていかれました)。ディスカッションに関しては、授業という形式ではよくわたしを含め生徒はListenersになってしまいます。しかし、ディスカッションや発言機会の多さによって、この授業では常にparticipantsでいることができました。こういったことがあって、授業を通して思考を続けられたのだと思っております。

 以上3点が、わたしが新たな概念を獲得すること、あるいはきちんと思考する訓練につながった要因でした。こういったことを残りの院生活で継続・発展させていきたいと思います。

短い感想で申し訳ございません。この授業を院の1期目で受けられて本当に幸運だと思っております。夏休みは遊びに没頭することなく、研究を進めることを中心に思考し続けようと思います。来期もよろしくお願いいたします。





UK君


この授業で一番参考になったのは、『「ある」ものから「ない」ものを考える』という、思考の手順について教わったことです。以下では、①「ある」ものについて深く考え②そこから「ない」ものを生み出すことについて、自分の専門であるラグビーのコーチング、そして少しではありますが、英語教育と絡めて書きたいと思います。

まずは思考の最初の段階である、①「ある」ものについて深く考えることについて書きたいと思います。プロのでも学生のでも、ラグビーの試合を見るときに重要なのは、対戦チーム同士が何に意図的にこだわっているかに気づくことです。これはあらかじめ対戦チームに関する情報を仕入れておくことによっても可能ですが、前情報が無いチーム同士の試合を見る場合は「繰り返されているプレー」に着目することです。その内容は、チームとしてのボールの動かし方の順番のように大きな枠組みの場合もあれば、特殊なタックルの仕方のように小さい枠組みの場合と様々なものがあります。(逆に、これらのようなこだわりが見られなければ、そのチームの監督は自身の経験と精神論だけに基づいて、オーソドックスで無意図なラグビーを指導しているということです。)繰り返されているプレーには必ず意図があり、そこには必ずある程度の原理・原則が根底にあり、プレーヤーたちはそれに基づいてプレーを行っています。

そして、意図的にこだわっている部分が見えて来たら、それらのプレーがどういう原理・原則に基づいて組み立てられているのかを、自分の既存の知識をフル活用させて考えることが重要です。例えば、ボールの動かし方の順番のこだわりを見て、それがどんなプレーヤーの動き方の規則によって組み立てられているのかを試合を見ながら何度も何度も考え、各チームのこだわりの下にある規則に気づくことができます。多くのプレーヤーや監督は、この原理・原則を見つけ出す段階にいくことなく、イイ!と思ったプレーをそのまま真似するので、上手くいかないことがほとんどです。これは栗田哲也さんの言葉を借りれば、「基層」の段階まで掘り下げて考えることだと思います。

「ある」プレーのこだわりと、その基層について考えることができたら、次に②「ない」ものを生み出すことを考えなくてはいけません。まず、「ない」ものを生み出すには、自チームの基層を把握しておくことが大前提です。その上で、あるチームのプレーの基層と自チームの基層を重ね合わせて考え、自チームの基層のどの部分をどの程度変えれば、そのプレーを取り入れることができるか、そしてそれは自チームの他のプレーに対してどういう影響を与えるかを考えます。例えば、あるチームのボールの動かし方の順番を取り入れると自チームのボールを動かす順番はどう変わり、それによって現段階で決まっている各プレーヤーの動き方はどう変化するかを考えます。自チームの基層をどの程度変えれば、あるチームのプレーを取り入れることができるかを考えることができたら、ようやくそのための練習メニュー計画を作ることができます。そうした綿密な考えの末に、どこのチームでも無い、「あるチームのプレーを取り入れた新しい自チーム」を作ることができます。

ここで注意しておかなくてはいけないのは、この②「ない」ものを生み出すには程度の段階があるということです。例えば、既存のオフェンスとディフェンスのシステムから新しいシステムを生み出すという高い程度のものと、あるチームがこだわっているプレーの基層にあるものと、自チームのプレーの基層にあるものを重ね合わせて考え、あるチームのプレーをそのまま真似するのではなく、自チームの基層に少しの上乗せをすることで、あるチームのこだわりのプレーの自チームバージョンを作るという、低い程度のものがあります。

これを少し英語教育、特に英語学習材開発の分野と重ね合わせて考えたいと思います。 教科書やワーク等自分以外の誰かによって提供されている教材は、いかに優れているとしても「ある」ものに過ぎません。それらを説明書に書かれている通り(教科書に載っている発問等)に使用するのでは、「ある」ものに従っているだけで、要は英語教師でなくでもできることだと思います。

