2013年8月26日月曜日

自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで





私が『奇跡のリンゴ』で有名な木村秋則氏のことを強く意識するようになったのは、氏に一度ぜひお会いしたいと言っていた田尻悟郎先生の影響です。そんなこともあって『生徒の心に火をつける 英語教師田尻悟郎の挑戦』のエッセイでは私は庭師メタファーを使って田尻先生のことを説明しようとしました。











さて、この杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』(幻冬舎新書)は、2003年に木村氏と出会いそれ以来氏のリンゴ園を植物生態学者として観察している杉山修一先生(弘前大学農学生命科学部・生物学科)による「自然栽培」のわかりやすい解説書です。私は「教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」「農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?」など短い記事も書き、この方面への興味関心が高まっていたので、この本を町の書店で見つけてすぐに買い求めました ― 私は英語教育を説明するためにいろいろな領域をアナロジーやメタファーの源として使用していますが(参考「実践者として現場で考えるための方法論」「想像力と論理力の統合としての思考力について」)その領域の専門家ではありません。ただでさえ精確さを欠くといわれるアナロジーやメタファーを使う以上、せめて素人なりにでも少しはアナロジーやメタファーの源となった領域のことについては学ばねばと思っています。ただし「生兵法は大怪我のもと」ということばも忘れないようにしています―。

ここでは私なりにこの本をまとめます。といいましても、私はきちんとした自然科学のトレーニングを積んでいませんし、私の関心はもっぱら英語教育ですので、このまとめは不正確で歪んだものになっている可能性が十分にあります。ご興味をもった方は、必ずご自身で本書をお読みください。(もし、専門家の方がこの記事を読むことがあれば、ここにある誤解や間違いをご指摘いただければ大変に助かります。私は間違った情報を普及させたくはありませんので)。









■ 慣行栽培に至るまで

この本のテーマである「自然栽培」を理解するためには、その前に、現在の私たちが「これこそが農業」と信じて疑わくなった近代的な「慣行栽培」について理解しておく必要があります。慣行栽培の技術は、ごく単純にまとめるなら以下のような経緯を経て開発されてきました。

・近代的慣行栽培以前

ギリシャ・ローマ時代は2年1作が一般的。中世ヨーロッパでは有畜農業でムギと飼料用作物を交互に輪作し家畜の糞尿を堆肥として使う一方飼料作物(クローバ)で土壌の窒素を回復させていた。(29-30ページ)

・近代的な慣行栽培の始まり

19世紀半ばには窒素肥料が工業的に生産され(化学肥料)、19世紀末には農薬も使われるようになった。(31-32ページ)

緑の革命による飛躍的な収穫増

1950年代に、化学肥料製造法の発明、(化学肥料に適した)作物品種の改良、病原菌・害虫・雑草防止のための合成農薬の開発、灌漑などの農地整備などによる「緑の革命」がおこり、収穫高は有機農業時代の5倍になった。今は、もっぱらこの近代的方法を「慣行栽培」と呼ぶ。(32-34ページ)

・化学肥料の限界 

化学肥料の効果は数年間で悪くなることが多い。(81-82ページ)

このように、慣行栽培には収穫増大や(後に述べますように)マニュアル化が可能といったメリットがありますが、デメリットとしてはしばしば、単一作物を効率よく栽培(=「モノカルチャー」)しようと化学肥料と合成農薬を大量使うことにより、生物多様性が損なわれ病虫害にかえって弱くなることや、農業者の暮らしが市場の動向により左右され特に国際市場での動きにより零細農家が生き残れなくなるなどがあります(化学肥料・合成農薬を大量に使用する近代的な慣行栽培は、ほぼ単一栽培(モノカルチャー)とならざるを得ないのではないかと私は考えています)。



■ 慣行栽培、有機栽培、自然栽培、放置栽培

そのような化学肥料と合成農薬に依拠する慣行栽培に対する反省として出てきたのが有機栽培(有機農業)です。杉山先生は、自然栽培を、慣行栽培と有機栽培そして何もしない放置栽培と対比させて説明します。ここではその説明を私なりにまとめなおした表を提示します。



以下、簡単な説明を、本書を参照しながら加えます。

・慣行栽培も有機栽培も生産者中心

「慣行栽培、有機栽培ともに、生産者がゲームの主要なプレーヤー」(43ページ)だと、杉山先生は説明します。

・自然栽培と放置栽培は生物中心 

自然栽培と放置栽培では生産者ではなく生物が中心となります。杉山先生の「プレーヤー」の比喩(サッカーを思い出してください)を続ければ、自然栽培では、栽培地に住むすべての生き物がプレーヤーとなり、生産者はプレーヤーをやめ監督としてゲームに参加します。放置栽培は、生産者は監督としても参加せず、種をまいたら栽培地をほったらかしにするものです(42-43ページ)。(放置栽培を農業として行うことは現在ほとんどないかと思いますが、自然栽培を説明するための対比概念としては有効だと思います。

