2013年9月20日金曜日

宮崎駿 『風立ちぬ』



[ 注意: 以下の文章にはネタバレの部分がありますし、論は中二病的展開となっております (汗) ]





宮崎駿のテーマの一つは原罪である。

『風の谷のナウシカ』では、巨神兵までも生み出した人間文明が、徹底的に地球生態系を破壊してしまった世界が背景となっている。

『もののけ姫』では、製鉄のため森林伐採する人々、不老不死の力を求めシシ神の首を狙う人々が主要人物として描かれる。

いずれの世界においても、人間とはそのような所業を行わずにはいられないものだといった世界観が表現されている。知識によって増大された欲望をもった人間は、生きる限り、自然を破壊し、聖性を蹂躙し、お互いを傷つけ殺しあうことを避けられないのではないか ―そういった原罪を避けられないのではないか― という問いかけが宮崎作品の中にはある。

今回の『風立ちぬ』は、原罪が人間社会のレベルではなく、主人公 ―宮崎駿の投影ではあるが、決して本人自身ではない― が有するものとして描かれている。そして主人公はナウシカやアシタカのように、人間の原罪を償い、この世を調停することもできない。いや、しようともしない。

といっても、主人公の堀越二郎 ― 実在した堀越二郎のイメージに基づいて創られた人物であり、決して実在の堀越二郎ではない ― は、強欲な人物ではない。幼少の頃はいじめられる下級生を助け、しかしその行為に高ぶることがない。震災で怪我をした女性を背負い助け、家の者に感謝されるも名も告げずに去る。親の帰りを暗がりでまつ子どもに買ったばかりの西洋菓子を差し出す(菓子は受け取られないが、彼はそのことを不満に思うわけでもない)。

だから主人公は、自らの利害だけに拘泥する男ではない。しかし、彼は鯖の骨の曲線美に見とれては食事中の友人に呆れられ、震災の火事で混乱する現場の中で一枚の絵葉書を見ては、美しい飛行機の夢に思いを馳せてしまう男でもある。彼は強欲ではないが、業は深い。美しい飛行機、ひいては美という業から彼は逃れることができない。

映画の中で、彼はしばしば夢の世界に入る(時にそれは世界的に有名な飛行機設計家カプローニの夢の世界とつながっている)。

ある夢の世界で、カプローニは主人公に尋ねる。「ピラミッドのある王国とピラミッドのない王国のどちらを選ぶ?」。

岡田斗司夫の解説によれば ―私はこの評論をずいぶん面白く読んだ。もっとも私が敬愛する若い友人はこの評論にはクリエイターに対する敬意がないと批判した― ピラミッドは、富と権力(そしておそらくは才能)の階層であり、上層にいる少数の者がそれらを謳歌し、下層にいる多数の者が上層の者を支えている。つまりカプローニが問うのは、「美しい飛行機を作ろうとするのなら、ピラミッドのある社会構造を認め、その中で生き、それを維持しなければならない。お前はその自覚や覚悟があるのか?」ということである。

だが主人公はその問いには直接答えない。「私は美しい飛行機が作りたいのです」とだけ彼は言う。それを受けてカプローニはさらに答えを迫るかと言えばそうでなく、カプローニは「これのことかね?」と急に登場した白い飛行機を指さすだけである。

まさにこれは主人公の夢の世界の出来事である。彼の夢の世界では(まだ)カプローニも誰も究極の答えを要求しない。彼は、自分が求めているのは美だけであると答えるだけである。これが彼の原罪であろう。

だが、ここで私たちは主人公を断罪するべきではない。主人公が本当に自分のことしか考えていなかったとしたら、夢の世界にはカプローニの問いさえ出てこないからだ。宮崎は主人公の夢の世界 ―美しい飛行機が飛び交う世界― を描く。しかし宮崎は、主人公がその世界から現実世界に戻ることができるきっかけを、カプローニの問いという形で残している。

かつてミヒャエル・エンデは、自身の『はてしない物語』について語り、「ファンタジー世界に行く者は必ず現実世界に戻ってこなければならない」と力説したと私は記憶している。エンデはファンタジー世界に閉じ込められる危険性を誰よりも知っていたのかもしれない。宮崎も「美しい夢」 ―私はこれを「ファンタジー」と読み替えることに問題を感じない― の怖さを自覚しているのだろう。

映画は進み、主人公は里見菜穂子と再会する。菜穂子は自らが(当時の)不治の病である結核を患う身であることを知りつつも、堀越との再会に心騒ぐ (二人の出会いでは最初の時も、再会の時も突風が吹く ―「風立ちぬ」―)。最初は菜穂子のことを思い出さなかった主人公も、再会に感謝する菜穂子の涙に促されてか、急激に心が騒ぎ始める。それからは絵に描いたような恋愛が展開し(そもそもこれはアニメである)、二人は菜穂子の父が戸惑うぐらいにすぐさま婚約を決める。