そうではなく大事なのは、いかに「ある」ものから「ない」ものを生み出すかだと思います。例えば、教科書に用意されているピクチャーカードをそのまま使用して単語の勉強をするのではなく、教師自身が日常で撮影した写真を使って教科書では出会わない単語を勉強したり、教科書に書かれてある時刻を使用して時間の表現を練習するのではなく、教師自身にとって思い入れのある時刻または生徒にとってのそれを使うことで、伝えたい気持ちを喚起させて会話練習をする等、いかに「ない」ものを使って授業をするかが大事だと感じます。柳瀬先生が先日田邊先生(専修大学)の実践として授業で紹介されていたone word dialogueなども、A:No? B: No.というセリフ自体は「ある」ものに過ぎず、そこに個々の解釈を交えることで「ない」ものへと変化します。

ここまで書いてきたことは一般社会では「オリジナル」という言葉に集約されているのかもしれません。しかし、その言葉の根底にあるのは、ここまで書いて来た思考方法だと思います。私はこの授業を通して、自分なりの「オリジナル」を生み出すには突発的に「オリジナルを生み出そう」と考えるのではなく、「ある」ものの基層について考え「ない」ものを生み出すという過程があるのだと知ることができました。この思考方法を知ることができたのは、これから先の自分にとって本当に大きいものになるだろうと感じています。





FT君


2013年度前期の言語科学特論Ⅰを受講し、私がこの授業を通して学んだこと、苦労したことを感想として述べたいと思います。

 私はこの授業を通して、少なくとも以前より「考える」ことができるようになったと感じています。これまで私の授業の取り組み方は、予習範囲を一度だけ読み、ある程度大意が把握できたらよしという感じでした。よく分からないところは周囲の情報(文脈や談話構成など)からなんとなく推論し、わかったと思っているところも具体的な例を出して考えたりして深く読みこもうとしていませんでした。そのためか、予習をWebCTに投稿するために予習範囲で考えたことを言語化する際に毎回「もっとうまい言葉にできないかなー」と考えていることを丁寧に伝えることができないことに葛藤を覚えていました。また友人の投稿を読み「身近な経験と照らし合わせて本をこんなに深く読み込んでいるのか」と感嘆すると同時に、自らの「しっかり読めていない感」に情けなく思ったり、授業中の討議で自らの発言の浅さに嫌気が指すこともありました。あるとき、自分は抽象な議論を具体的な例あげて考えたり、またその具体例が適切に抽象的、一般的な概念を示す例となっているのかというふうに具体と抽象を行き来することができていないと気づきました。これを意識するようになってから、多少自分の投稿や発言が自分の考えに似た形で言語化されていくようになりました。具体と抽象を行き来することは「考える」ことの一つだと思います。抽象的な話をなんとなく「こういうことね」と単に受け入れることは「考えていない」と今では実感しています。今は以前の私がしてきたようなただ読み、なんとなく理解するレベルの予習ではできない、充実した知的な活動をしているなと感じられるようになってきました。当たり前のことですが、この授業に限らず、常に「考えて」いける人間でありたいと思っています。  

 上記のように本授業は私にとって全ての基礎となるものを学べた非常に有意義な授業であったと思っていますが、苦労したことをあげるとするならば、予習に非常に時間がかかりタイムマネジメントが大変であったということです。大学院で受講している他の授業に比べて、本授業は予習に最も時間のかかるものでした。もちろん時間をかけなければ「考える」こともできないし、時間のかからない効率的な方法のみでは学べないことを学ぶことができるとは思います。しかし、大学院の授業はどれも重たく予習復習に時間がかかり、その間を縫って研究もしなくてはならず、生きるためにバイトもして、さらにサークル活動や部活動をしていれば暇な時間はほとんどありません。来年度この授業を受講する方々に一つアドバイスするとすれば、この授業は予習に時間がかかるからタイムマネジメントはしっかりすべき、ということだと思います。  

 苦労も多い授業でしたが、何より学ぶことが多い授業でした。授業で扱った本の内容も言語を専攻する人として知っておくべき概念など充実したものでした。内容に限らず、「考える」ということそのものなど、この授業で学べたもの全て生かして、常に向上していけたらと思います。半期の授業ありがとうございました。  















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