2015年6月12日金曜日

関西英語教育学会(2015/06/13)での講演スライドと配布資料

明日(2015/06/13)、関西英語教育学会2015年度(第20回)研究大会で講演をさせていただく機会を得ましたが、その時に使う投映スライドと配布用印刷資料をダウンロードできるようにしました。ご興味のある方は御覧ください。








関西英語教育学会2015年度(第20回)研究大会


■ 日時
2015年6月13日(土) 12時10分~17時45分の中の14時40分から16時05分までの85分
(学会は翌日6月14日(日)の10時~16時25分にも開催されます)。

■ 場所
神戸学院大学ポートアイランドキャンパス (神戸市中央区港島1-1-3)
http://www.kobegakuin.ac.jp/access/portisland.html

■ 講演タイトル
小学校からの英語教育をどうするか
―「引用ゲーム」の限界を自覚する―

■ 概要
岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』の主要なメッセージの一つは、小学校にこれまでの中学・高校の英語教育を押し付けるのではなく、小学校の実践からわかり始めたことを活かして中学・高校の英語教育を変えてゆくべきだ、というものです。今回の講演では、これまでの中学・高校の英語教育の大半が「引用ゲーム」に過ぎないという同書の批判的主張を特に取り上げ、「引用ゲーム」とは何かを確認したうえで、なぜそれでは「言語」と「コミュニケーション」が成立しないのかを、それぞれ、ダマシオの身体論とルーマンの自己参照の議論を援用しながら説明します。そうして「引用ゲーム」の限界を自覚した上で、それをどう克服してゆくかについての大まかな道筋を示します。講演だけでも理解できるようにお話するつもりですが、ページ数の都合で同書では展開できなかった議論を導入しますので、可能ならば同書を予めお読みいただければ当日の理解が進むかとも思います。

■ 主催者によるウェブ広報
http://www.keles.jp/news/2015_20program/

2015年6月9日火曜日

アマゾンが削除した私のレビュー(アマゾンレビューシステムの問題点の提起)を私のブログに再掲しておきます


私は著者として到底納得できないあるアマゾンレビュー(下記の記事(1)参照)に対してコメントを寄せたところ、そのコメントは掲載直後すぐに削除されました。



記事(1)
あるアマゾンレビュー(『小学校からの英語教育をどうするか』)に対する私のコメント



抗議の手段を断たれた私としては、異例ではありますが著者として、レビューに2015年6月6日にアマゾンレビューを投稿しました。すると、私が問題視したレビュアーはそのレビューを6月7日までには撤去したようです。


その撤去に伴い、私は問題視したレビュアー様のお名前を完全匿名化(○○様)とした上で、アマゾンレビューシステムが悪用されうることを問題提起するために、私が以下の内容で、アマゾンレビューを編集し残しておきました。

ですが、先ほど(6月9日夜)確認したところ、そのレビューは、アマゾンによって削除されておりました。

アマゾンレビューは、本来は商品のレビューであるわけですから、特定の商品に対するレビューがきっかけになったものの、一般的な問題提起の文章になった私のレビューをアマゾンが削除するのは極めて妥当なことだと私も考えます。

といいますより、アマゾンは私が問題視したレビュアーがそのレビューを撤去してから、少なくとも2日間は、私の問題提起レビューを掲載していたので、それは良心的対応だったと考えるべきなのかもしれません。


ですが、私としては自分の行った問題提起を記録として残しておきたいので、敢えてここにそのコピーを掲載しておきます。


ついでながら書きますと、今回の件をきっかけに、私はさまざまな方々から情報やご意見をいただきました。それらの方々からのご一報を、そのまま「アマゾンに関する事実」として結論づけるわけにはまいりませんが、アマゾンユーザーの中にはこのような見解をもつ方々もいるということを示すために掲載します。

現代文化に多大な影響力を与え続け、その勢いがとどまることを知らないようなアマゾンおよびウェブ文化一般に対しての問題提起をするための掲載としてご理解ください。


○ 日本アマゾンレビューでは理不尽なレビューやコメントが少なくない。

○ 受け狙いのネタ投稿や、読者を煽りその反応を楽しむ様な愉快犯、レビューにもなっていないレベルの投稿などが多く見られるが、これはアマゾンだけというより、日本のネット全体の傾向であるように思える。

