2014年5月17日土曜日

[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―



下の文章は、2013年の全国英語教育学会のシンポジウムで発表した内容をまとめて、2014年の『中国地区英語教育学会研究紀要』(第44巻97-106ページ)に掲載していただいた論文の草稿です。正式な論文は、いずれ各種レポジトリでも公開されると思いますが、参照の便のため、このブログにも掲載しておきます。

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英語教師が自らの実践を書くということ (2)
―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―

            
広島大学         樫葉 みつ子  
北海道壮瞥町立壮瞥中学校 大塚 謙二  
兵庫県立大学附属中学校  坂本 南美  
広島大学         柳瀬 陽介  



1 序論

  英語教育に対する貢献で大英帝国勲章を受賞したPenny Urは、英国Guardian紙に寄稿した"How useful is Tesol academic research?"の冒頭で、「英語教育のプロとしてもっとも頼りになる知識はもっぱらどこから得ているか」という問いに対して、英語教師は「教室経験についての省察」(reflection on classroom experience)と答えるだろうと述べている。もちろん経験豊かなUrは単純な学術研究批判を展開するわけではないが、実践者にとっての省察(リフレクション)の重要性は疑うべくもない。

  だが、省察をすればいいということで問題は解決しない。省察をどのように行うのか、なぜ行うのか、そもそも省察とは何なのか、などに関する原理的理解のないままに省察を進めても、続かない・自己否定に終わる・愚痴話にしかならないといった非生産的な結果に終わりかねないからだ。そこで第一著者と第四著者は、本学会研究課題フォーラムの場を借りて、英語教師が自らの実践を書くことについて二年間の研究を継続してきた。一年目は省察を重ねる二人の実践者とインタビューなどを行い、(語ることではない)書くことによる省察の特徴を主な研究課題とした。二年目は、特に自らの実践に関する文章を「公刊」(publish ―以下、この用語は、文章をprivateに書く者の文章保持形態である「私有」と対比させる意味で時に「公有」とも称することにする)した英語教師を二人(一人は日本語著作を公刊、もう一人は英語学術論文を公刊)招いた。研究の中で、二人の実践者を単なる対象(object)としても被験者(subject) としても扱わず、協同研究者・共同執筆者として招き、日本語公刊実践者を本論文の第二著者、英語公刊実践者を第三著者とした。本論文は、その二年目の知見を一年目の知見と統合させながら、「自らの実践を書くことにおいて、文章を公刊(公有)することと私有すること、文章を日本語で書くことと英語で書くことが、省察とその後の行動にどのような影響を与えるかについて洞察を得ること」を研究課題として設定した報告である。なお、「書くこと」は、"writing"と同じように、書く過程と書かれた文章の両義を込めた意味で使うことにする。


2 方法

  本研究は質的研究の中の事例研究(case study)である。本論文は、当然のことながら、二重盲検法とランダム化比較試験による実験で仮説検証を行い一般性や普遍性の立証を目指す量的研究ではない。質的研究に対する理解がまだ十分でない日本の英語教育界では、質的研究が量的研究の枠組と作法で裁断される場合がしばしばあるので、ここではそれを予防するため、TESOL International Associationが設定した"Qualitative Research: Case Study Guidelines"(注)に即して、本論文が採用した方法を以下に説明する。また、言うまでもなく、事例研究は解釈と帰納に基づく研究(interpretive, inductive form of research)であり、データの中で繰り返し現れた重要なパターンやテーマを特定する(identify important patterns and themes)ことを目指す。

