2014年2月27日木曜日

3月15日(土)言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」

以下、お知らせです。

3月15日(土)言語文化教育研究会 研究集会シンポジウム
大会テーマ:実践研究の新しい地平(早稲田大学11号館)

シンポジウムテーマ:言語教育の目的と実践研究
難波博孝(広島大学)国語教育
柳瀬陽介(広島大学)英語教育
塩谷奈緒子(東京電機大学)日本語教育
細川英雄(早稲田大学)言語文化教育 コーディネート・司会





シンポジウム開催趣旨 
細川英雄
(言語文化教育研究所、早稲田大学)

このシンポジウムでは、言語教育の目的と実践研究の関係について討論する。
2013年10月27日(日)に第125回全国大学国語教育学会(広島大学)で行われたラウンドテーブル「言語教育と生きること」の議論において、言語教育の目的とは何かという課題に到達した。

*言語教育(英語、国語、日本語教育)のめざすものは?
・これまでの言語教育で失われたものを取り戻すため?
・生きる主体性を取り戻すため?
・生き延びるため?
・救いのため?
・「ことばの市民」として生きるため?
(当日の発表レジュメより)

このシンポジウムでは、この課題をさらに進展させ、それぞれの言語教育の目的と実践研究の関係について議論を展開したい。

まずそれぞれの立場から話題提供をいただき、討論の場を形成する。国語・英語・日本語の教育世界で、それぞれに行われている実践研究について紹介いただくとともに、その実践研究が言語教育の目的とどのような関係にあるかについて、これからの言語教育の方向性を視野に入れつつ考えていく。

そのうえで、今後の言語教育のあるべき方向性について、それぞれの立場からの提言をいただき、言語教育学としての未来像を構築したい。




生きることについて考える、生きる活動としての日本語教育実践研究

塩谷 奈緒子
(東京電機大学)

1.日本語教育界における実践研究

日本語教育界において実践研究への本格的な取り組みが始まったのは1990年代のことである。しかし、未だ教育実践と直接関わる研究は少なく、実践と研究は切り離されたものとして扱われることが多い。あるいは、教育実践を扱ったように見える研究でも、そこでは既成の「理論の実践化」や「実践の典型化」(佐藤, 1998)、「関連する科学理論の試行」(石黒, 2004)等が行われていることも多い。そして、これらの背後には、個体能力主義的な学習観や、応用・効率主義的な教育観が潜んでいると言える。


2.実践研究の捉え直し

2-1.「考え方」としての実践研究

 このような中、細川(2010)は、実践=研究という立場を打ち出し、実践研究とは「教育活動の設計・実施・振り返りのプロセス」を作り、「自らの教室設計とその設計を支える教育観」を問い直し、「教育を社会にひらく」行為であると述べる。また、舘岡(2010)は、それは「一連の動きの繰り返しの中で、ある程度、普遍的な「理論(原則)を生成」していくことでもあり、「現場で起きていることを解釈したり理解したりするプロセスそのもの」でもあると言う。もっとも、これらは実践研究の「考え方」であるため、それを具体的にどう捉え、どう構築するかは、一人一人の実践研究者の課題となる。

2-2.私にとっての実践研究

まず、私は教育実践を、日常的な生活実践と同じく、様々な人や物や概念等の人工物
(コール, 2002, p.168)に媒介され、それらと活動主体が相互作用、相互行為をする過程で生じる動的で関係的で全体的な現象/活動システム―それ自体が他の社会を包み、包まれる、複雑で豊かな一つの社会―として捉える(塩谷, 2008)。

次に、私にとっての実践研究は、以下のような様々な事項を様々な人との間で考え、行動していく一連の営みである:自分はどんな思想や価値観(言語・文化・社会・学習・教育・世界・人間・自己観等)を持ち、なぜ日本語教育を行うのか(日本語教育観、日本語教育の目的、問題意識等);自分が関わる個々の実践とそれを取り巻く社会状況(実践参加者、使用可能なリソース、共に実践する教員、その他教職員、教育機関、さらにそれらをまた取り巻く社会等)をどう捉え、自分の日本語教育の目的との関係性において、それぞれの実践をどう設計(実践の目標設定および人工物の構築)するのか;自分がそれぞれの実践にどう参加し(相互行為)、それを参加者たちとどう作り、作りかえていくのか(人工物・相互行為の再構築);上記の一連の考えと行動をどう辿り、解釈し直すのか(授業記録の確認/録音データの文字化・分析/開示・議論等);振り返りの結果をどう次の/他の実践に還元するのか。

