2015年12月29日火曜日

統合情報理論 (Tononi and Koch 2015) の公理、および公理と公準をまとめた図の翻訳





以下は、統合情報理論 (Integrated Information Theory) の公理の説明、および公理と公準を簡潔に要約した図の私なりの翻訳です。誤解・誤読・誤訳を恐れますので、何かお気付きの方はぜひお知らせください。

論文は以下からダウンロードできます(この論文は Open Accessです)。





Giulio Tononi, Christof Koch (2015)
Consciousness: here, there and everywhere?
(Phil. Tran. R. Soc. B.  May 2015, Volume: 370 Issue: 1668)
DOI: 10.1098/rstb.2014.0167










*****


pp. 5-6.

(a) 公理: 意識の本質的な現象学的特性

統合情報理論は、意識を原初的なものとして捉え、経験の公理 (図3左) を最初に同定し、次に公理に対応する公準  (図3右) を物理的基盤 [77, 80] について導き出す。統合情報理論の公理は、私たち自身の経験に関する想定であり、それが理論の出発点となる。理想的には、公理は本質的 (すべての経験にあてはまる) であり、完全 (どの経験にも共有されているすべての本質的特性を含む) であり、一貫しており (矛盾がなく) 、独立している (他の公理から導き出すことができない)。 現在の五つの公理が真に妥当で、完全で、独立しているかはまだわからない。5 五つの公理は、内的存在、構成、情報、統合、排除である。

(i) 内的存在
意識は存在する。私の経験は端的に存在している。まさにデカルトが4世紀前に実感的に理解したように、今ここでの私の経験が存在しているということ -- それが実在的であり現実的であるということ こそは、私が直接的かつ絶対的に確信をもてる唯一の事実である。さらに、私の経験は、それ自身の内的視点から存在するものであり、外的な観察者とは独立している。

(ii) 構成
意識は構造化されている。どの経験もたくさんの現象学的区別から構成されている。これらの区別には基礎的なものもあれば高次のものもあるが、これらも存在しているといえる。例えば、私はある一つの経験の中で、本、青色、青色の本などといった区別をすることができる。

(iii) 情報
意識は特定的である。どの経験もそれ固有のあり方、つまり、特定の現象的区別の特定の集合によって構成されており、それゆえに他の可能な経験とは異なっている 分化)。 したがって、真っ暗で無音であるの経験がそのようなものとして経験されるのは、とりわけ、その経験に光も音も、色も形もなく、本も青色の本もないからである。経験の性質上、その経験は私が持ちうる他の無数の経験とも必然的に異なっている。可能なすべての映画のすべてのシーンを考えてみるだけでもいい。そこにある視覚的知覚対象は、あらゆる可能な経験のほんの一部の部分集合であるにすぎない。

(iv) 統合
意識は統一されている。どの経験も、現象的区別からなる互いに独立した部分集合に還元できない。したがって、私が経験するのは目に見える景色の全体であり、視界の右側とは独立した視界の左側 (またはその逆) ではない。例えば、白紙の真ん中に ‘HONEYMOON’ と書かれているのを見るという経験を、左側に ‘HONEY’ を見る経験と右側に ‘MOON’ を見る経験との合算に還元することはできない。同様に、青色の本を見ることを、無色の本を見ることと形のない青色を見ることの合算に還元することはできない。

(v) 排除
意識は、内容と時空サイズにおいて確定的である。どの経験にも、それ固有の現象的区別の集合があるが、それはそれ以下のもの(部分集合)でもそれ以上のもの(上位集合)でもない。また、どの経験もそれ固有の速度で経験されるが、その速度はそれよりも速くも遅くもないものである。したがって、今、私が有している経験は、寝室のベッドの上にある自分の身体、本箱にある何冊かの本、その中の一冊の青色の本を見ていることであるが、私はそれ以下の内容をもつ経験を有してはいない -- 例えば、青色/青色以外や有色/無色といった現象的区別を欠く経験をしているわけでなない。また、私はそれ以上の内容をもつ経験を有しているわけでもない -- 例えば、高血圧/低血圧という現象的区別が加わった経験をしてはいない。同様に、私の経験は固有の速度で経験される。今の私のどの経験も百ミリ秒程度のものであり、私は数ミリ秒しかない経験をしているわけでも、数分や数時間にわたる経験をしているわけでもない。






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p. 7

公理: どの経験にも当てはまる本質的特性

公準: 物理的システム (ある状態にある複数の要素)が経験を生み出すために有していなければならない特性


内的存在

公理: 意識は内的に存在する。どの経験も実在するが、その実在はそれ自身の内的視点からの実在であり、外的観察者とは独立している (つまり内的に実在している)。

公準: 経験を生み出すためには、ある状態にあるメカニズムからなるシステムが内的に存在していなければならない。内的に存在するためには、そのシステムは因果の力を有していなければならず、それ自身の内的視点から存在するためには、システムは自分自身に対しての因果の力を有していなければならない。システムの現在のメカニズムと状態は、自分自身の一部の過去と未来の状態の確率に対して「差異を生み出す」ことができなければならない。


構成

公理:意識は構造化されている。どの経験も現象学的な区別により構成されている。その区別には基礎的なものもあれば高次のものもあるが、どの区別も意識の中に存在している。

公準: システムは構造化されていなければならない。システム要素の(さまざまな組み合わせで構成された)部分集合は、システムに対して因果の力を有していなければならない。


情報

公理: 意識は特定のものである。どの経験もそれ固有のあり方を有する (特定の現象学的区別を有する特定の集合から構成されている)。ゆえに、どの経験も他の可能な経験とは異なっている 分化)。

公準: システムは、それぞれの経験にとっての固有のあり方である因果の構造を特定できなくてはならない。かくして、システムはそのシステム特定のあり方であるということによって、その他の可能な構造と異なっていなければならない 分化)。 因果レパートリーは、ある状態下のあるメカニズムが有するすべての可能な因果についての確率を特定する。因果の構造とは、システムの要素からなるすべての部分集合によって特定される因果のレパートリーの集合であり、そのシステムが可能空間においてどのように現実の形態をとりうるかを表現する。


統合

公理: 意識は統一されている。どの経験も、現象的区別から構成される互いに独立した部分集合には還元できない

公準: システムにより特定される因果の構造は統一されていなければならない。システムは、最も弱い (一本の) 分割線 -- MIP (最小情報分割) -- で分割された、互いに独立した下位システム Φ > 0 により特定されるシステムには還元できない