  文脈(context):本論文の第一著者と第四著者は、共に大学の教育学部で研究と教育に従事している。両者の特徴は、小中高の現職教員とのコミュニケーションを特に大切にしようとすることで、英語教師の草の根セミナーなどに積極的に参加している。第二著者は公立中学校(のんびりとした山間部の小規模校)のベテラン教師で、これまでに数冊の日本語出版をしているし、草の根セミナーでの発表と交流にも積極的である。第三著者は現在公立大学の附属中学校(文教地区に所在し特色ある教育を目指す学校)で教える中堅教師であり、自らの実践に関する一本の英語論文を国際学術誌に公刊している。また、第二・第三著者ともに、しばらく教職経験を重ねた後に修士号を取得している(第三著者の修士論文は教師の省察に関するものである)。本論文では、一年目の研究での第二著者と第三著者(前者は日本語で文章を私有・公有する公立中高一貫校教師、後者は英語で文章を私有する公立高校教師)についても言及するが、混乱と記述の煩瑣を避けるため、年度を数字で、使用した書記言語(Japanese or English)を頭文字で表記し、一年目(昨年度の論文)の第二・第三著者を1Jと1Eとし、二年目(本論文)の第二・第三著者を2Jと2Eと略記することにする。なお、第一・第四著者は二年間の研究を通じて同じである。

  二年目の四人の研究チームの関係性も、一年目と同様、対等で水平的なものであり、権威主義的な「大学研究者-中高現場教師」の「指導-拝聴」という構図だけにはならないよう留意した。
  事例選択(sampling):二年目の研究は公刊をした経験のある実践者についてのものであるため、必然的に事例は、大多数あるいは「標準的・平均的」な英語教師 ―それが何を意味するものであれ― を代表する事例ではない。本論文は、二年目の事例を、一年目の事例と同様に(あるいはそれ以上に)、「教職に対する責任感、探究力、教職生活全体を通じて自主的に学び続ける力」(文部科学省2012)をもった教師の実践を事例とすることにより、今後の英語教師が目指すべき一つの姿について洞察を得ようとしている。中央教育審議会は、同時に「取り組むべき課題」の一つとして、「自らの実践を理論に基づき振り返ることは資質能力の向上に有効であるが、現職研修において大学と連携したこのような取組は充分でない」ことを指摘しているが、この意味でも、本論文の事例選択には意義がある。また、「英語」教育研究としての意義としては、本論文は英語で自らの実践を振り返り・省察している実践者(特に二年目では学術論文公刊をしている実践者)を選んでいることも指摘しておきたい。

  なお一年目・二年目の事例では、1Jが日本語の私有・公有、1Eが英語の私有、2Jが日本語の私有・公有、2Eが英語の私有・公有となり、使用書記言語(日本語/英語)と文章保持形態(私有・公有/私有)の二つの次元で対比的に位置づけることができる。本研究はこの枠組で繰り返し出てきたパターンやテーマを提示することにより信憑性(credibility)(量的研究の内的妥当性(internal validity)にほぼ相当)のある知見を出し、他の事例にも当てはまるかもしれないという転用可能性(transferability)(量的研究の外的妥当性(external validity)にほぼ相当)に充ちた洞察を得ることを目指す。

  データ(data):データは、一年目のデータに加えて、二年目には一次資料からのものとして、電子メール交換(約80通)による短文の書記言語、文書提出(4回)による長文(約1万5千文字)の書記言語、インタビュー(第一・第四著者が、第二・第三著者に対してそれぞれ個別で約5時間と約3時間)による口頭言語と非言語的情報、実際の学校での授業観察(第一・第四著者が第二著者による2時間分の授業を観察)、二年目の研究の中間発表として行った全国英語教育学会での口頭発表に使ったスライドファイル(4本、合計60枚)などを得た。電子メール文書はそのまま記録として残し、インタビューと授業観察はビデオ録画で残した。