菜穂子は主人公のためにも病気を治そうと決意し、それまでためらっていた人里離れた療養所に行く。だが、そこは病人に対する病理学的な管理が人間的な配慮よりもはるかに勝っていたところであり、菜穂子は病院を抜け出し主人公に会いに行く。

二人は駅のホームで会う。主人公の胸元で菜穂子は「ひと目お会いしたら帰ろうと思っていました」と言うが、主人公は「帰らないで」と菜穂子に言う。

二人は主人公の上司黒川に、離れに住まわせてくれと頼む。いくら婚約中とはいえ、まだ結婚していない男女を一つの部屋に住まわすことはならぬと渋る黒川だが、主人公は黒川が面食らうぐらいに、「それでは今すぐ、結婚します」と宣言する。二人は互いの美に夢中である。

しかし結婚しても、戦闘機の設計に勤しむ主人公は、夜遅くしか菜穂子のもとに帰ってこない。帰ってきても持ち帰った仕事をする。一日中臥せっているだけしかない菜穂子はそれを受け入れ、「仕事をしているあなたを見るのが好き」と言う。

やがて主人公は徹夜明けで帰宅し、飛行機が完成したことを告げ、疲れから眠りに落ちる。

その後、主人公が試験飛行のために数日の予定で家を出た後、菜穂子は、主人公、黒川夫妻、(その日に再び会うことになっていた)主人公の妹に置き手紙を残し、ひっそりと黒川家を出て療養所に戻る。

続くシーンで映画は試験飛行の劇的な成功を描くが、その描写はやがて戦争の ―写実的というよりは象徴的な― 描写に移行する。主人公が設計した飛行機は無残な残骸として地に横たわっている。

画面はやがて草原となる。主人公とカプローニの「美しい夢」である。「ようこそ私たちの夢の王国へ」とカプローニは言う。主人公は「ここが夢の王国ですか。私は地獄かと思いました」とつぶやく。カプローニは「ちょっと違うが、まあ、同じようなものだ」と返す。ここでも宮崎は、主人公が美しい夢、あるいはファンタジーに囚えられてしまうことを防いでいる。

だがカプローニは「君を待っていた人がいる」とかなたを指す。そこにいるのは、パラソルをさした菜穂子。「あなたは生きて」と彼女はささやく。やがて風が立ち、画面は転がるパラソルだけを描き出す。菜穂子は死んでいることが示唆される。

ここにいたって、私たちは、「美しい夢」とは、映画の中の飛行機に関する明らかな夢だけでなく、菜穂子との出会いという、この映画自体もそうであることに気づく。主人公は、自らの美しい飛行機という夢からは覚めるが、美しい女性が自らの仕事を全面的に支え、やがて仕事が終わると美しいまま旅立ってゆくという映画の中にとどまる ― 映画とは所詮、「美しい夢」なのだ。

カプローニとの出会いは単なる主人公が見た明らかな夢だった (映画の中でも主人公が夢から覚める様子が描かれる)。だが、映画の中で描かれた菜穂子との出会いはそれと異なり、主人公の単なる妄想ではない。映画の中で、二人は確かに出会い、愛し合い、死別した。しかし ― 考えてみれば当たり前のことなのだが― その出会いと別れを「現実」とする映画自体が「美しい夢」なのだ。

宮崎はあるインタビューで、「今はもう、ファンタジーなんて描ける時代じゃない」と語気を強めていたが、やはり彼はファンタジーを描いたのではないか。確かにこの『風立ちぬ』は、『魔女の宅急便』や『崖の上のポニョ』のような、親子で楽しめる娯楽作品としての「ファンタジー」ではない。だが、これは宮崎が描かざるを得なかった「美しい夢」としてのファンタジーではなかったのか。宮崎は72歳において、このファンタジーを必要としていたのではないか。

主人公は、映画という「美しい夢」の中に入れ子構造で組み込まれた、カプローニとの夢の王国という「美しい夢」において、「ピラミッドのある世界とない世界のどちらを選ぶ」という問いに直接答えず、美しい飛行機を完成させる。しかし、その飛行機は戦争のためのものに他ならず、それは人を撃ち、人に撃たれ、無残な残骸として地に落ちた。主人公は「美しい夢」(ファンタジー)のもう一つの面を知る。

だが、この映画自体という「美しい夢」(ファンタジー)がもつ、別の一面は映画の中では直接には描かれない。宮崎は映画『風立ちぬ』そのものという「美しい夢」のもう一つの面に無自覚なのだろうか。宮崎は自ら創りだしたファンタジーの世界に閉じ込められてしまったのだろうか。

いや、そんなことはない。ありえない、と私は考える。

宮崎は、映画の試写会で「恥ずかしながら、はじめて自分の映画を見て泣いてしまいました」と述べた。彼は、映画という美しい夢の「もう一つの面」を痛切に感じつつ、それでも、そう生きるしかなかった自分を全否定することもできず、涙を流してしまったのではないか ― これは根拠のない推測であるが、私はこう考える。いや、私は単にこう考えたいのかもしれない。