○ レビュアーが自分のアマゾンレビューを削除すると、(下記ブログ記事(2)で推定したように)コメントを抹消することができる。

○ アマゾンレビュー界には多数の業者が紛れ込んでおり、組織的に最高評価や最低評価(時には削除要請)を集中的に与えることがあるように思える。

○ アマゾン自身がVineメンバーという制度をもっているらしく、その制度では高額商品の無料提供の代わりにレビュアーがレビューを寄稿しているらしい。

○ アマゾンの検閲基準にも首をかしげることがある。

○ 米国アマゾンにも、理不尽なレビューやコメントが見られる。



私は今回の件を通じて、匿名発言に対する不信感が高まりました。一見、無料で自由な発言に見えても、その背後には「勘定と感情」が深く関与していることも多いのかと思います。


20世紀末からのウェブ文化の流れは、旧来の有料活字文化を「古い文化」として駆逐せんばかりにも見えていましたが、私はそろそろ、表現者が実名で書き、出版社がその存在をかけて編集して有料の商品として読者に購入してもらう旧来の書籍・雑誌・新聞などを見直す潮時が来ているのではないかとも思います


なお、以下にコピーする削除された私のレビューの内容は、上記の記事(1)と下記の記事(2)とは重複する箇所がとても多いことを予め述べておきます。




記事(2)
アマゾンレビューシステムの悪用法




これらの記事を既にご参照の皆様は、特に下のコピーをお読みになる必要はないかと思いますことを付け加えておきます。






*****
以下、アマゾンから削除された私のレビュー
(コピー転載に伴い、読みやすさのために一部レイアウトを変更)


星印3つ
著者として○○様のレビューにあえてコメントします 2015/6/6
投稿者 柳瀬陽介


昨日、以下のレビューを掲載しましたが、本日(2015/06/07)見た限り、私が問題視していたレビューは削除されておりました。下にも書いておりましたように、私はそのレビュアー様をことさらに敵視しているわけではありませんので、本日、レビュアー様のお名前はすべて匿名化し、「○○様」としました。

とりあえず今のところは問題のレビューが消えているので、私のこのレビューも削除することも考えましたが、私としては今回の件で、アマゾンユーザーの皆様に一つの問題提起をしたく思いました。したがって以下に文章を追加し、昨日のレビューはその問題提起の背景事情説明として残しておくことにします(以下の文章には本日最初の投稿に一部修正を加えております)

私の問題提起を簡単にまとめておきますと、レビュアーは、一般読者に知られないようにアマゾンレビューシステムを操作し悪用することが可能かもしれないということです。

より具体的に言いますと、レビュアーは「編集」でなくわざと「削除」機能を使ってレビューを書き換えることによって、自分のレビューに寄せられた不利なコメントや「いいえ」を抹消し、自分の錯誤や偏りを隠したままにしておくことができると考えられます。

この悪用法により、レビュアーは自分のランキングを上げ続ける(少なくとも下げない)ことが可能になると考えられます。

断定はできませんが、ひょっとしたら「トップレビュアー」とされている人の中にもこの悪用法に手を染めている人がいるかもしれません。

レビュアーが悪用法に手を染めているかどうかを判定方する法は、今のところ3つ考えられます。

(ア) レビューの固定リンクが変わっていないか記録観察する。

(イ) レビューについた「はい」「いいえ」の数が変わっていないか記録観察する。

(ウ) 批判的なコメントが消されないか記録観察する。

これらの判定法とて絶対ではありませんが、これらの判定法にしばしばひっかかるレビューがあれば、そのレビュアーはアマゾンのレビューシステムを悪用している可能性があります。

現代日本の読書文化に対してアマゾンは巨大な影響力をもっています。そのアマゾンに掲載されるレビューおよびレビュアーのランキングは、書籍購買にも大きな影響を与えます。また、これからの批評文化やウェブ文化を形成する核の一つになるとも考えられます。こういった影響力を踏まえての問題提起であることをご理解いただけたらと思います。以下、お読みいただけたら幸いです。