  分析(analysis)と解釈(interpretation):第一・第四著者は上記一次データを何度も再読し、ビデオ録画をフィールド・ノートとの整合性確認において再視聴した。その過程で、キーワードを探しながら分析・整理し、KJ法でスライド14枚の関係図にまとめた。スライドは第二・第三著者にも示し、分析と整理に対する疑問点や異論を求めた。その上で第一次原稿を第一・第四著者が協議の上執筆した。その第一次原稿は本論文の第二・第三著者(2J, 2E)だけでなく、昨年度の論文の第二・第三著者(1J, 1E)にも渡し、「自分に関する記述はもとより、他の実践者に関する記述についても、少しでも疑問が生じた箇所があれば、それを率直に指摘」することを依頼し、その指摘に基づき第二次原稿を書き、それも1J, 1E, 2J, 2Eの四人に査読して了解を得た。つまり、本論文の分析と解釈は、データに基づき第一・第四著者が最初に提示したものであるが、この分析と解釈は実践者当人によって直接的に、また他の実践者によって間接的に矛盾や問題のないものとして認められたものであり、単なる恣意的で一方的な分析や解釈ではない(当事者を研究協力者ではなく、共同執筆者とした本研究は、多く行われている質的研究よりは「当事者研究」(石原 2013)に近いものである。だが同じものではない。)。

  以下に報告するのは、以上のような方法に基づいて得られた知見である。
 

3 結果と考察

3.1 自己の三分化と再統合としての「書くこと」

  四人の教師(1J, 1E, 2J, 2E)のデータを改めて読み返し、自らの実践について「書く」ことについてまとめてみるなら、書くことの根源的な機能は ―凡庸に聞こえるかもしれないがが、それにもかかわらず社会学者のルーマン(Luhmann)(2009)が力説するように― やはり「残す」ことにあることが再確認される。「残す」ことは、書く前(および書く最中)には書く内容の「選択」を促し、書いた後(および書く最中)には書かれた文章(およびそれが直接的・間接的に指し示す内容)との「対話」をもたらす。

  話すことより多くの労力を必要とする書くことでもって、後々にまで残そうと決断された内容は、必然的に重要なものとして選りすぐられたものとなる。そのように選択された内容は、紙面・画面上に残され、労力対効果・重要性の観点からも(再)分析の対象となる。1Jは、これを「リンク」「体系化」し「整理」し「考える」ことが、「気づきの多さ」や「発見」につながっていると表現している。1Eは「なぜ」と自問することが増えたと述懐し、「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」という洞察に達している。2J は、書くことにより、自分がこれまでやってきた活動の意味や目的を発見し、自ら「驚いたことが何度かあった」とまで述べる。

  また、書くことは「対話」である、というメタファーを四人とも使ったことは興味深い。このメタファーが主に示しているのは、自ら書いた文章を読み直し改めて考える、という意味であるが、その他にも、「自分自身」との対話(1E)や、「データとの対話であり、実践との対話であり、私自身との対話」(2E)といった述懐からは、「対話」の相手は、目の前の文章を超えて、仮想的に人格化された相手、あるいは、その文章が指示し示唆する広く深い範囲の内容であることも示されている。

  もちろん書くことは一人で行う行為であるから、この「対話」は、分化された複数の自己の間での対話である。自らの実践を書く場合、教師は、選択的な想起を行う中で、教室の中で実践していた「実践者」を自己から分出する。その分出は同時に、その実践を文章化するという「記述者」という自己も分出する。さらに、文章化は時間のかかる行為であり、教師は書く最中から自らの文章を読み始め、書きながらも文章を修正・編集し、時を置いて読み返すので、この過程で自己からさらに「読者」が分出する。つまり、実践の文章化で、教師は、「実践者」、「記述者」、「読者」の三者を分出し、自己は三つに分化する。

  書く内容を選択し想起しようとする中で「記述者」と「実践者」は対話する(例、「他に何か行わなかったか?」「これもきちんと書き残してくれないか?」)。書かれた文章を読む中で「読者」と「記述者」は対話する(例、「これはフェアな記述か?」「この記述をそのように読むというのか?」)。書くことを通じて「実践者」と「読者」は対話する(例、「そう読むことにより何か新しいものが見えてくるか?」、「他の実践や認識の可能性はないのだろうか?」)。忙しい日々で、実践について書くことはおろか振り返りすらできない状況において、教師はもっぱら「実践者」として働き ―というより事務仕事などに追われ「実践者」としての格段の自覚さえなしに毎日を過ごし― 自己から「記述者」と「読者」を分出させることもなく、自己内対話を行うことも少ない。しかし書くことを習慣化することにより、教師は自らを「実践者」・「記述者」・「読者」に分化し、その三者間の対話により自己を再統合する。1Jは振り返りを書くことの「自己更新感」や「充足感」について語り、1E は書くことが「授業だけでなく、私の生活も変えてくれた」とも述べていたが、これらは書くことによる自己の分化と再統合の所産と言えるかもしれない。