排除

公理: 意識は、内容および時空サイズにおいて確定的なものである。どの経験も現象学的区別の集合からなるが、その集合はそれ以上でも以下でもない。どの経験もある速度で経験されるが、その速度はそれ以上でも以下でもない。

公準: システムによって特定される因果の構造は確定的なものでなければならない。要素の数がそれ以上でも以下でもない数からなる要素から構成され、時空サイズがそれよりも速くも遅くもない時空サイズを有する唯一の集合によって特定されていなければならない。これは、内的に最大の還元不可能な max) 因果の構造であり、これは概念構造と呼ばれる。概念構造は、最大の還元不可能な最大の因果レパートリー 概念 から構成されている。


3  統合情報理論 (IIT) の公理と公準。挿絵は Ernst Machの「左目からの視界」 [84] に色をつけたものである。図4のメカニズムも参照のこと。












このFigure 3は、下のURLから直接見ることもできます。







関連記事

統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察― (学会発表スライド)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/blog-post_8.html


統合情報理論 (Tononi and Koch 2015) の公理、および公理と公準をまとめた図の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/tononi-and-koch-2015.html


統合情報理論 (Tononi 2008) の哲学的含意の部分の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/11/tononi-2008_16.html


統合情報理論 (Tononi 2008) において、意味について言及されている箇所の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/11/tononi-2008.html

統合情報理論: Tononi (2008) の論文要約とTononi and Koch (2015) の用語集 (表1) の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/tononi-2008-tononi-and-koch-2015-1.html

Tononi (2008) "Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto" の「数学的分析」の部分の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/tononi-2008-consciousness-as-integrated.html

統合情報理論を直観的に理解するための思考実験
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/blog-post_7.html

クリストフ・コッホ著、土屋尚嗣・小畑史哉訳 (2014) 『意識をめぐる冒険』 岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/2014.html

2015年12月23日水曜日

講演会「真面目さにつぶされない生き方: 学校教師の卵へのメッセージ」を2/6(土)に広島大学教育学部で開催します。





このたび各地でセミナー講師としてご活躍の木谷淳二(きだに・じゅんじ)先生をお招きして、講演会「真面目さにつぶされない生き方: 学校教師の卵へのメッセージ」を開催することにしました。



私が木谷先生にお会いしたのは、(ここでは敢えてお名前を出しませんが)ある著名な方(私が尊敬してやまない方)のワークショップの後の懇親会でのことですが、木谷先生の深くて抱腹絶倒のお話は懇親会に参加していた全員を魅了というより感嘆させました。

私が尊敬してやまない方は、いつも沈着冷静なことで知られているのですが、その方すら腹を抱えて笑ったいましたし --私はそんな姿を初めて見ました--、そこに居合わせたプロのライターの方も「とてもこの方の魅力は文章にはできません」と感服していました。

とても面白おかしくお話をされる木谷先生ですが、そこには人間への深い洞察があります。このような方には、学校教育関係の人脈ではなかなか会えるものではありません。幸い木谷先生は広島大学からそれほど遠くないところにお住いなので、ここはぜひ一度、広島大学教育学部で講演をしてもらおうということになりました。

講演のタイトル「真面目さにつぶされない生き方: 学校教師の卵へのメッセージ」が示していますように、主な聴衆としては広島大学で教師を目指している学生さんを想定しています。

下のチラシにも書きましたように、教師志望者はもともと真面目で他人思いの人が多いのですが、時に、学校教育現場では杓子定規に管理されたり、ごく一部の保護者や子どもからは無理な要求を課せられたりします。そんな状況で心が折れてしまう若い教師もいないわけではありません。そういったわけで、学校以外でさまざまな人生経験をなさっている木谷さんに、教師志望者へメッセージを送っていただければと思い、この講演会を企画した次第です。


会場には一般聴衆を入れてもよいという許可を得ておりますので、広島大学以外の学生さんや現役教師、あるいはその他一般の参加者も歓迎します。


開催要領は以下のとおりです。


講師: 木谷淳二先生

タイトル:真面目さにつぶされない生き方: 学校教師の卵へのメッセージ
 日時: 2016年2月6日(土) 12時00分 - 13時30分

会場: 広島大学教育学部L205教室
広島大学東広島キャンパスへのアクセス方法
(土曜日なのである程度の駐車スペースは大学内にあります)
http://www.hiroshima-u.ac.jp/top/access/higashihiroshima/

広島大学教育学部のキャンパスマップ
http://www.hiroshima-u.ac.jp/add_html/access/ja/saijyo3.html

入場: 無料(事前申込の必要もありません)
問い合わせ先: 柳瀬陽介 (yosuke「アットマーク」hiroshima-u.ac.jp)





なお、当日の同会場では、引き続き14時受付開始、14時半開始で、教育学部中尾佳行先生の最終講義も行われます



広島大学大学院教育学研究科
中尾佳行教授 最終講義


Ambiguity in Language
―詩人チョーサーから英語教育を見通す―

詳しくは下をクリック
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/26.html




広島大学卒業生の方は、ぜひ2/6(土)は懐かしいキャンパスに帰ってきて、木谷先生による深い人間の話と、中尾先生による深い学問の話を楽しんでください。




皆様、どうぞお誘い合わせの上、お越しください。このブログ記事や下のチラシのSNS拡散などを歓迎します。







チラシのダウンロードは以下からできます。
https://app.box.com/s/h9p5t49d8s0av236s5dn0u7dardpuedq






2015年12月22日火曜日

オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について



この記事は、前の記事(「オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について」)に引き続き、齋藤環(2015) 『オープンダイアローグとは何か』(http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=87749)に翻訳が掲載された論文のごく一部を私なりに訳してみたものです。私としては、翻訳することによってこの論文が表現しようとすることをよく考えることと、その後の私にとっての一種の作業メモを作るという二つの目的をもってこの記事を書きました。信頼できかつ読みやすい翻訳を読みたい方は、ぜひ齋藤先生の本をご参照ください(翻訳だけでなく、各種の解説や訳注などがとても充実しています)。

今回私がその一部を翻訳した論文は、以下からアクセスできます(上掲書では第三論文です)。



Seikkula J and Trimble D. (2005)
Healing elements of therapeutic conversation: dialogue as an embodiment of love
Family Process, 44(4):461-75.