憑かれたようにアニメという美しい夢(ファンタジー)を描いてきた宮崎の人生について、あれこれと低俗週刊誌のような詮索をするつもりはない (私の友人は、岡田氏の評論はまるで週刊誌のように低俗だったと批判していた)。しかし、宮崎の生涯を通じての「美しい夢」の追求には、代償があったはずだ。


人は、美を追求するとき、しばしば自他の醜を見ないふりをする。醜を抑圧し、美を求める。だが醜はそこにある。人が人である限り。

善についても同じだろう。善を志向する者は、しばしば自他の悪を殊更に否定しようとする。悪を消し去り、善を求める。だが悪はそこにある。人が人である限り。

正もそうだろう。正を求める者は、しばしば自他の邪を認めようとしない。邪のない正を求める。だが邪はそこにある。人が人である限り。

真もそうではないか。真を求める者は、しばしば自他の偽を軽侮する。偽のない真を発見したと主張する。だが偽はそこにある。人が人である限り。

愛も同じではないか。愛を語る者は、しばしば自他の憎を信じない。憎のない世界に自分の愛はあると語る。だが憎はそこにある。人が人である限り。

聖についてもしかり。聖について語る者は、しばしば自他の俗を否認する。俗などないかのように聖を求める。だが俗はそこにある。人が人である限り。

美・善・正・真・愛・聖を求める者は、しばしばピラミッドの高みに立つ。自らの醜・悪・邪・偽・憎・俗を、自らの下層に隠す。さらには、他人を下層に置き、醜・悪・邪・偽・憎・俗を押し付ける。下層の他人を踏みしめながら美・善・正・真・憎・聖を語る。

美・善・正・真・愛・聖を求めながらも、しばしば自らそれを裏切らざるを得ないこと ― これも人間の原罪ではないのか。『風立ちぬ』は、この原罪を描き、示していないか。


もし人間には原罪があるのなら、そこからの救いはないのだろうか。(もちろんキリスト教はキリスト教としての答えを原罪に対して用意しているが、ここではそれは語らない)。

カプローニの問いを忘れること、そもそも「ピラミッドのない世界」など考えることが無意味だと考えることが救いだろうか。

そうとも思えないことは、古今東西の歴史が示していないか(あるいはそうとも思えないのは私の幼さなのか)。

カプローニの問いを忘れられないのなら、宮崎は、おそらく彼の最後となる作品で、人間の、ひいては彼自身の原罪を示し、絶望をもって映画を閉じたのだろうか。


私はそうは思わない。

映画の最後に「おわり」の文字が出てきたときの画面は、さまざまな色を帯びた空であった。自然であった。彼は最後の画面を、アニメーターとしては自ら描けない、水彩画調の背景画で自然を描くものにした。それが宮崎の監督としての決断だった。最後の画面で宮崎はスクリーンの上に自然を再現させようとした。


私にはこれが、救い、あるいは救いの表現であったように思える。


私たちは、美・善・正・真・愛・聖を求める中で、醜・悪・邪・偽・憎・俗をしばしば否定し、そのことによって美・善・正・真・愛・聖を損ねてしまう。

かといって私たちは、美・善・正・真・愛・聖を忘れ去ることはできない。醜・悪・邪・偽・憎・俗の中にだけに生きることもできない。

ならば美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にするもの ―自然― こそは、私たちの救いではないのか。自然を表現することは私たちの救いではないのか。

私たちは自然により生まれ、自然のもとに帰る。私たちが頭でどう考えていようとも、私たちが自然から離れることはない。ならば私たちの努めとは、自然を忘れないこと、自然を損ねないこと、可能なら私たちなりに自然を再現することではないのか。

自然の偉大なる全体の調和を忘れず、損ねず、可能な限り自分たちなりに「人間にとっての自然」として再現すること ― 人間なりに自然の中で自然に暮らし自然を保つこと― これが私たちのなしうる佳きことではないのか。

美を求めながらも醜を受け入れ、善を求めつつそこに悪があることを認める。正を追い求めながらも邪を受け入れ、真を目指しながらもそこに偽があることを認める。愛を求めながらもそこにある憎を認め、聖を目指しながらも俗にとどまる ― これが人間にとっての自然ではないのか。

人間が、人間にとっての自然を忘れないためには、自然 ―大自然そのもの― を忘れず、可能な限りそこにとどまることが必要ではないのか。自然を損なうことを可能な限り止めることが必要ではないのか。私たちの生命とは自然からの恵みである。ならば恵みの感謝を、自然を守り、自然を再現すること ― 私たちのなしうる佳きこと― で表すのが人間の努めではないのか。

宮崎駿は、美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にする自然を描いた画で、映画を終えた。人間は自然の調和の中に生きている ― 私にとっては、これを思い起こすことができることこそが、人間にとっての救いだと思える。





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