  もちろん、この書くことによる自己の三分化と再統合は容易なことではない。四人はいずれも最初のうちは、自己以外の現実読者をメンターもしくは編集者の形で有していた。これらの現実読者は、いずれも四人から何かを引き出そうと対話し、(日常生活ではよくあるように)話を途中で遮って、「そういう場合はこうすればいい・こう書けばいい」と善意の助言(unsolicited advice)を押し付けることはなかった。とくに実践をジャーナルに書くことを大学院で指導された1Eと2Eにおいては、しばしば彼女らが「答えかヒントを出してくれてもいいのに・・・」と欲するぐらいに現実読者(メンター)は引き出すための役に徹していた。1Jが師事する先輩教師(メンター)も2Jが接する編集者も、決して彼らに代わって書こうとはしなかった。おそらくはそういったメンター・編集者の傾聴的忍耐を内面化することにより、教師も書くこと(自己の三分化・再統合)の苦しみと喜びを受け入れることができたのかもしれない。四人ともに、書くことには意識的な努力が必要だし、楽なことばかりではないが、これから書くことを止めることはないだろうと述懐している。さらにこうして「残す」ことになった文章は、公有されれば広く共有(share)されてゆく。書くという一見孤独な作業を習慣化するために必要だと考えられる社会性に、私たちはもう少し着目するべきなのかもしれない。


3.2 教室実践の変化

  だが、省察は授業改善を即意味するわけではないことには注意しなければならない。1Jは「書くという振り返りは,成長を促す自覚的な行為」、「『振り返りと実践』サイクルが,教師の成長を促す」としている。この1Jの発言の意図はこのサイクルのプラス面を強調することであったが、これは裏を返せば、書くことは実践と相互影響関係のサイクルに入らなければならないし、サイクルができたとしてもそれは教師の成長を「促す」ものに過ぎないので、書くことによる省察がそれだけで直ちに教師の行動を変えるものではないことも意味しうる。

  それでも書くことは、教師の内面を確実に変えている。1Jは、書くことにより自らの実践を「俯瞰」できると述べる。1Eは、実践について書いていなければ気づかなかっただろう生徒の様子が気になるとも述べる。2Jは、目立たない生徒について自分が書いていないことに気づき、積極的にそれらの生徒についても注目するようになると述懐する。いずれも授業内の観察が書くことにより変わったことを証言している。書くことは「選択」であったが、その選択により、重要だと(再)認識された現象については、気づきが増し、その選択からもれた現象・生徒に関しては、その「自分はこれについては書いていない」という自覚からその現象・生徒への関心が逆に高まっている。これらは書くことによって誘発された変化だといえるだろう(一般に、自分が行っていないことに気づくことは困難だが、その困難は、自分が行ったことをできるだけ書き、さらにそれを読みなおして考えることにより、幾分かは解消される)。