また、悪用法はこんな単純なものだけでなく、もっと込み入ったものがあるのかもしれません。それらはわかり次第ここでもお伝えしますが、現時点では、私が複数の人間の複数の経験から推定できる限りのことを下で報告します。この推定に間違いがあることが判明したら、その際は速やかに内容を訂正します。



■■■ アマゾンレビューシステムの悪用法 ■■■


■ アマゾンレビューシステムの仕組み(推定)


自他合わせた複数者の経験から現時点で推定できるのは、アマゾンのレビューシステムでは、レビュアーがいったん掲載した自分のレビューをわざと「レビューを削除」の機能を使って削除してから、新たにレビューを再投稿することによって、次のことが自動的に生じるようになっているらしいということです。

ちなみに、「レビューを削除」の機能を使うには、通常の書籍トップページからではなく、いったんわざわざ自分のレビューの固定リンクページに行く必要があります。



レビュアーが通常のように「編集」モードでレビューを書き換えるのではなく、わざとレビューを一度「削除」した上で、新たにレビューを再投稿すると、


    (1) 新レビューに新しい固定リンクURLが付与され、旧レビューの固定リンクは無効化される。


    (2) 旧レビューにつけられていたコメントが抹消される。


    (3) 旧レビューの評価(「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」か「いいえ」の数もゼロに戻され抹消される。

ようになることが推定される。



以上の(1)-(3)は、レビュアーが自分のレビューを普通に「編集」するだけでは可能になりません(これは私が試して確かめました)。

(1)-(3)は、あくまでもレビュアーがわざといったん固定リンクページに行き、「レビューを削除」して、新たにレビューを投稿してはじめて可能になると推定されます。

私はまだそういった実験を行っていませんが、常識的に考えてこの推定はおそらく間違っていないと思います。

もしこの推定が正しいとすると、アマゾンのレビューシステムは以下のやり方で悪用することができます。




■ 悪用法


あくまでも一般論であり理論的に可能な仮定として読んでください。仮に、レビュー活動を、読書文化・批評文化・ウェブ文化を豊かにするためではなく、レビュアーとしての自分のランキングを上げるために使うことばかりに執心している人がいたとしましょう(その執心が、功名心からくるのか実利からくるのかそれとも複雑な心理的葛藤からくるのかは、私にはわかりません)。


そんな人が気にしているのはもちろんレビューアランキングですが、その決定アルゴリズムは一般には知られていません。しかし、どう考えても、そのアルゴリズムは、レビューに寄せられた「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」と「いいえ」の絶対数とそれらの比などを重視しているはずです。




■ 悪用の具体的手順

もし以上の想定が正しいなら、以下の(a1)-(a5)のような方法でアマゾンレビューシステムを悪用(abuse)することができます。


    (a1) 流麗な修辞法などを駆使した目立つレビューを、次々に量産し、多くの「はい」を得て、ランキングを上げる。

    (a2) もし自らのレビューの錯誤や偏りを指摘するコメントが来たら、まずそのレビューを削除してしまう。

    (a3) その旧レビューの削除により、旧レビューへ寄せられた批判的コメントの存在自体を抹消してしまう。
   
もちろん削除により、旧レビューで得られた「はい」の数は失われるが、批判コメントにより今後増えるかもしれない「いいえ」の数は未然に防ぐことができる。

    (a4) 削除の直後に新しいレビューを投稿するが、それはレビューの細部だけを書き換えたものにしておく。

    一般読者は、古いレビューの固定リンクURLを知っていない限り、そのレビューにはいわばマネー・ロンダリングのような(a3)の操作がされていることに気づかない。新しいレビューは、通常のように書籍情報のページからアクセスすれば、前と同じように表示されるからそうやって一般読者の目をごまかす。

    もしそのレビューに付けられた「はい」と「いいえ」の数の記録を注意深く取っている読者がいれば、その数が変わったことに疑問をもつかもしれないが、レビューの細部が変更されているので、一般読者は、レビューは細部が編集されたため数が変わったと思い込む(一般読者はそれほどアマゾンレビューシステムについて知識をもっているわけではない)。