以下の■印に続く太字部分は、私が適当につけた見出しです。翻訳はかなり意訳になっております。
⇒印に続く文章は、私の蛇足です。

以下に私が翻訳した部分は、オープンダイアローグの実践上の原則やオープンダイアローグにおける情動 (emotion) と身体性 (embodiment) の重要性を述べた部分だと私は理解しています。



*****


■ 傾聴と対応と反照

専門家たちはどの当事者の発言にも丁寧に耳を傾け、敬意をもった対応をします。専門家たちは情動が表現されるように心がけます。専門家自身もありのままの人間として正直に真摯な対応をします。当事者の感情に心が動かされたことを正直に表すようになった専門家にとっての課題は、集まりで生じてきた強い情動的な状況を容認することです。また、専門家同士は当事者たちの目の前で語り合うこともしますが、この専門家による語り合いは、「リフレクティングチーム」(反照班)としての機能を果たします。この語り合いを聞くことにより、当事者たちは自分たちの経験の意味を理解する新たな可能性を得ることができます。治療の初期段階では特に結論を出すことは差し控えられます。結論を出すよりも、会話を広げ深めて、当事者と専門家の全員が一つのシステムとなって、極度のストレス状況での一義的な答えのない状態を容認できるようにすることが望まれているのです。このことによって、困難な状況に対して働きかけるための複数の新しい考えが浮かんでくるようになります。

Everyone's utterances are listened to carefully and responded to respectfully. Team members support the expression of emotion. They respond transparently and authentically as whole persons. Transparent about being moved by the feelings of network members, the team members' challenge is to tolerate the intense emotional states induced in the meeting. Their conversations among themselves in the presence of the network serve the function of a reflecting team, expanding the network members' possibilities for making sense of their experiences. Particularly in the beginning phase of treatment, decisions are deferred in favor of expanding and extending the conversation, enabling the system to tolerate ambiguity in the context of extreme stress. This makes it possible to entertain new ideas for addressing the troubled situation. (p. 462)

⇒私は以下の論文でも「異なるが対等」という原則を大切にしましたが、ここでの専門家は当事者と対等な人間として自らの情動に対して正直に向き合いつつ、当事者とは違った機能を果たすべき専門家として、当事者の報告(ルーマン的な言い方をするなら「一次観察」)を反照 (reflect) する「二次観察」を当事者の目の前で開示します。この二次観察を当事者はさらに二次観察(あるいはこういう言い方の方がお好きなら三次観察)をして、さらに語り合いは続くわけですが、私としてはこの「異なるが対等」な関係性が重要なのではとも思っています。

柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」
(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)



■ 新たに分かち合われる言語と人格的な共同体

初期段階に専門家たちは、当事者が日常的に使っている言語を自分たちの発言の中にも織り込んで使うよう配慮します。専門家たちが当事者一人ひとりのことばと感情を敬意をもって注意深く引き出してくるにつれ、会話は展開しはじめます。当事者たちが専門家たちを仲間とみなしはじめるにつれ、専門家たちと当事者たちの間で新たに分かち合う言語が現われ、新たな意味が現われてきます。このプロセスの劇的な部分は、専門家の華々しい介入にあるのではありません。当事者たちが、専門家たちも受け入れつつ、情動的なやり取りを行い、互いを大切に思い合う人格的な共同体を創出あるいは再生させることが劇的なのです。

At the beginning, team members are careful to incorporate the familiar language of the network members into their own utterances. As team members respectfully and attentively draw out the words and feelings of each network member, the conversation shifts. As the original network incorporates the team into its membership, new meanings emerge when new shared language starts to emerge between the team and members of the social network. The drama of the process lies not in some brilliant intervention by the professional, but in the emotional exchange among network members, including the professionals, who together construct or restore a caring personal community. (p.462)


⇒当事者が専門家の権威的で権力的な専門用語に圧倒されてしまい自らの主体性を失ってしまうことは防ぐべきだといった洞察は当事者研究(このページの最下部参照)でも重視されていることかと思いますが、専門家が当事者なりの表現を大切に扱い、両者が共にお互いに納得できることば遣いを見出すことはとても大切だと私も考えます。教育現場では、学習指導要領の用語などが、いわば問答無用の聖句のように引用されると、そこで思考が止まってしまうこともしばしば見受けられます。私はこれは悪い習慣だと思い続けていますので(下の本もご参照ください)、このオープンダイアローグには学んでゆきたいと思います。






■ 当事者の発言の間合い (rhythm) とやり方 (style) の尊重

専門家が当事者に対して投げかける問いの形式は予め決められていません。そうではなく、発言者一人ひとりに丁寧に気持ちを寄り添わせることで、専門家の長は、直前の応答から次の問いを創りだします(例えば、直前の応答を問いを出す前に丁寧に繰り返すとか、直前の応答で使われたことばを問いの中に織り込むといったやり方です)。ここで決定的に大切なことは、この過程がゆっくりと進み、参加者それぞれの語りの間合いとやり方が保たれ、誰もが居場所をもち、自分が発言することを求められそのための支援も受けていると感じることができることです。

The form of the questions is not preplanned; on the contrary, through careful attunement to each speaker, the leader generates each next question from the previous answer (e.g., by repeating the answer word for word before asking the question or by incorporating into the language of the next question the language of the previous answer). It is critically important for the process to proceed slowly in order to provide for the rhythm and style of each participant's speech and to assure that each person has a place created in which he or she is invited and supported to have his or her say.  (p.462)

⇒これは私自身反省するべきところです。私は教育現場にしばしば「専門家」として招かれいろいろしゃべりますが、そのしゃべり方は「言語強者」として一方 的なものになりかねません。まずは当事者の間合いと語り方を尊重し、そして少しずつお互いの間合いと語り方を見出すことが重要かと思います。間合いといっ た概念については木村敏先生の著作がとても啓発的です(私は以前木村先生の著作を集中的に読んだことがあるのですが、ノートにまとめていないので、今は正確な引用をすることができません。)