  2Eの内面の変化はより深いレベルで語られているが、それは主に二つの点からなる。一つは、(彼女が英語での学術論文公刊をしたということもあり)「教師のレンズ」だけでなく「研究者のレンズ」も使えるようになったということである。彼女は、授業中にも特定の現象に教師のレンズで「ズームイン」したり、その現象の意味合いを理解するために研究者のレンズで「ズームアウト」したりするようになったと述懐した。もう一つの内面の変化は、教室の「意味」を感じるようになったことである。彼女は「教室では、起こること一つひとつに意味があり、そこで行われる英語授業という営みを通して生徒も教師も成長していく『教室』の素晴らしさを再確認しました」とも述べている。これらの内面の変化は確実に彼女の授業も変えているであろう。探究的実践(Exploratory Practice)のAllwright(2009)は、実践者の理解(understanding)の重要性を説き、たとえ理解といった内面の変化が、外面の変化と直接的に結びついたという証拠が得られなくとも、内面が変化しなければ外面の変化は持続も発展もしないことを述べている。書くことによる省察は、自らの中で実践と連動すれば、たとえそれが直接的・短期的な形で実証しがたいものだとせよ、教室内の教師行動を確実に変えると言えるだろう。


3.3 文章の公刊(公有)と私有による違い

  自らの実践について書くことでも、その文章を書籍や論文などの形で公刊(公有)するか、私有するだけに留めるかによって、違いが生じるようにも思える。この節では、日本語で書籍を何冊も公刊した2Jについて主に述べると、彼は、実践について書く際は「幅広い読者層と限られた読者層のいずれに書く場合も、読む対象者にあわせるように意識します。要するに、読み手に理解してもらえるようにということが大前提です」と述べ、さらに「指導技術に関する原稿の場合は、対象が教師なので一般化できそうな、自分で行なっている授業実践の中でも、生徒のアンケート結果が良かったこと、観察していても良かったことを理解してもらえるように、客観的に文字にできるように心がけます」とも自己解説している。これらは一見当たり前の述懐のように思えるかもしれないが、自己から分出した「読者」を、書籍が対象とする「読者」に即した読者として想定し、その想定する書籍読者の視点から、書く内容と説得の方法を定めることは、一般的な教師にとっては容易なことではない。また、公有は、教室実践を自分自身で納得できるだけでなく、広く他の教師にも納得してもらえる方向に変化させる誘因となると考えられる。第一・第四著者が2Jの勤務校を訪れて授業観察をした際も、2Jの授業は、授業での目標・活動の目的・時間配分・文法指導と活動のバランスなどがきちんと設計されていることが、授業案でも実際の授業でも伺えた。生徒のために書いた媒体でも、プリントのレイアウトや電子黒板の使い方などが極めて合理的で、生徒も視覚媒体で自らの学習を俯瞰できるように仕向けられていた。むろん、こういった授業が、自らの実践を公刊しなければできないわけではないが、公刊すること(あるいは公刊し続けること)が、授業実践の一般性・汎用性を高める方向に教師を導くとは考えられる。

  また、公刊の経験は、2Jに「自分が直感的に良いと思っていることを行うだけでは物足りない」思いを生じさせ、大学院への進学を決意させている。「自分の言葉に責任を持てるように、理論的な裏付けが欲しくなり、勉強したいという気持ちが芽生えた」と彼は述べる。次節で述べる2Eも、修士論文を基に英語での学術論文公刊をした後、さらに向学心が高まり、博士課程進学をしている。2Jほどの冊数の書籍を公刊してはいないにせよ、公刊の経験のある1Jも、ブログ・研修会発表資料などの公有で、研修会等での発表や,書籍の執筆の機会が与えられるようになったと述懐している。文章の公刊・公有は、教師により広い公的世界へ確実に導く。