   (a5) このように自らの錯誤や偏りを隠したまま、知らぬ顔のまま(a1)の活動を続け、さらに自分のランキングを上げる。


悪用の具体的手順は以上の通りです。

こうすればレビュアーは自分の目的を首尾よく達成することができるでしょう。


しかし、もしこのような悪用法がはびこれば、そのレビュアーに(誤解に基づいた)酷評をされた著作の著者および出版社は少なからぬ精神的苦痛を覚えます。また、本来は得られたかもしれない読者を得られないという文化的・経済的損害も生じます。


また、もしそのレビュアーに(誤解に基づいた)絶賛された本を買ったアマゾンユーザーは無駄な出費をしたと後悔するかもしれませんが、上記の悪用法によってそのレビューへのコメントや「いいえ」の批判は抹殺されます。


おそらく唯一の抗議方法はユーザーが自らレビューを書くことかもしれません(さすがにそのレビュアーも他人が書いたレビューを消去することはできません)。

ですが、多くの人はそこまでしません。レビューの目的を取り違えた自称「レビュアー」は、しばしば他のレビュアーを攻撃します。そして、字数の限られたウェブ空間での匿名者とのコミュニケーションは不毛な水掛け論となり、憔悴してしまうだけのことが多いからです。


私たちはこのような悪用法がありうることに対する警戒を高めなければならないのではないでしょうか。




■ 今後のアマゾンレビュー文化のために

私はこのように悪用法を公開しましたが、これは上でも述べましたように、レビューに対する皆様の関心と注意力を高め、言ってみるなら私たちの「レビューリテラシー」を向上するようお互い努力すべきだと考えたからです。一人の人間ができることには限りがありますが、多くの人々が良識に基づいた行動をすればその力は計り知れないからです(それこそが文化の力です)。


以下、三つの対抗策 (A)-(C)を提示します。システムを悪用する人に対抗するためには、こちらもしたたかである必要があります。


(A) 固定リンクURLを電子記録
もしあやしいレビュアーがいれば、その人のレビューの固定リンクURLを記録しておいてください。変わっていたら、システムを悪用している可能性があります。

(B) 「はい」と「いいえ」の数を電子記録
あやしいレビュアーが書くレビューの「はい」と「いいえ」の数に注目しておいてください。証拠を得ようと思ったら、Evernoteや他の手段で電子記録(画像)をとっておくことが有効でしょう。もし「はい」と「いいえ」の数が変わるレビューがあれば、それを書いたレビュアーは、レビューシステムを悪用している可能性があります。(もっとも、アマゾンサーバーのトラブルのために「はい」と「いいえ」の数が変わったという可能性は排除できません。念のため付け加えておきます)。

(C) コメントを出してその掲載を電子記録
もし自分がコメントを出したのに、そのコメントが消えてしまっているレビューがあれば、それも怪しいと思ってください。(レビュアーは自分のレビューにコメントがつけば、すぐにそれを電子メールで通知してもらうシステムを利用することができますので、否定的なコメントはすぐに抹消されることがあります)。ですからおかしなレビューにコメントを寄せた方は、ぜひそのコメントの電子記録(画像)もとっておいてください。

読む対象が活字からウェブへとどんどん移行するにつれ、いつのまにか私たちはウェブでの短文の断定口調に慣れきってしまうかもしれません。そんな時、流麗な修辞で武装された断定的レビューは非常に魅力的に思えるかもしれません。ですが私たちはむしろ、そんなレビューをレビューする、つまりはレビューを冷静に観察することが必要なのかと思った次第です。

また、ランキングは、顔を付きあわせての信頼関係から 作られるのではなく、単にアルゴリズムで作られます。アルゴリズムは悪用できます。ランキングを無批判に信用するのも考えものでしょう。もしかするとその人は、システムを悪用し続けることによりランキングを上げているのかもしれません。


ただ、上に述べましたように、この報告は私がなしうる最上の推定として書いているものです。錯誤があるかもしれません。もし修正や加筆をするべき箇所があれば、それは後日訂正します。この件について、より確実な情報をお持ちの方は、このレビューへのコメント欄でお知らせいただけたら幸いです。

また、ひょっとしたら、後日、私のこのレビューに対して上記の悪用法を適用し、上の推定が正しいかどうかを実験するかもしれません。その実験を終えたらそのことを報告しますが、その際は、このレビューの固定リンク・「はい」「いいえ」・コメントが変わっているかもしれないことをご承知おきください。