これらの営みは、教室内外を問わず、実践参加者や他の日本語教師、その他教職員や友人知人、見知らぬ人(研究論文講読や情報検索等)等、様々な人との間で行われる。そして、これらは、上記の個々の営みやプロセス全体、また、自分の実践や実践を取り巻く社会や他者や自分自身への見方、働きかけ方を変え、その結果、自分自身や相手・対象も変わっていく。そして、この試みを繰り返し行うことによって、個々の問題および教育実践そのものがより「全体性」、「具体性」(茂呂,2003, p.37-42)を帯びたものとして再構成されていく。


3.実践研究と日本語教育の目的

私にとっての実践研究とは、実践研究者として、人として、他者との対話を通して、教育実践や参加者について考え、日本語学習や教育や教師について考え、言語や文化や社会について考え、ひいては、人間について、世界について、自分について、生きることについて考える日々の営みである。それは同時に、実践研究者として、人として、言葉を介して他者と共に、教育実践やその他の日常実践を生き、それらを作り、言葉や文化や社会を作り、自己を作り、作りかえていく日常の生きる営みである。同じことは、私が行う日本語教育でもなされるし(そこでは、学習者が他者との対話を通して他者や世界や自分や生きることについて考え、言葉を介して他者と社会を作り共に生きる経験ができるよう、教育実践環境を作る)、教師養成のための教育実践(塩谷, 2013)でも同じである。

日本語教師がそれぞれの豊かな経験をもとに、日本語教育と自分との関係(私はなぜこの教育実践を行うのか、私は日本語教育で何がしたいのか)、ひいては、それらを行う自分(私はどのように生きていきたいのか)について考え、自立的かつ協働的に、自由にしかし責任を持って実践研究を行っていくなら、より豊かな教室社会、教育機関社会、日本語教育の世界がひらけるのではないかと私は思う。





人間と言語の全体性を回復するための実践研究

柳瀬陽介
(広島大学)

 教育の目的が人と社会の成長である(デューイ)ことからするならば、言語教育の目的とは、言語を通じて人と社会の成長を図ることになる。ここで、言語とは、人の「からだ」(非意識・無意識)、「こころ」(中核意識)、「あたま」(拡張意識)の間をつなぎ、さらに人間を外界の人や物にも内界の人や物にもつなぐ媒体であると考える [下図参照]と、言語教育とは、言語により、人の「からだ」「こころ」「あたま」をつなぎ、外界と内界の人や物ともつなぐことによって、人と社会の成長を十全なものにすることを目指すべきとなる。








 ダマシオなどの論によれば言語の基盤は、「からだ」(非意識)の情動 (emotion) が、「こころ」(中核意識)で感情 (feeling) として感知されることである。その情動・感情に、他者とのコミュニケーションから言語の表現が与えられる。「あたま」(拡張意識)は、習得した言語を整理し、言語コミュニケーションの可能性を広げる。

 さらに言語は、人間が自らの外部に知覚する物理対象の外界についてだけでなく、自らの内部にイメージとして知覚する内界についても用いられる。言語は、現時点の外界の物理対象だけではなく、内界で自由に想像される現在・過去・未来の可能的対象に対しても表現をもち、なおかつその表現が統語的組み合わせと比喩的組み合わせを経て創造的に文が生成される。人間が知覚する世界は物理世界よりもはるかに多元的で豊かなものになる。

 ところが、資本主義的発想と合理主義に基づく現代社会の中で、マークシート試験といった正解を一つに収束する制度が言語教育の基盤となることにより、「からだ」と内界が抑圧されがちになる。資本主義的発想は質を捨象し量を基盤とする思考法であるが、合理主義はさらに「割り切れないこと」 (the irrational) 、つまりは数字や言語で画定しきれないことを考察の外に置く。「からだ」の情動は、一元的に言語化しがたいもので、繊細で多義的な言語で表現せざるを得ないが、そういった「割り切れない」表現は、マークシート試験得点をものさしとする現代の言語教育では軽視される。内界の自由な知覚対象は、外界の物理的知覚対象と異なり、第三者的同定が困難なものであるが、それがゆえに「客観的な」採点には適しないとして打ち捨てられる。今や資本主義的競争のために合理的に執行される言語教育は、人間と言語の全体性を損ない、その歪みを維持・増長し、人間を抑圧しかねない制度となりつつあるのかもしれない。

 この抑圧は学習者だけでなく、教師にまで及ぶ。言語教育の実践研究は、この抑圧による歪みから回復するため、「あたま」と外界だけに関する実証主義的な言説だけでなく、「からだ」と内界も重視する言説をも目指さなければならない。本発表では、過去の実際の実践研究から、「からだ」と内界を重視した事例を紹介し、人間と言語の全体性を回復するための実践研究がどうあるべきかを考察する。