  他方、私有には私有の長所がある。1Eは、毎年、特定のクラスについて書いているが、その際には「授業中のできごとや生徒の様子の描写、授業中の自分の考えや行動を記録している。うまくいったことも問題点も、なぜそのようなことが起こったのかといった考察も含めて、気づいたことはできるだけ書くようにしている」と述べている。このように、予め読者の関心を想定せず、自らが気づいたことをすべて書こうとする態度が、たとえ特定のクラスについてでも自分は「すべてを書きれない」ことをしみじみと実感することにつながり、「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」という上述の洞察につながっていると考えられる。また1Eは、もっぱら私有媒体で書くことで、自分と向き合う苦しみを経験しているが、それでも書き続けようとしている。この一因として、書くことによる「対話」が私有媒体では、一般読者ではなく自分自身であることが考えられる。彼女は「対話」について、「授業や自分の思いをよくわかっている自分と語り合うのだから、自分をよく見せたり長い説明をしたりする必要がない」とも述べている。彼女は、大学院時代にジャーナルを書いていた時には「人に読まれることを意識して言葉を選んでいたが、現在は人に見せる義務感はなく、『書くこと』は生活習慣の一つのように感じている。見せることを意識していた方が、丁寧に書いていたかもしれないが、今のほうが自由に思いを表現している」とも述懐しているが、この義務感・忌避感の無さが、書くことおよびそこからの実践改善に、公刊とは別の形で、寄与していると思われる。もちろん、忌避感なく私有媒体に書いてきたことを公開(公有)することには、抵抗感が生じる。「生徒のことや自分のことなどどこまで安全に見せられるかについて不安があるから」である。そのため1Eは、人に伝える時には、自らの選んだ部分だけを説明するだけである。逆に言うなら、日常的に、そこまで自由に自らと正直に向き合うことを継続できるのが、文章私有形態で書き続けることの特徴であろう。実践についての省察を勧める際に、私たちは文章の公有と私有形態が生み出す違い ―言ってみるなら社会性の違い― について理解を深めるべきであろう。


3.4 英語と日本語による違い

  書記言語を英語か日本語にするかの違いで、まず確認しておきたいのは、今回のデータからは、英語が日本人英語教師の間ですらコミュニケーションのための言語とはみなされていないように思えることである。日頃日本語で書いている1Jは、英語で書くと確かに英語を書く力は高まるだろうが、書くための時間がかかり書く量や頻度が減るだろうし、「他の人に伝えるには、英語を日本語に変換する必要が生じるので、人のためになるという効果は薄くなるかもしれない」とまで述べている。日頃英語で書いている1Eにしても、「英語で書いていると人に読まれる心配が少なく、それが続けられた要因の一つであるといえる」と述べている。1Eは授業に関する記憶が薄れる前に書くため、ノートを職員室のみならず部活動の場所や喫茶店などさまざまな場所にもっていくが、「もしこれが日本語であれば生徒や他の人の目に触れることにもっと注意しなければならず、書く時間が限られ、書けない日もあったかもしれない」と考えている。むろん、1Eの同僚はすべて英語教師であるわけではないが、大卒である以上、誰も英語を読めないことはないはずである。だが英語のアルファベットの外観は、ほとんどの者にとって「これは自分にとってのコミュニケーションの媒体ではない」という外見を呈しているのかもしれない。1Eは「リフレクティブ・プラクティスの仲間を増やしたいと思ったときは、日本語で書くことを考えたこともある」とも述べたが、1Eの述懐を1Jの述懐とも重ねあわせると、英語が自然なコミュニケーションの媒体ではなく、学習するべき対象であるという判断が、日本人一般だけでなく、多くの英語教師にも共有されていることが示唆される。

  1Eは、英語を書くことの苦労やもどかしさについて述べていたが、他方、英語で書くと「客観的に自分を見ているようで、素直な思いを出そうとする一方、感情的になってしまうことはほとんどない」とも述べている。日本語ほど直接的な媒体でなく、自己との距離を若干感じさせてしまう英語という媒体では、書く言語とそれを読む自分の間に適切な距離が生じ、そのことによって「客観的」あるいは「素直」に記述し、その記述を読むことができるのかもしれない。強い感情を含んだ日本語での回想も英語に翻訳することになると、強い感情も一定の距離をもって再認し再表現しなければならないので、「感情的になってしまうことはほとんどない」ようになったと言えるだろう。