アマゾンを利用する皆様への問題提起として書きました。長文にもかかわらず、最後までお読みいただきありがとうございました。





■■■以下、2015/06/06の投稿内容(レビュアー様の名前を匿名化しました)■■■

本書(『小学校からの英語教育をどうするか』)の著者の一人です。実名で投稿しています。

本書に対する○○様のレビュー(注)が、極めて残念ながら、本書をきちんと読まないまま書かれているように思え、かつ○○様(略称をお許しください)が「殿堂」「トップ10」のレビュアーであるのでその影響力を看過できないと考え、ここに投稿することにします。

もちろん○○様のレビューのコメント欄に投稿することもできますし、実際、私は昨晩コメント欄に投稿しました。ですが、そのコメントはすぐに消えました。

この消失に関しては、少なくとも二つ理由が考えられますが、現時点ではどちらの理由によるものか特定できません。しかし、もしそのうちの一つの理由が正しければ、私が○○様のレビューのコメント欄に再投稿してもそれが再び消える可能性がありますので、消えることがないように、ここにレビューとして投稿します。

なおこのレビューでの星印は3としておりますが、これは付けないと投稿できないから、真ん中をとって3としたものです。著者は自著に5(最高点)をつけるべきではないでしょうし、かといって1(最低点)にするのもおかしな話と思ったので、3とさせていただいたことをご理解ください。

○○様への反論を具体的かつ丁寧に書いたため、私のコメントは長文になってしまいました。ですから、その全文は、私のブログに掲載しています。

“英語教育の哲学的探究2” と “柳瀬陽介”

で検索してくだされば同名のブログが出てくると思います。その2015年6月5日の記事です。アマゾンのレビューではURLの掲載が禁止されているようなので、あえてこのような周りくどいお知らせをしています。

アマゾン・ユーザーの皆様におかれましては、もし可能でしたら、上記のブログ記事のコメント全文をご参照の上、○○様のご主張と私の主張のどちらが公正か、それぞれにご判断いただけたら幸いです。

ですが、お忙しいユーザーの皆様の便益のため、私のコメントの概要を次の三点にまとめておきます。



*****○○様のレビューに対する著者としてのコメントの概要*****

(1) ○○様のレビューは、本書の複数箇所で具体的に書かれている記述を、読み落としたり言及していなかったりしているもので、そのことからすれば、○○様は、本書を斜め読み・速読し、本書の論証方法自体をご理解されていないまま、「実施計画」だけを参照し、本書を再読・再参照なさらずにレビューを書いたものと思われます。

[この論点を、本書の記述とページ数を具体的に指摘しながら示しました。その結果、○○様の「この著者は、英語教育を語る以前に日本語の読解力の勉強をやり直した方がいい」というご主張(現時点でのレビューのタイトル)は、著者としては納得しがたく思っていることを表明しました]

(2) 雑誌メディアや他のウェブでの書評を見ても、○○様がおっしゃるように本書が誤読と曲解にみちたものであるといった指摘・批判は、私が知るかぎりありません。

[逆に、例えば大修館書店『英語教育』(2015年7月号)の書評では、元文部科学省官僚の方が「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評価をしてくださっています。もし本書が文科省の文書を○○様がおっしゃるほどに誤読し曲解したものでしたら、元文科省官僚の方はまっさきにそれを指摘するはずです]

(3) アマゾンが現代日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化に対して与えている影響力の大きさを考えれば、「殿堂」「トップ10」レビュアーなどの称号を得られている方々には、その称号にふさわしいレビューを期待しております。

[私は、アマゾンのトップ・レビュアーがその称号にふさわしい見識と品格でもって、すべてのアマゾン・ユーザーから敬意をもたれている文化を望んでおります。アマゾン・レビュー全体が、新しい公共メディアとして健全な発展をすることが私の願いです]

*****著者としてのコメントの概要終わり*****



なお、私は○○様の今回のレビューには納得いきませんが、ことさらに○○様を敵視しているつもりはございません。

私は一人のアマゾン・ユーザーとして、トップ・レビュアーを尊敬したく思っています。ですが、残念ながら今回はそれがかないませんでしたので、ここに投稿した次第です。○○様が「殿堂」「トップ10」レビュアーでなければ、ここまでのことはしなかったと思います。私としては○○様、および他のトップ・レビュアーの皆様が、その称号にふさわしい活動ですべてのアマゾン・ユーザーからの敬意を受けることを願い、その意味での○○様の今後のご活躍を祈念します。