■ 対象ではなく、同じ主体として

対話とは相互的な行為ですから、心理療法の一つとして対話に注目をすることによって、療法家の立ち位置は変化します。療法家はもはや介入者としてではなく、相互に発言し対応する過程への参加者として行為します。当事者を対象として見ずに、療法家自身が主体間の関係性の一部となるのです。
Dialogue is a mutual act, and focusing on dialogue as a form of psychotherapy changes the position of the therapists, who act no longer as interventionists but as participants in a mutual process of uttering and responding. Instead of seeing family or individuals as objects, they become part of subject-subject relations (Bakhtin, 1984). (p. 465)

⇒ 私たちは人間科学における「客観性」という概念についてもっと真剣に考えるべきかと思います。(私自身もいつかきちんと教育現場に即した文章をまとめたいです)。以下は以前のブログ記事の一部です。

量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
フッサール『危機』書(第三部)における「判断停止」についてのまとめ ― 質的研究の「客観性」を考えるために ―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/blog-post_17.html
C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/cg-1987.html
「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」のスライドとレジメ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/05/blog-post_27.html





■ 対応において大切なこと

「ことば(ということはひいては人間)にとって、まったく対応されないことほど恐ろしいことはない」というのがバフチン (1975) の考え方です。発話は対応を受けてはじめて意味をもつという対話の原則を尊重し、専門家たちは当事者が言ったこと対して応答しようと努力します。応答は必ずしも説明や解釈を与えることではありません。応答とは、むしろ、当事者が言ったことに注目したということを反応で示すことであり、可能ならば、その発言に関する新たな視点を開示することです。応答は、反応するために無理やり会話を中断させることではありません。応答とは、自分のことばを会話の中で自然に生じてきた間合いに合わせることです。専門家たちは自分の心と身体のすべてでもって、同じ部屋にいる一人ひとりが言わずにはいられないことに対して嘘偽りのない興味をもって反応します。誰かの発言は間違いだといったほのめかしは避けます。この過程で当事者は自分の声を見出し、かつ、自分自身への反応者にもなります。発言者は、自分の発言に対する感想という応答を受け止め、改めて自分のことばを聞くことによって、自分が言ったことをより深く理解することができます。専門家が問いかける時には、当事者がなじんでいる日常のことばを使います。そのことによって、ありふれた細かなことも、再び語られた出来事における苦しい情動のどちらも含む物語が語られるようになります。ある当事者が語ったことに対して他の当事者がどのような感想をもったかを尋ねます。そうやって、出来事が多声性にみちたものとして描かれます。

From Bakhtin's (1975) perspective, “for the word (and consequently for a human being) there is nothing more terrible than a lack of response” (p. 127). Respecting the dialogical principle that every utterance calls for a response in order to have meaning, team members strive to answer what is said. Answering does not mean giving an explanation or interpretation, but rather, demonstrating in one's response that one has noticed what has been said, and when possible, opening a new point of view on what has been said. This is not a forced interruption of every utterance to give a response, but an adaptation of one's answering words to the emerging natural rhythm of the conversation. Team members respond as fully embodied persons with genuine interest in what each person in the room has to say, avoiding any suggestion that someone may have said something wrong. As the process enables network members to find their voices, they also become respondents to themselves. For a speaker, hearing her own words after receiving the comments that answer them enables her to understand more what she has said. Using the everyday language with which clients are familiar, team members' questions facilitate the telling of stories that incorporate the mundane details and the difficult emotions of the events being recounted. By asking for other network members' comments on what has been said, team members help create a multivoiced picture of the event. (p. 466)

⇒オープンダイアローグはバフチンの哲学に大きな影響を受けています。バフチンに関しては私は20年ぐらい前に集中的に読みましたが、これもノートを作成しなかったので、きちんと論考することができません。時間を見つけてもう一度読み直したいと思います(ただ、私はロシア語がまったくできませんので、日英の翻訳書を読めるぐらいなのですが・・・)。人文系として、英語以外の外国語に弱いことは本当に恥ずかしいことだと思っています。



■ 当事者の語り方への注目

当事者たちにとって最初に重要に思えるのは会話で何が語られたかでしょうが、専門家たちが最初に焦点をあてるべきは、その内容がどのように語られたかということです。どんな方法論的な決まりごとよりも大切なのは、その瞬間瞬間を大切にして存在することであり、対話が展開するにつれ生じることに適った行為を行うことです。

Although the content of the conversation is of primary importance for the network members, the primary focus for the team members is the way that the content is talked about. More important than any methodological rule is to be present in the moment, adapting their actions to what is taking place at every turn in the dialogue.  (p. 467)

⇒専門家が当事者の身体について具体的に注意を払うべきことは他所でも書かれてますが、長くなりますので、ここだけにとどめました。しかしダマシオや野口三千三のように、身体の動きがことばになると考えると、ことばを出しにくい状況にある人の身体に注目しなければならないことは自明のことだと思われます。ただ、その自明なことが軽んじられていることが残念です。


■ 早急な結論を控える

専門家は早口でしゃべることや結論に急ぐことを避けなければなりません。既成の答えや解決策のない状況を容認することによって、当事者は自分の中にある心の潜在力を活用することができるようになります。様々な複数の声が相互に補い合うようにしながら状況を共有すれば、新しい可能性が生まれてきます。ですが、これらの可能性が、どうするべきかという問いに対する一義的な最適解として現れることはめったにありません。

Team members avoid speaking too rapidly or moving toward conclusions. Tolerating a situation in which no ready-made responses or treatment plans are made available enables network members to make use of their own natural psychological resources. As multiple voices join in the sharing of the situation, new possibilities emerge. These possibilities seldom emerge as a single unambiguous response to the question of how to go on. (p. 467)

⇒複合性の観点からしても、現実世界の問題に一義的な最適解が一つだけ見つかると仮定する方が間違いだと思いますが、いわゆる「学問をした人」というのは、一義的な最適解を見つけるのが大好きですから、この複合性の中の多声性、あるいは複数の異なる人間の共存による力の発見を疎んじます。疎んじるだけならまだしも「学問をした人」はやたらと現場に対して権威を振りかざし権力を行使することが好きですから、しばしば現場は「学問をした人」に荒らされてしまいます。こういったことを防ぐ対抗策として、オープンダイアローグといった実践を理論的に考えておくことは重要だと思います。

ちなみにデューイが『民主主義と教育』の13章(The Nature of Method)で論じていることをまともに読んだら、方法論の良さを比較実験の手法で示そうとしている研究者は深刻な打撃を受けてしまうと私は思っています。よかったら、下の解説ページもぜひお読みください。