臨床国語教育への誘い

難波博孝
(広島大学)

 私は、「臨床国語教育」の実践と研究を行っていました。最近、細川英雄先生のお仕事を知り、日本語教育で同じような仕事をされていることを知り、かなり感激しています。まずは、自分が考えている「臨床国語教育」について、以前書いた文章を紹介することで、その導入としたいと考えます。以下は、難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社「はじめに」の一部です。

 「国語教育」は変わった領域だと思う。教科教育、つまり、学校のさまざまな教科の教育について考え実行する分野の一つを形成する分野が、国語教育には確かにある(この分野を、「国語科教育」ということがある)。

ところが、国語を学ぶ時間は、国語科の授業だけに終わるわけではない。国語科以外の教科の時間も、特別活動でも、総合的な学習の時間でも、学習者は国語を使い新たな言葉を知っている。国語科よりもはるかに多い時間で、学習者は国語を学んでいるのである。となると、「国語教育」は、学校教育全ての活動における、国語を学ぶこと、となる。

ところが、学習者は、学校を出ても、国語 ―もうこの語は学校を出ると変なので「日本語」という語を使うことにする― 日本語をずっと聞き続け、使い続ける。つまり生活の場面で日本語を使って生きている。そこでは学校では学ばない膨大なことを学んでいるだろう。学習者は、生きている限り、日本語の中にいる。つまり、ずっと「国語教育」(論理的には「日本語教育」といった方がいいのだが、この語は第2言語としての日本語の教育に専用使用されているので、再び「国語」の語が戻ってくる)の中で、中に、生きているのである。この位置に立つと、「学習者」という概念が既に拡張されていることがわかる。「学習者」は、第一言語としての日本語を使用する全ての人、ということになる(子どもも、大人も、もちろん教師も)。

「国語教育」を実践することは、生きることとほぼ同義であり、「国語教育」を研究することは、人生を研究することとほぼ同義なのである。しかし、これではあまりに壮大で漠然としてしまう。

そこで、多くの「国語教育」関係者(実践者・研究者)は、大体の場合、国語科に照準を合わせ、国語科の授業実践や授業研究・それに類した研究を行っている。(中略)

けれども、国語教育関係者でも、忘れがちになる。ついつい自分が直面している、国語科、あるいは、その中のさらに狭い部分に限定して、実践したり研究したりしている、と、つい思ってしまう。

忘れないようにしなくてはいけない。教室で授業している学習者と教師の向こうには、国語教室を出て生活している彼らがいることを。だからこそ国語教室を充実させなくてはいけないことを。

私は、「国語教育」が本来持っている、国語科以外の教科・学校場面・そのほか全ての生活場面における国語(日本語)の教育についての実践と考察、という核心を、「国語教育」関係者やその他の関係者が忘れないようにするために、はっきり記銘するために、「臨床」という言葉を、あえて「国語教育」に冠しようと思う。ここの「床」は、したがって、さまざまな国語(日本語)教育の場面全て(例えば子どもが母に叱られるとき、その子どもがテレビを視聴するとき、その子どもが友達と喧嘩するとき・・・・)をも指している。つまり生きている場面全てである。

「臨床国語教育」は、「国語教育」のことである。(後略)


【関連文献】
石黒広昭(2004)「フィールド学としての日本語教育実践研究」『日本語教育』120、pp. 1-12.
コール, M(2002)『文化心理学 発達・認知・活動への文化』(天野清訳)新曜社.
佐藤学(1998)「教師の実践的思考の中の心理学」佐伯胖・宮崎清隆・佐藤学・石黒広昭著『心理学と教育実践の間で』pp.9-56、東京大学出版会.
塩谷奈緒子(2008)『教室文化と日本語教育』明石書店.
     (2013)「11年後の私の言語文化教育―大学院における「言語文化教育研究」の実践から」『言語文化教育研究』11、pp. 13-67.http://gbkk.jpn.org/vol11.html#shioya
舘岡洋子(2010)「【緒言】「実践研究」は何をめざすか」『早稲田日本語教育学』7、pp. i-v.
細川英雄(2010)「実践研究は日本語教育に何をもたらすか」『早稲田日本語教育学』7、pp.69-81.
茂呂雄二(2001)「具体性と実践の抽出」『実践のエスノグラフィ』pp.22-58、金子書房.
難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社




追記

研究会事務局が録画・公開しているシンポジウム記録動画を下に貼り付けておきます。








付記

先日の「C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社」の記事でこのシンポジウムについて言及しましたところ、総合マネジメント事務所 Espace MUSE(http://www.espacemuse.com)代表の名島様より以下のメールをいただきました。私も内容に共感しましたので、その方の同意を得た上で、そのメールの一部をここに転載します