(注)ここでいう「○○様のレビュー」は、5/18から6/6昼にかけて私が時折閲覧・電子記録したものです。○○様は、時々、レビュー内容を書き換えられておられるので付記しておく次第です。なお○○様が書き換えられた内容は、ブログ記事に記載しています。






2015年6月7日日曜日

アマゾンレビューシステムの悪用法

※ この記事の最初の版を私は2015/06/07の11時14分に投稿しましたが、その後、間違いが判明しましたので、同日の夜に書き換えました。

私が間違っていたのは、下記の「悪用法」は、レビュアーが普通にレビューを「編集」するだけではできないということです(私は先ほど普通の「編集」でアマゾンのレビューを書き換えたところ固定リンクも「はい」「いいえ」も変わりませんでした)

私は自分のレビューではまだ実験していませんが、下記の「悪用法」は、レビュアーが、まず自分のレビューの固定リンクページに行き、「レビューを編集」ではなく、わざと「レビューを削除」クリックしてから、新たにレビューを投稿することにより可能になるようです。

この発見に基づき、私は正確な情報が伝えられるように、以下の記述(およびタイトル)を修正しましたことをここでお知らせしておきます。




*****


現代日本の読書文化に対してアマゾンは巨大な影響力をもっています。そのアマゾンに掲載されるレビューおよびレビュアーのランキングは、書籍購買にも大きな影響を与えます。また、これからの批評文化やウェブ文化を形成する核の一つになるとも考えられます。


最近、私はアマゾンのレビューについてある経験をしまして、このレビューシステムは、悪用することが可能であり、そのような悪用がはびこれば、日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化を劣化させうるとも思うようになりました。


私は時折米国アマゾンを利用します。たいていの洋書は日本アマゾンでも入手できますが、書籍がどのように"review"されているかを知りたくて米国アマゾンを閲覧するわけです。管見の限りですが(私が閲覧するのは学術書や芸術書が中心です)、米国の"review"は長く丁寧に書かれ、できるだけ公正な批評をしようとしているものが多く、大変助かります。時には書籍の著者や当該分野の専門家も書き込んでいるので勉強にもなります。


他方、これも私が見る限りですが、日本の「レビュー」は残念ながら、主観的な印象論を短く断定的に述べるだけのものがまだ少なくありません。もちろんいかなる人も自分の主観から逃れることはできませんが、少なくとも自分の主観(物の見方や考えの枠組み)がどんなものかを自覚しそれに言及しながら書き進めることにより、公正さは追求することができます。日本の「レビュー」は、せいぜい短い「感想」であり十分な「批評」でないとすら言えるのかもしれません。


こういった状況で、もしこれからアマゾンレビューが悪用されれば、「悪貨は良貨を駆逐する」ではありませんが、アマゾンレビューの質が、後戻りがきかないぐらいに劣化するかもしれません。そしてそんな悪用を続けるレビュアーこそが「トップレビュアー」の称号を得て、多くのユーザーに影響を与えるかもしれません。

そのレビュー文化の劣化は、ウェブ文化や読書文化全般にまで悪影響を与えるようになるかもしれません(文化は、ある程度まで劣化してしまったら、それを改善するのはほぼ不可能になってしまいます --私は悲観的すぎるのでしょうか--)。


そういった最悪の事態を避けるため、ここでは私が今回の経験から発見した、アマゾンレビューシステム悪用法を述べ、アマゾンレビューに対しての皆様の関心を高めてもらおうと思っています。

ひょっとしたら、悪用法はこんな単純なものだけでなく、もっと込み入ったものがあるのかもしれません。それらはわかり次第ここでもお伝えしますが、現時点では、私が複数の人間の複数の経験から推定できる限りのことを下で報告します。この推定に間違いがあることが判明したら、その際は速やかに内容を訂正します。




■ アマゾンレビューシステムの仕組み(推定)