・自然栽培をするためには生態系の丹念な観察が必要

サッカーの監督に経験とゲームに対する深い知識が必要なのと同様に、自然栽培で生物を中心に作物を栽培しながらもできるだけ望ましい結果を得るには、相当に深い知識が必要です。「奇跡のリンゴ」の木村さんは、わずか3年間で自然栽培に成功しましたたが、この背景には慣行栽培から移行した有機栽培で8年間絶望的な失敗を続け、その間にリンゴ園の生態系を丹念に観察した知識と経験がある(45-46ページ)ことを忘れるべきではないでしょう。

・人間による適度な「攪乱」で里山は保全されている

撹乱とは生態学の専門用語で、突発的生物の一部あるいは全体が破壊されることを意味するが、日本の里山は人間が適度に攪乱することで維持してきた生態系である。里山では人間が森林では薪を採ったり草原では火入れや刈り取りをしたりして攪乱を頻繁に起こし、里山が森林に移行することを抑えてきた。(90-91ページ)

以上を踏まえて私なりに補足しながらまとめますと、自然栽培とは、農業者が化学肥料や合成農薬を使わずに、その場の生態系を丁寧に観察しながら適度に撹乱を引き起こし、その場にいるすべての生物(「生物群集」-植物、動物、菌類、原生生物等々)の相互関係的な力により特定の作物を栽培する方法といえるかもしれません。



■ 生物の力

・植物-土壌フィードバック、生物間相互作用ネットワーク、植物免疫

自然栽培とは「生物の力を利用する農業」と説明できるが、この場合の「生物の力」とは主に「植物-土壌フィードバック」(plant-soil feedback)、「生物間相互作用ネットワーク」、「植物免疫」の三つがある。(46-47ページ)



■ 生物の「競争」

「競争」ということばは教育界でもしばしば使われますが、ここでは生態学での「競争」の意味を確認します。

・生物間相互作用としての競争

生物の競争は、四つの主な生物間相互作用(競争、捕食、寄生、相利)のうちの一つである。(51ページ)

・「競争排除」とニッチ分化による共存 

同じニッチをもつ種は必ず競争し、その結果勝者と敗者に分かれて共存は不可能となるが(「競争排除」)、環境が複雑になると生物種は他の生物種との競争を避けることができる独自のニッチを見出し(「ニッチ分化」(niche differentiation))共存が可能になる。(55-56ページ)

・ニッチ分化と生態系資源の有効利用

ニッチ分化が進むと、多様な種の共存が可能になるだけでなく、生物群集全体が生態系の資源をより効率よく有効に利用するようになる。(62ページ)

ここから杉山先生ご自身が、生態学的な「競争」から人間社会の「競争」について考察を展開します。

生態学の研究が示すのは多様な環境の重要性です。生物は競争があることで多様な環境の中に自分に適した環境を見つけることができます。

競争は敗者を排除するプロセスではなく、多様な環境の中にそれぞれの生物の居場所をつくり出すプロセスといってもよいかもしれません。

つまり適者生存ではなく適材適所をつくるのが競争の役割です。

人間社会での競争による格差は、競争が原因というより多様な環境条件が欠如しているところに問題があるのではないでしょうか。(69-70ページ)


生態学での競争は、生物の「」の間の競争であり、人間社会の競争は人間という種の中での競争という違いはありますが、そこを敢えて無視してアナロジーを進めて私の考えをわずかに付け足しますと、人間社会の競争も、単一条件の中だけで個々人を競わせて勝者と敗者を作り出すような競争よりは、異なる種類の多くの条件を作った上で個々人を競わせてそれぞれに自分に最適な場を見出させ、それぞれがその他の場の人々と相互作用して社会全体が豊かになるような競争であった方がいいかとも思えます。

教育というのは、競争を制度的に作り出す機関でもありますから、「競争」をどう考えるかというのが非常に重要になります。

教育における競争は、もし設けるなら、多元的で多数の競争であるべき、という考えはしばらく私の仮説として抱き続け、私なりに人間社会の観察を続けたいと思います。



■ 分子生物学と生態学

・慣行栽培と自然栽培の違いは、分子生物学と生態学の違いに通じる

慣行栽培と自然栽培の考え方は根本的に異なりますが、この違いは分子生物学生態学の違いに相当します。分子生物学と生態学の代表的研究者として、1956年から1976年までハーバード大学の生物学部門に在職していたジェームズ・ワトソンエドワード・ウィルソンを挙げることができます(140-145ページ)。











分子生物学と生態学の対立の重要な側面は、(単純化がすぎるかもしれませんが)還元主義 (reductionism)全体論 (holism)の対立と言い換えることができるかと私は思っていますが、現代は還元主義の方が強すぎるように思えますので、生態学や全体論発想を大切にしたいと思います。