*****
(前略)
現在の日本の教育(者)は、より細分化され、分断され、おかしなことに人生とも乖離している側面が強くあるように思います。

「教育とは根本のところで全人的な関わりであるという思いを私は強くしています。特にさまざまな問題を抱えた児童・生徒・学生は、ある瞬間に、教師にごまかしのない全人的な態度 ―建前や一般論をいったん取り払った上での向き合い― を求めます。ですから、教師は少なくとも時折は深いレベルで、この言語教育という営み、そして人間についての洞察を得る必要があると思っています。」という先生のご意見は、まさにわたくしも思うところです。

私は日仏の文化関連の仕事をしております。

この仕事を通して、たとえフランス語がある程度できる日本人でも「グローバル人材」になかなかなれないのは、日本人に根付いてしまっている深刻で根本的な問題が原因であると考えるようになりました。

それは、日本人のどんな職業の人も往々にそうなのですが、人生に対する個としての姿勢や軸、哲学がないことです。

大卒でも非常に細分化された知識しかなく、国内では”自分には関係ない”と目を閉じてもすんできた問題が、フランスでは個としての意見と行動を求められることにストレスを感じ、またそれがなかなかできない日本人は多くいます。

政治、芸術、語学、歴史、科学、宗教、文化といった様々なテーマは、フランスではあくまで人間のためにあるのであり、個々人が自己を実現するために各自しっかりと学んでいます。

学問のための学問、政治家のための政治、といった分離は、フランスにおいて教育を受けた人材になればなるほど、自身の生に関わるテーマを切り捨てて発言する人物、人生と乖離して専門にとじこもる人物が信用されるのは難しいでしょう。

日本人ではこうした態度が教育を受けた者の中にもかなり見られること、そしてこの人生観や認識の仕方は、外国に行った日本人が単に辞書のように語学が脳内で変換できるようになるだけでは通用しない問題であることを、あまり日本の教育者が認識していないように思っておりましたので非常に憂慮しておりました。

このため、柳瀬先生をはじめとする先生方のみなさまのシンポジウムの趣旨を読み、共感した次第です。

Albert Jacquardというフランスの集団遺伝学の学者は、「教育の最終目的は“邂逅の知恵”を学生に授けることであることを決して忘れてはいけない」と言っております。

Jacquardのいう“邂逅の知恵”とは、“生きることの支えになるような感動的な(人に限らず本や芸術等も含めた)出会い”につながる知恵・知識です。

「感動」というと情動の問題、「出会い」というと運命論的な問題のように考えられがちですが、生きる支えとなり、力となるような感動的な出会いを個人が内部に落とし込むためには、世界を認識するための基礎を養う教育、それにより脳内に構成される豊かな世界観・人生観、世界への幅広い理解が必要不可欠です。本当の意味での感動的な出会いは、必ずしも即席で感じ取れるものばかりではないと考えます。IQを高める教育よりも、個人主体にとって生きる力となる教育は、私の理想とする教育のあり方です。

認識の枠をわざわざ狭めるような日本の教育の在り方は、最近の国内の政治および社会を見ていると如実に悪影響が出ていることを感じます。

政府主導の怪しい雰囲気になってきているにもかかわらず、それを止めるジャーナリスト、インテリ、そして国民が不在しています。

結局、各自が「考える力」をつけるような真の教育が日本の学校及び家庭でなされなかった結果であると言わざるを得ないと考えております。

非人間的行為を各自が見極め判断できるようになること、そしてそれに断固闘う意思をもつこと、日本が民主主義の国家でありたいならば、これらを各自が当たり前のようにできるようにならなければならず、これは教育の重要な役割であると考えます。

現在、私は自分の理想とする教育を実現したく、自分たちのグループでやれることをやっていこう、発信していこうとプロジェクトを考えているところです。

柳瀬先生は哲学を愛されているからでしょうか、思想に非常にフランスの風も感じました。

フランスはじめ欧州の学者は、19世紀末の量子力学の誕生による衝撃が日本よりも強かったのでしょうか、ニューサイエンスは行き詰ったと昨今言われているものの、日本に比べるとはるかにホーリスティックな思想で科学に取り組んでいる人々が多いようです。

何よりも、職業のためや肩書きのためではなく、「好きで好きで仕方がない」、「このテーマは自分の人生の必然だ」という感じで研究に励んでいる学者がフランスには多くおり、そうした人との出会いによって私も感動し、学び始めた学問も多くあります。

たまにブログから伺える柳瀬先生のご苦労は、きっとフランスのような雰囲気があるならば もっと気持ちよく進められるだろうなぁと勝手ながら考えたりもしておりました。

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