自他合わせた複数者の経験から現時点で推定できるのは、アマゾンのレビューシステムでは、レビュアーがいったん掲載した自分のレビューをわざと削除してから再投稿することによって、次のことが自動的に生じるようになっているらしいということです。

ちなみに、「レビューを削除」の機能を使うには、通常の書籍トップページからではなく、いったんわざわざ自分のレビューの固定リンクページに行く必要があります。


レビュアーが通常のように「編集」モードでレビューを書き換えるのではなく、まずレビューの固定リンクのページに行き、そのページでわざとレビューを一度「削除」した上で、新たにレビューを再投稿すると


    (1) 新レビューに新しい固定リンクURLが付与され、旧レビューの固定リンクは無効化される。


    (2) 旧レビューにつけられていたコメントが抹消される。


    (3) 旧レビューの評価(「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」か「いいえ」の数もゼロに戻され抹消される。

ようになることが推定される。




以上の(1)-(3)は、レビュアーが自分のレビューを普通に「編集」するだけでは可能になりません(これは私が試して確かめました)。

(1)-(3)は、あくまでもレビュアーがわざといったん「レビューを削除」して、新たにレビューを投稿してはじめて可能になるようです。私はまだそういった実験を行っていませんが、常識的に考えてこの推定はおそらく間違っていないと思います。

もしこの推定が正しいとすると、アマゾンのレビューシステムは以下のやり方で悪用することができます。




■ アマゾンレビューシステムの悪用法


あくまでも一般論であり理論的に可能な仮定として読んでください。仮に、レビュー活動を、読書文化・批評文化・ウェブ文化を豊かにするためではなく、レビュアーとしての自分のランキングを上げるために使うことばかりに執心している人がいたとしましょう(その執心が、功名心からくるのか実利からくるのかそれとも複雑な心理的葛藤からくるのかは、私にはわかりません)。


そんな人が気にしているのはもちろんレビューアランキングですが、その決定アルゴリズムは一般には知られていません。しかし、どう考えても、そのアルゴリズムは、レビューに寄せられた「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」と「いいえ」の絶対数とそれらの比などを重視しているはずです。


もし以上の想定が正しいなら、以下の(a1)-(a5)のような方法でアマゾンレビューシステムを悪用(abuse)することができます。


    (a1) 流麗な修辞法などを駆使した目立つレビューを、次々に量産し、多くの「はい」を得て、ランキングを上げる。


    (a2) もし自らのレビューの錯誤や偏りを指摘するコメントが来たら、まずそのレビューを削除してしまう。

    (a3) その旧レビューの削除により、旧レビューへ寄せられた批判的コメントの存在自体を抹消してしまう。
もちろん削除により、旧レビューで得られた「はい」の数は失われるが、批判コメントにより今後増えるかもしれない「いいえ」の数は未然に防ぐことができる。

    (a4) 削除の直後に新しいレビューを投稿するが、それはレビューの細部だけを書き換えたものにしておく。

    一般読者は、古いレビューの固定リンクURLを知っていない限り、そのレビューにはいわばマネー・ロンダリングのような(a3)の操作がされていることに気づかない。新しいレビューは、通常のように書籍情報のページからアクセスすれば、前と同じように表示されるからそうやって一般読者の目をごまかす。

    もしそのレビューに付けられた「はい」と「いいえ」の数の記録を注意深く取っている読者がいれば、その数が変わったことに疑問をもつかもしれないが、レビューの細部が変更されているので、一般読者は、レビューは細部が編集されたため数が変わったと思い込む(一般読者はそれほどアマゾンレビューシステムについて知識をもっているわけではない)。

   (a5) このように自らの錯誤や偏りを隠したまま、知らぬ顔のまま(a1)の活動を続け、さらに自分のランキングを上げる。



こうすればレビュアーは自分の目的を首尾よく達成することができるでしょう。


しかし、もしこのような悪用法がはびこれば、そのレビュアーに(誤解に基づいた)酷評をされた著作の著者および出版社は少なからぬ精神的苦痛を覚えます。また、本来は得られたかもしれない読者を得られないという文化的・経済的損害も生じます。


また、もしそのレビュアーに(誤解に基づいた)絶賛された本を買ったアマゾンユーザーは無駄な出費をしたと後悔するかもしれませんが、上記の悪用法によってそのレビューへのコメントや「いいえ」の批判は抹殺されます。