  しかし、翻訳は、他人の日本語(口頭のインタビューや書面のリフレクションなどのデータ)を英語に翻訳しなければならない2Eにとっては、「思っていたよりもとても繊細な作業で慎重にならざるを得ないもの」であった。これらのデータを提供してくれた同僚(および生徒)に対して親近感と敬意をもつ2E は、「日常の語りの中には、語り手の教師としての信条や心のあり方、葛藤や喜び、微妙な心の揺れもちりばめられて」いることに気づかないわけにはいかない。そこで彼女はデータ翻訳のときに「語り手の表現に常に忠実であること」を意識するが、そのためには「常に繰り返して日本語と英語を行き来しつつ読み直し」、時には大学院時代のメンターや第三者の意見も確認したり、データ提供者に再度尋ねたりする必要があった。別の言い方をすれば、「日本語でならばそのままデータとして書きおとすところを、英語で書く場合には、常にデータの表現に慎重に向き合って言葉を選ぶ作業を重ねる必要」があり、「日本語で論文を書くよりも格段に深い推敲が必要」であったわけだが、これらの難関を痛感しながら書く中で、彼女は「実践やデータを英語に翻訳する作業は、私にとって日本語、英語を問わず『言葉を学びなおす作業』でした」と自身の経験をまとめている。この言語に対する学びと洞察の深化は、彼女の英語教師そして言語教師としてのあり方に、何らかの影響を与えているだろう。

  さらに、英語を公有される媒体に掲載するために書くということについては、当然にハードルが高いものとして考えられていた(一般に、英語教師が、他の英語教師・英語教師教育者から英語について批判されることを恐れて英語を話したり書いたりしない傾向にあることはよく知られている ―ちなみにこれは、前述の英語を読もうとすらもしない傾向とは異なる傾向として考えるべきであろう― )。2Eは第一・第四著者とのインタビューで繰り返し、英語で論文を書くことを決意しそれを継続することの困難を語った。修士論文の内容を、メンターが日本で開催した国際セミナーでポスター発表した2Eは、フィンランド人研究者に「あなたは見る目をもっている。それを信じろ」と、英語論文として学術誌に投稿することを勧められ、気持ちが傾くもまだ自信がもてない。2Eはそのことをメンターに相談すると、メンターは来日するアメリカ人研究者に依頼し、2Eのために二回にわたって時間をとってもらう。そこでも「修士論文だけに終わらせないで」と論文公刊を勧められるが、2Eはまだ決意ができず、イギリス人研究者と話をした時には "I'm just a junior high school teacher."と述べてしまう。イギリス人研究者は即座に"There's no 'just'."と2Eの控えめな(あるいは怖気づいた)アイデンティティを否定する。2Eはさらに別のアメリカ人研究者により'researcher-teacher'というアイデンティティのあり方を学び、そのアイデンティティ概念も論考に組み込むことにより、ようやく英語学術誌への投稿を決意する。この決意に至るまで(それからその後も)メンターは、2Eをさまざまな形で支援していた。英語学術誌投稿を決意してからも、多忙な教師生活で執筆をすることは困難であり、さらに上述の翻訳の苦労もあったが、2Eは「これだけいろんな人に支えられているのに、論文がアクセプトされなかったら申し訳ない」という思いで英語執筆を続けることができた(ちなみに、中学校教師である2Eには"publish or perish"というプレッシャーはまったくなかった)。

英語が、英語教師にとってすら、話し書くことはもとより、読むことにおいても、自然なコミュニケーション媒体とはみなされていないように思える日本において、英語教師が、英語を公表し、公刊・公有される媒体に英語を残すためには、英語観だけでなくアイデンティティ観が重要であると思われる。英語が「学ぶべき対象」であり「コミュニケーションのための媒体」と思われていなければもちろん英語使用は内発的に動機づけられないが、自分自身を「単なる英語教師」と思っていても英語使用は始まり難いだろう。英語教師は「英語についての間違いをしてはならない存在」と思われていたら、自らの英語を公にさらすことは忌避されざるをえないからである。英語教師が英語についての間違いをするべきでないことはもちろんであるが、そういった「英語教師」というアイデンティ以上に、「私は何かをぜひ伝えたい」、「私は伝えたいことを伝えるだけの価値をもつ人間である」といった自己認識がなければ、日本の英語教師が、自らの仕事について英語でコミュニケーションを図り、非日本語話者の英語教師と共に学び合うことは難しいのかもしれない。アイデンティティは、その人の社会関係から形成されることを考えれば(Norton and McKinney 2011)、ここでも私たちは社会的環境について目を向けることを促されているといえよう。