■ 互いに相補う言語 

専門家と当事者は一緒になって、互いに相補いながら言語を使ってゆく空間を作りあげてゆきます。この状況の中で参加者が自分なりのことばの使い方でことばを使うことを認め合います。このように互いに相補って使われる言語は、対話の参加者の間に現れ、参加者が出来事とその中での情動の経験をどのように共有しているかを表現します。

Together, team and network members build up an area of joint language in which they come to agreements about the particular use of words in the situation. This joint language, emerging in the area between the participants in the dialogue, expresses their shared experience of the incidents and the emotions embedded in them. (p. 472)

⇒ここは私が第一論文での"joint understanding"を重要概念として理解しているので、 "joint language"について書かれている箇所を敢えて翻訳してみました。。この第三論文では "shared language" (分かち合う言語・共有言語)という用語の方が多く使われていますが、私はそれと "joint language"(互いに相補う言語・互助相補的言語)はやはり区別されるべきではないかと思っています。もちろん、これは私の読みこみ過ぎで、原著者は二つの表現をほぼ同義として使っているのかもしれませんが・・・















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石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
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2015年12月21日月曜日

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について



斎藤環先生による『オープンダイアローグ』は大変にわかりやすい本で、「開かれた対話」を行うことが、精神疾患の抜き差しならぬ状況の改善にも効果的であるというフィンランドでの事例を一般読者にもよく伝えてくれます。コミュニケーションと教師による語り合いの二つに興味をもつ私もこの本で、オープンダイアローグについてのある程度の知識を得ることがでました。



この本の中には三本の英語論文の翻訳が掲載されていますが、これが非常に読みやすい翻訳です。私としてはあまりにも面白かったので、英語論文の方にも目を通してみることにしました。英語で読むとまた日本語翻訳を読むのとは少し異なった角度から考えることができ、非常に有益でした。

そこで私なりにさらに理解を深めるため、英語論文の一部を自分なりに翻訳してみることにしました。その翻訳をした後で本書の翻訳を再度読んでみると、本書の翻訳が非常に優れたものであることが再確認(というより痛感)できましたが、個人的には、原文と翻訳と拙訳の比較でさらにこの論文が表現しようとしている内容に新たな角度から考えることができたと思っています。

以下に掲載するのは、本書に翻訳が掲載されている第一論文の一部の拙訳とそれに対応する原文です。可能ならば、本書の優れた翻訳を掲載すればいいだけなのでしょうが、著作権の関係からそれは控えるべきでしょう。本書の内容に興味をお持ちの方は、ぜひ本書をご購入してその優れた翻訳をお読みください。

なお、この第一論文を含めた三本の論文は容易にインターネットで読むことができます。この第一論文は以下のページから閲覧しました。



Seikkula J, Olson ME. (2003)
The Open Dialogue Approach to Acute Psychosis: Its Poetics and Miropolitics
Family Process, 42(3):403-18.




以下は、この論文の中で、特にコミュニケーションの原理(「オープンダイアローグの詩学」)として説明されている三つの原則(「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」)のごく一部です。

こういった原則は、教師の間、教師と児童・生徒の間、教師と保護者の間などでのコミュニケーションにおいても重要だと考えましたので拙訳を掲載する次第です。私としては、コミュニケーションの言語が第一言語(日本語)であろうが第二言語(英語)であろうが、こういった原則は尊重されるべきであると考えています。

もちろん精神疾患現場での議論をそのまま教育現場の議論に無批判的・無思考的に適用することは慎むべきです。二つの現場の違い(あるいは、そもそもフィンランド文化と日本文化の違い)をよく考えた上で、このオープンダイアローグの知見は応用されるべきでしょう。以下の拙訳は、そのように考えるための材料の一つとして掲載することを念のために述べておきます。





*****




オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)



■ 詩学 (poetics) の定義

ここでいう「詩学」とは、人と人が顔を合わせている状況での言語とコミュニケーションの実践を指す用語です。

The term “Poetics” refers to the language and communication practices, in face-to-face encounters (Hoffman, 2002; Olson, 1995).  (p.404)



■ 不確定性の容認 (Tolerance of Uncertainty)

不確定性の容認とは、仮説形成やそれ以外の評定手段を体系的に実行することとは異なる原則、いや、それとは真反対の原則です。実践的には、会合を頻繁に開き対話の質を高めることで不確定性が容認できるようになります。

Tolerance of uncertainty is the counterpart to, in fact, the opposite of, the systemic use of hypothesizing or any other kind of assessment tool.
In practice, tolerance of uncertainty is constituted by frequent meeting and by the quality of dialogue. (p. 408)


耳を傾け一人ひとりの声と視点に対応し、一人ひとりを正統な参加者として認めることで安心感が生じます。このような容認がなされれば、家族や患者の心理的(私たちの言い方なら「対話的」)な潜在力がもっと活かされる可能性が生じます。このことによって、困難な出来事の経験を表現する言語を以前はもっていなかった家族や患者が行為主体へと変容します。

Safety is established initially by hearing and responding to every person's voice and point of view, thus legitimizing each participant. If this king of tolerance is constructed, there emerge more possibilities for the psychological (or what we might now call “dialogical”) resources of the family and the patient who thereby become agents who previously did not have a language to express their experience of difficult events. (p. 408)


したがって、セラピストは予め問題は何であるかを定義することなしに対話に参加します。対話自体が新しい考えと物語をもたらすと信じているからです。

The therapists therefore enter without a preliminary definition of the problem in the hope that the dialogue itself will bring forward new ideas and stories. (p. 408)



■ 対話主義 (Dialogism)

対話についてのバフチンの考えと、その考えを精神病の状況に適用することの根底には、社会的現実を構成しているのは言語とコミュニケーションであると考える伝統があります。ことばを紡ぎ出して象徴的なコミュニケーションを行うということは、声を見出し、アイデンティティを見出すことです。これは、互いに相補う「人々の間で」生じる行為主体的な活動です (Gergen, 1999)。こう考えることにより、危機は、自己と社会的世界を構成する物語・アイデンティティ・関係性という織物を織り上げ、織り直す機会となります。

The Bakhtinian idea of dialogue and its adaptation to the psychotic situation derive from a tradition that sees language and communication as primarily constitutive of social reality. Constructing words and establishing symbolic communication is a voice-making, identity-making, agentic activity occurring jointly “between people” (Gergen, 1999). The crisis becomes the opportunity to make and remake the fabric of stories, identities, and relationships that construct the self and a social world. (p. 409)