考えてみたら、「生態学」という用語はベイトソンギブソンLeo van Lierも使っています。私はこれらの研究者の著作に惹かれながらもまだきちんと勉強していませんでしたが、これらの著作の読解も生態学の理解と共に進めてゆければと思います。













■ 慣行栽培と自然栽培

・慣行栽培の詳細なマニュアルと自然栽培の要点の手引き

慣行栽培はトップダウン型システムの特徴をもち、栽培マニュアルに従って作業をすることで大きな失敗をすることはなくなります。他方、自然栽培はボトムアップで分散型システムの特徴をもちます。それぞれの土地によって異なり、時期によっても変化する多様な生物を相手にするからです。自然栽培では生産者の判断や能力が格段に重要になります。細かいマニュアルを作っても多様性や変化に対応できないわけですから、自然栽培では要点を書いた「手引き」を元にして後は農業者が観察を重ね適切な判断をすることが大切になります。(152-153ページ)




教育も自然栽培のように、一人ひとりの学習者(種)が学級・学校・地域社会という時空(生態系)で自分らしさを発揮できる場所(ニッチ)を見つけることを願い、それぞれがニッチで活躍しその活躍が他に伝播し相互作用が豊かに発展することを望むべきではないでしょうか。しかしそうなると教師は一人ひとりの学習者、学習者間の相互作用、さらには学習者以外のさまざまな要因(当該種以外の生物群集)との相互影響関係をきめ細かく観察し、適宜介入をして(撹乱)はその結果をさらに観察し、教師としての判断力と実行力を上げなければなりません。

自然栽培的な教育には長年の経験とその省察が必要です。マニュアル式の教育 ―学習者の個性を観察することなく、トップダウンに伝えられた教師中心のやり方で教え、 外発的動機づけといった化学肥料も使う方が楽です。

しかし、そういった学習者の個性を軽視し、一律に化学肥料と合成農薬 ―外的報酬と懲罰― で学習を促進させようとする教育は、学習者の潜在力を枯らし、年々と学びをやせ細らせ外的報酬と懲罰の効果も小さくし、学習者の中に学習を妨害しようとする動きを招いているのかもしれません。

マニュアル式の教育は、教員養成の点でも学習成果の点でも短期的にはうまくいっても、長期的にはうまくいかない方法ではないかと疑ってみることは必要ではないでしょうか。現在の私たちが、慣行栽培こそは農業と信じて疑わないように、トップダウンのマニュアル式教育こそが教育と私たちは思い込んでいないでしょうか。

しかし私は、冒頭にあげた田尻悟郎先生(参考:草稿:何がよい英語教師をつくるのか ―田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み―)や菊池省三先生、あるいは他のすぐれた先生方の実践を見ることにより、すぐれた教師 ―学習者を自律的にし、教師自身が驚くような学級集団を作り出す教師― は、生態学的なアプローチをとり、自然栽培的といっていい教育を行っていると考えるに至りました。

たしかに自然栽培的な教育には、長年の苦労から生まれる知恵が必要ですが、それだけにこのような教育をする教師には、教師であることの主体性と喜びが強く感じられます。教師がマニュアルを常に押し付けられ、そこから逸脱することを許されないなら、教師としてのやり甲斐は失われるでしょうが、一人ひとりの学習者を活かし他にはない学級集団を作り上げる教育を目指すなら苦労と共に深いやり甲斐が得られます。

少なくとも西洋近代化以前の日本では、学習者(弟子)の個性だけでなく、教師(師)の個性も地域の特性も活かした教育が行われていたと考えられます(「辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)」)。

私たちはもっと近代的な常識を疑い、脱近代 (postmodernity)、あるいはもう一つの近代 (altermodernity)を目指すべきではないでしょうか。





いや、いつも以上に与太話が過ぎました。

解毒の意味も込めて、先ほど大学生協書籍部で見つけて買った『森の力 ― 植物生態学者の理論と実践』のカバーに書いてあったことばを引用します。私もしっかりと学びの現場を観察しなければ。

若き日の師の教え

「お前はまだ人の話を聴くな。誰かが話したことの又聞きかもしれないぞ。お前はまだ本を読むな。そこに書いてあることは、誰かが書いたやつの引き写しかもしれないぞ。話はいつでも聞けるし、本はいつでも読める。大事なことは、部分的あるいは結論めいた話や本にあるのではない。

(中略)

見たまえ、この大地を。見たまえ、この自然を。ホンモノのいのちのドラマが目の前で展開しているではないか。

(中略)

お前はまず現場に出て、自分の身体を測定器にすればいいのだ。現場で、目で見、匂いを嗅ぎ、舐めて、触って、調べろ」 (本文では47-48ページ)








このような文章を、自ら実践する前に引用するとはバカの極みですが、それこそは私にふさわしい文章の終え方なのかもしれません。お粗末。













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