4 まとめ

  以上の考察を、公有/私有および英語/日本語を問わず書くことに共通している部分、特に公有/私有に関わる部分、英語/日本語に関わる部分に分けて総括する。

  共通部分:書くことは「対話」であるとは四人の教師が述べたことであった。この場合の対話とは、基本的には自己内対話である以上、自らの実践を省察しながら書く教師は、自己を実践者・記述者・読者に分化し対話をしていると解釈できる。分化による複数の視点と多声が、実践の整理とそこからの発見を促し、分化された自己が再統合されることにより、教師は自己再生に向かうのだろう。この再生は教室内の認識や行動から教室外での生き方にまでおよぶ。

  公有と私有:書いた文章を公有するか私有するかで、書く内容もその後の変化もやや異なる方向に導かれるように思われる。公有(公刊)の習慣は、教師の認識と行動を他の多くの教師が納得する方向へと導くようである。ここではあるメッセージをもった者が、そのメッセージに適したメディアを選ぶという図式ではなく、あるメディアを選ぶ者が、そのメディアに適ったメッセージを選ぶようになるという図式が見られる。さらに公刊物というメディアを選ぶことは、教師をより知識の公有性の強い世界、すなわち学的世界に導くのかもしれない。他方、私有メディアを選ぶなら、メッセージは、背伸びをすることも無理して合わせることもない人間としての自分という読者に向けられ、その自己内対話はより深いレベルでの自己で行われると思われる。

  英語と日本語:英語は英語教師にとってすら依然としてコミュニケーションのための媒体とは認識されていないように思える。しかしそういった認識の中、英語で書くことは、書かれる自分(日本語で思考・行動している実践者)と書く自分(英語で思考・執筆する記述者)の間に、メディアの差異をもたらすため、両者の関係は直接的=無媒介的(immediate)なものではなくなり、その距離が自分を客観視することにも役立ちうる。しかし、その距離は、他人の日本語を英語に翻訳する際には、予想以上に繊細で慎重にならざるを得ない作業を生み出す。だが、同時にそれは「日本語と英語を問わず、『言葉を学び直す作業』」ともなりうる。また、現代日本の英語教師が英語を公刊する場合には、教師のアイデンティティが重要な要因となることも示唆された。総じて言うなら、今回の公有/私有、英語/日本語という研究課題設定によって、書くことの社会性が再認識されたとも言える。




TESOL International AssociationによるQualitative Research: Case Study Guidelinesは下記URLページの中で、Conversation Analysis, (Critical) Ethnography, Quantitative ResearchなどのGuidelinesと共に掲載されている。
http://www.tesol.org/read-and-publish/journals/tesol-quarterly/tesol-quarterly-research-guidelines


参考文献
Allwright, D. (2009). Six promising directions in applied linguistics. In S. Gieve & I. Miller (Eds.), Understanding the language classroom. (pp. 11-17). London: Palgrave Macmillan.
Norton, B. & McKinney, C. (2011). An identity approach to second language acquisition. In D. Atkinson (Ed.), Alternative approaches to second language acquisition. (pp. 73-94). New York: Routledge.
Ur, P. (2012, October 16). How useful is Tesol academic research? Guardian Weekly.
Retrieved from http://www.theguardian.com/education/2012/oct/16/teacher-tesol-academic-research-useful
石原孝二(編).(2013).『当事者研究の研究』東京:医学書院.
文部科学省.(2012).「中央教育審議会(答申)教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325092.htm
ルーマン, N.(著)・馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹(訳).(2009).『社会の社会1』東京:法政大学出版局.


追記:本研究は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 

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