■ 多声性 (Polyphony)

意見の食い違いが生じた場合、望ましいのはすべての声の存在を認め、互いに耳を傾けあい意見を交換することです。正しいか間違っているかのどちらかだという○か×かの考え方はやめるべきです。だからといって、誰もがすべての視点を受け入れなければならないというわけではありません。人々の間には意見の相違があるものです。よい変化が生じるのは、安心できる環境で異なるものの見方が表明されるという単純なことからです。私たちが目指しているのは、お互いが相補いながら理解することであり、全員一致の合意を得ることではありません。

When differences arise, the hope is to give all voices room to exist and thus encourage listening and exchange, rather than polarized, right-or-wrong thinking. This does not mean that everyone has to accept all points of view; people can disagree. Positive changes can take place simply from the airing of different perspectives in a safe climate. The goal is to generate joint understanding, rather than striving for consensus.  (p. 410)


******



「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」のどれも、現代(日本)文化が抑圧しているもののであるような気がします。エビデンスつきの確実な結論をもった者だけが発言権を得て対話を無駄な営みと軽視し、現場に一つの声だけを響き渡らせようとする抑圧的な雰囲気が、教育現場にも浸透しようとしているような気さえ私にはします(私が知っている英語教育の現場が例外的であることを望みたいのですが・・・)。

その意味で、「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」という重なりあう三つの原則については大切に考えたいのですが、今回、特に印象的だったのは、"joint understanding"という用語でした。これは "consensus" (全員一致の合意)の対立概念として使われている用語で、本書はこれを「理解と理解を結び合わせること」と翻訳していましたが、絶妙な翻訳だと思います。

上の拙訳では「お互いが相補いながら理解すること」と(やや冗長に)翻訳しましたが、要点は「全員に共通している理解がなくとも、一人ひとりが自分なりの理解をして、その理解がコミュニケーションを通じて相補うように働くことで、全員でなんとか協働的に理解をするができる」といったことかと私は理解しました。

英語の表現に "unity of difference"というのがありますが、お互いの違いが統合されることにより、問題が理解されてゆくというのは、人間の複数性を欠くべからざるものとして尊重する態度に重なると私は思っています。

また、人間の経験世界の複合性 (complexity) からすれば、単一の視点からの一つの見解だけで経験世界全体を把握しようとすることは愚かなことで、その単一の見解で経験世界を支配しようとするのは極めて危険だと考えられます。私たちは最終解がないままに、互いに耳を傾けあい、お互いに相補いながらなんとか事態を乗り切ってゆくべきではないでしょうか。

そういった考えは、一つの結論だけで突き進んでゆく勇ましい考え方からすれば、いかにも我慢のならないことのように思えるかもしれませんが、私は過度の単純さと性急さこそが批判されるべきだと思っています。というよりも意見の違いと不確定性を容認し、対話を続けてゆく文化こそが民主主義ではないでしょうか。

こういった意味でも、私としてはこの"joint understanding"という概念について考えを深めたいと思っています。


追記 (2015/12/22)
"Joint understanding"は、「互助相補的理解」あるいは「相互扶助的理解」と翻訳してもいいのではないかとも思い始めました。訳語については今後も考え続けたいと思います。








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石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
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2015年12月20日日曜日

1/9(土)に広島大学でシンポジウム「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」が開催されます



下記の要領で、小学校英語教育に関するシンポジウムが開かれます。ご関心がある方はぜひお越しください。


タイトル:シンポジウム「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」

日時: 2016年1月9日(土)13:00~16:30

場所:広島大学大学院教育学研究科
(東広島市鏡山1-1-1 広島大学東広島キャンパス)
    K棟102教室

問題提起:
「小学校での言語教育を考える―英語教育導入の流れの中で―」
大津由紀雄氏(明海大学外国語学部教授・慶應義塾大学名誉教授)

シンポジウム:
「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」
   柳瀬陽介(広島大学大学院教育学研究科教授)
   朝倉 淳(広島大学大学院教育学研究科教授・広島大学附属東雲小学校長)
   本岡 寛氏(東広島市立東西条小学校教諭)
   指定討論者:大津由紀雄氏
   司会:難波博孝氏(広島大学大学院教育学研究科教授)

定員:150人
参加費:無料

参加申し込み
http://www.hiroshima-u.ac.jp/schedule/show/id/15697
からお申し込みください。

*****

私の発表の要点は、

(1) 中高の英語教育の大規模客観テスト導入と単一言語主義の流れが、小学校に入り込むことを警戒する。

(2) 小学校英語教育の当事者である教師と子どもの「語り合う力」を活かすことがもっとも現実的で有効な方法であると考える(「語り合う力」の概念についてはアレントをもとにまとめる)

(3) 「語り合う力」を具体的につける指針を示す

といったものです。



以下は、現時点での私の構想です。(パワーポイントは後日公表します)。




小学校英語教育から「語り合う力」を奪うな
― 大規模客観テストと単一言語主義の暴走を防ぐ ―

柳瀬陽介(広島大学)

1 近代社会の進歩と抑圧

2 教育における目的と目標の転倒
2.1 目的と目標の違い
2.2 数値目標による管理と支配

3 中高の英語教育の近年の流れ
3.1大規模客観テスト(外部試験)の公教育への導入
3.1.1 教育の成果の数値化と個人帰属
3.1.2 いわゆる「英語力」の貨幣化と資本化
3.1.3 公教育の私事化の進行
3.2 外国語教育の単一言語主義と複合的言語観の否定
3.2.1 教科としての英語至上主義と複合的言語主義の否定
3.2.2 授業内の単一言語使用と複合的言語使用の否定

4 「語り合う力」とは何か
4.1 民主主義社会の権力の源泉
4.1.1 異なっているが同等な複数の人間の共存
4.1.2 公共的空間に現れるが固定化できず個人が所有も制御もできない
4.1.3 複数の人間の共存を引き受ける人々が設計図なしに創り出す現実
4.2 英語教育における「語り合う力」
4.2.1 華々しい学会報告と現場の実感
4.2.2 外国語活動や民間英語教育の知恵

5 「語り合う力」を取り戻すために
5.1 実践の別の語り方を見出す
5.2 当事者研究に学ぶ
5.3 オープン・ダイアローグに学ぶ
5.4 自己参照性から考える「振り返り」の方法
5.5 教育と民主主義















2015年12月15日火曜日

中尾佳行先生の最終講義を2/6(土)に開催します


純粋な学究心に基づく博学多識と温かいお人柄で、私たちが敬愛してやまない中尾佳行先生が、今年度でご退職なさいます。

中尾先生は、以下の要領で最終講義をなさいます。歓談の時間もございますので、皆様ぜひお誘い合わせの上お越しください。



広島大学大学院教育学研究科
中尾佳行教授 最終講義

Ambiguity in Language
―詩人チョーサーから英語教育を見通す―


日程
2016年2月6日(土)
場所
広島大学教育学部 L205
受付
14時~14時半
講義
14時半~16時
歓談
16時~16時半

申込手続きは不要です。
直接会場にお越しください。








※この情報を皆さんのSNSなどで広めてくださることを歓迎します。もしポスターが必要な場合はここをクリックしてダウンロードしてください。

2015年11月16日月曜日

統合情報理論 (Tononi 2008) の哲学的含意の部分の翻訳




以下は、統合情報理論 (Integrated Information Theory) についてまとめられた Tononi (2008) のうち、哲学的な含意に関する箇所の一部 (pp.232-234) を私なりに翻訳したものです。存在と記述といった論点を整理するために役立つのではないかとも考えました。(翻訳からのリンクは、私が加えたものであり、原文に存在するものではありません)。

今回の翻訳部分については自然科学的知識が前提とされている箇所が多くありますので、とりわけ私の誤解・誤読・誤訳を怖れます。間違いがあればご指摘ください。すぐに修正します。


Giulio Tononi (2008)
Consciousness as Integrated Information:
a Provisional Manifesto
(Biol. Bull. December 2008 vol. 215 no. 3 216-242)







基本的性質の一つとしての意識

  統合情報理論によるなら、意識と統合情報は同一のものである。この同一性は統合情報理論が始まった時になされた現象学的思考実験から予測されたことだが、存在論的な帰結を有している。意識は疑いえなく存在している(実際のところ、存在に関して疑問の余地がないのは意識だけである)。もし意識が統合情報であるのなら、統合情報は存在する。さらに、統合情報理論によれば、統合情報は質量電荷エネルギーと同様に、基本的性質の一つとして存在している。ある機能的なメカニズムがある状態にあるならば、その事実ゆえに、統合情報は統合情報として存在していなければならない。具体的に述べるならば、統合情報は、ある質 (統合情報が生み出すクオリアの形) と量 (統合情報の「最大の」Φ)を有した経験として存在する。

  もしこれらの前提を受け入れるならば、次のように考えると基本的特性としての意識について考えやすくなる。私たちは今や、宇宙を、質量・電荷・エネルギーの莫大な集まり 惑星や恒星から銀河にいたる輝く大きな存在物(輝きはエネルギーや質量を反映している) -- を含んだ巨大な空間だと考えることに慣れている。この考え方 (つまり、質量・電荷・エネルギー) からすれば、私たち一人ひとりは、存在しているものの中で非常に小さな部分を占めるにすぎない -- 実際、わずかな塵以上のものではありえない。

  しかし、もし意識(ということは、統合情報)が基本的性質の一つとして存在しているなら、そこから上の考え方と同じぐらい妥当な宇宙観を導きだすことができる。宇宙は巨大な空間で、そこにはほとんど何もなく、ところどころにわずかの統合情報 (Φ) -- わずかな塵ぐらいと言っていいだろう -- があるだけだ。質量・電荷・エネルギーの観点からすれば莫大な集まりがあるところですら、そのことに変わりはない。他方、私たちが知っている宇宙の小さな片隅には、非常に輝いている存在物が並外れて集中して存在しており、その輝きは周りにあるものすべてをはるかに凌駕している (輝きは高いΦ値を反映している)。輝くΦ恒星の一つ一つは個々人の主要複合体である(おそらく、個々の動物の主要複合体でもあろう)。13 このようなΦ中心の考え方は、少なくとも質量や電荷やエネルギーによって充たされた宇宙という考えと同じぐらいには妥当なものであると私は論証している。いや、Φ中心の考え方の方がより妥当だとも言えるかもしれない。なぜなら、十分に意識的であることは (高いΦ値をもつことは)、[ あなたが ] あなたであるということには何らかのものがあるということを含意しているからだ。他方、もしあなたが質量や電荷やエネルギーがあるということでしかなかったら、[ あなたが ] あなたであることにはほとんどあるいはまったく何もないことになるかもしれない。この立場からすれば、高いΦ値をもつ存在物は、多くの質量をもつ存在物以上の強い意味で存在しているとも思える。

  興味深いことに、統合情報理論とは異なる視点から、情報は、通常の物理的特性よりも、存在論的な意味において先立つと提唱されてきた bitからitという視点 Wheeler and Ford, 1998)。この考え方は正しいかもしれないが、統合情報理論によるならば、情報という用語を「統合情報」と入れ替えてのみその正しさは保たれる。14 私がこれまで論証してきたように、統合されていない情報は経験と関連しておらず、そのことゆえに、それ自身として存在しているとは言いがたい。情報は、ある意識をもった観察者がそれを利用して自分の中の主要複合体で何らかの区別をした時に、間接的な存在を与えられるだけである。本当のところ、同じ「情報」も異なる観察者にはきわめて異なる帰結を生み出しうるのだから、情報は観察者を通じて存在しているのであり、情報自体で、情報自身が構成要素となって存在しているのではない。



内的特性の一つとしての意識

基本的特性の一つとしての意識は、内的特性の一つでもある。このことが意味しているのは単純で、統合情報を生成している複合体は、外的視点とは関係なしに、ある形で意識的であるということだ。実在しているようなシステムの統合情報量を測定しようとしたらどれほど困難かを考えるとき、この点が特に重要となる(クオリアの形の計測がもっと難しいことは言うまでもない)。ある複合体の境界線や、それが生成する統合情報の量や、それが特定する情報の関係性の集合や、Φが最高値になる空間-時間の量を知りたいと私たちが願うなら、私たちはやる気が挫かれるほどの大量の計算をしなければならない。システムをあらゆる可能なやり方で刺激し、ベイズ規則を使って現在の出力から過去の状態の確率を推定し、可能な確率分布と現実の確率分布の間の相対エントロピーを計算しなければならない。さらに、同じことを、(複合体を見つけるために)すべての部分集合に対して行い、(それぞれのクオリアの形を得るために)結合のあらゆる組み合わせに対しても行わなければならない。最後に、それらの計算を、統合情報を生成するための最適時空サイズを決定するために複数の時空の規模で行わなければならない(後述)。言うまでもなく、これらの計算を現在行うことができるのは、もっとも小さなシステムに対してのみである。もう一つ確実に言えることは、複合体自体は、こういった計算をすることができないし、またする必要もないということである。複合体は何らかの形で内的に意識をもっている。実際のところ、複合体は意識を生成しその量を特定するために関係するすべての確率分布を「計算」する必要などほとんどないが、それは、ある質量をもつ物体が他の物体を惹きつけるためにどれだけの重力質量を必要とするかを「計算」する必要がないのと同様なのである。

  統合情報のこの側面を別の言い方で表現するなら、意識は外的には傾向性もしくは可能性として特徴づけることができるということである。この場合の傾向性もしくは可能性とは、複合体が、自らのメカニズムのあらゆる組み合わせを通じて、自らのありうる状態に対して区別をする可能性のことであるが、内的な視点からすればこの区別は否定できないほどに現実のものである。奇妙に聞こえるかもしれないが、物理的システムに関係している基本的量というものも傾向性や可能性として特徴づけることができる。しかしそれは現実の結果をもたらす。例をあげるなら、質量を可能性として特徴づけることはできる --たとえばある物体が力によって加速された場合に生じるだろう抵抗としてなど -- だが質量は、もし他の質量をもつ物体が周りにあるなら、それらを実際に引きつけるといった疑いようもない現実の結果を生じさせる。同じように、統合情報に対するメカニズムの潜在性力は、メカニズムが現実には特定の状態にあるという事実によって、現実のものになる。M. M. Forsterのことばを言い換えるなら、この事実を次のように表現できるだろう。「私は、私が実際になすことを見る前に、いったどうやって私が何であるかを知ることができるのだ」。



存在することと記述すること

  統合情報理論によるならば、ある時点で複合体が生み出す情報の関係性を完全に記述すれば、その複合体のその時点での経験に関してすべてが述べられたことになる。その他に何も付け加える必要はない。17 しかし、統合情報理論が含意しているもう一つのことは、意識をもつためには -- たとえば赤の原色を活き活きと経験するためには -- 高いΦを有する複合体という存在でなければならないということだ。その他に方法はない。もちろん、完全な記述は経験が何でありどのように生成されるかについての理解を与えてくれるが、記述は経験の代わりにならない。存在することは記述することではない。この論点が議論を引き起こすことはないと思われるが、それでも、意識の科学的説明に対する有名な議論があるから言及しておく価値があるだろう。その議論の典型は、23世紀の神経科学者メアリーについての思考実験である (Jackson, 1986) メアリーは、色覚に関する脳内過程のすべてを知っているが、生涯を通じて白色と黒色しかない部屋に住んでおり、これまで色を見たことがない。18 この議論では、メアリーは色覚に関する完全な知識はもっていても、色を経験するということはどういうことかということを知らない、ということになる。意識の経験についての知識には、脳内過程に関する知識から演繹することができない何かがあると結論される。だが、意識とは存在することであり知ることではないということが実感されるなら、この議論は力を失う。統合情報理論によるなら、存在するということは、自らの過去の状態についての情報を生成するという意味で、内側から「知る」ということを含意している。記述することは、そうではなくて、外側から「知る」ことを含意している。この結論は何ら驚くべきものではない。考えてもみてほしい。私たちは核分裂によりどのようにエネルギーが生成されるかについてはきわめてよく理解しているが、実際に核分裂が起こらない限り、いかなるエネルギーも生成されない  -- どれだけ記述がされようとも、記述が存在の代わりになることはない。






脚注

13
宇宙のその他の場所にもそのように輝く物体はあるのかもしれないが、現在のところそれを裏付ける証拠はない。

14
原理的には統合情報の考え方を、量子情報も含むように拡張することができる。統合情報と量子の考え方の間には興味深い平行関係がある。たとえば次のことを考えていただきたい。 (i) 量子の重ね合わせとメカニズムの可能なレパートリー(ある意味で、メカニズムが作動する以前では、メカニズムは可能な出力状態のすべての重ね合わせで存在している)。 (ii) デコヒーレンスとメカニズムの現実のレパートリー (メカニズムが作動しある一定の状態に入ると、メカニズムは可能なレパートリーを現実のレパートリーに収縮する。 (iii) 量子もつれと統合情報(二つの要素を互いの独立を保ったまま刺激できない限りにおいて、二つの要素は情報的には一つのものである)。

統合情報理論の考え方と関係性量子力学 (Rovelli, 1996) によって提唱されているアプローチには合致する箇所がある。関係性のアプローチは、システムの状態は、別のシステムである観察者(あるいは同じシステムの部分である観察者)との関係ではじめて存在すると主張している。これに対して統合情報理論は、システムは自らの過去の状態を「計測」することができるという限りにおいては、システムが自分自身を観測することはできると主張している。もう少し一般的に述べるなら、統合情報理論にとっては、複合体だけが実在する観察者であり、任意の要素の集合がどれでも実在する観察者であるわけではない。一方、物理学は、情報が統合されているかいないかについて無関心である。

他の興味深い論点として、情報が保存され統合情報が明らかに増加することと、情報の有限性の間の関係がある(量子ビットの観点においても、ある物理システムに利用可能な情報量は有限である)。さらに一般的に述べるなら、物理学における情報のパラドックスの幾つかについて、内的視点、つまり、統合情報として考察することは有益であるように思える。内的視点と統合情報においては、観察者は観察対象と一にして同である。

 [ 補注:奇妙なことに、原著論文では脚注の151617の後(234ページ右側)にある ]

17
実在するだろうシステムに対して、完全な記述を行うことは実際上、無理であることを繰り返し述べることは有益であろう。

18
もっと適確に述べるなら、メアリーは前述の全色盲の患者のようなものであろう。さもなければ彼女は色のついた夢を見ることができるかもしれないからである。









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クリストフ・コッホ著、土屋尚嗣・小畑史哉訳 (2014) 『意識をめぐる冒険』 岩波書店
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