おそらく唯一の抗議方法はユーザーが自らレビューを書くことかもしれません(さすがにそのレビュアーも他人が書いたレビューを消去することはできません)。

ですが、多くの人はそこまでしません。レビューの目的を取り違えた自称「レビュアー」は、しばしば他のレビュアーを攻撃します。そして、字数の限られたウェブ空間での匿名者とのコミュニケーションは不毛な水掛け論となり、憔悴してしまうだけのことが多いからです。


私たちはこのような悪用法がありうることに対する警戒を高めなければならないのではないでしょうか。




■ 今後のアマゾンレビュー文化のために


今回私は、たまたま、(i) 問題が疑われていたレビューの固定リンクURLを自分のブログページに記載しており、なおかつ、(ii)自分でレビューを出し、さらにそれを通常のように編集したから、この悪用法のメカニズムを推定することができました。

(i)をやっていなかったら、私もレビューは編集されただけだと思い込んでいたでしょう。(ii)をやっていなかったら、レビューが編集されるだけで固定リンクが変わり、コメントや「はい」「いいえ」の情報が抹消されるのだと思い込んでいたでしょう(実際、私は編集したレビューをチエックしてはじめて、編集しただけでは、固定リンクが変わったり「はい」「いいえ」の情報が変わることはないことを学びました)。

私はこのように悪用法を公開しましたが、これは上でも述べましたように、レビューに対する皆様の関心と注意力を高め、言ってみるなら私たちの「レビューリテラシー」を向上するようお互い努力すべきだと考えたからです。一人の人間ができることには限りがありますが、多くの人々が良識に基づいた行動をすればその力は計り知れないからです(それこそが文化の力です)。

以下、三つの対抗策 (A)-(C)を提示します。システムを悪用する人に対抗するためには、こちらもしたたかである必要があります。


(A) 固定リンクURLを電子記録
もしあやしいレビュアーがいれば、その人のレビューの固定リンクURLを記録しておいてください。変わっていたら、システムを悪用している可能性があります。

(B) 「はい」と「いいえ」の数を電子記録
あやしいレビュアーが書くレビューの「はい」と「いいえ」の数に注目しておいてください。証拠を得ようと思ったら、Evernoteや他の手段で電子記録(画像)をとっておくことが有効でしょう。もし「はい」と「いいえ」の数が変わるレビューがあれば、それを書いたレビュアーは、レビューシステムを悪用している可能性があります。(もっとも、アマゾンサーバーのトラブルのために「はい」と「いいえ」の数が変わったという可能性は排除できません。念のため付け加えておきます)。

(C) コメントを出してその掲載を電子記録
もし自分がコメントを出したのに、そのコメントが消えてしまっているレビューがあれば、それも怪しいと思ってください。(レビュアーは自分のレビューにコメントがつけば、すぐにそれを電子メールで通知してもらうシステムを利用することができますので、否定的なコメントはすぐに抹消されることがあります)。ですからおかしなレビューにコメントを寄せた方は、ぜひそのコメントの電子記録(画像)もとっておいてください。



読む対象が活字からウェブへとどんどん移行するにつれ、いつのまにか私たちはウェブでの短文の断定口調に慣れきってしまうかもしれません。そんな時、流麗な修辞で武装された断定的レビューは非常に魅力的に思えるかもしれません。ですが私たちはむしろ、そんなレビューをレビューする、つまりはレビューを冷静に観察することが必要なのかと思った次第です。

また、ランキングは、顔を付きあわせての信頼関係から 作られるのではなく、単にアルゴリズムで作られます。アルゴリズムは悪用できます。ランキングを無批判に信用するのも考えものでしょう。もしかするとその人は、システムを悪用し続けることによりランキングを上げているのかもしれません。

ただ、上に述べましたように、この報告は私がなしうる最上の推定として書いているものです。錯誤があるかもしれません。もし修正や加筆をするべき箇所があれば、それは後日訂正します。この件について、より確実な情報をお持ちの方は、このブログ記事へのコメント欄でお知らせいただけたら幸いです。

アマゾンを利用する皆様への問題提起として書きました。長文にもかかわらず、最後までお読みいただきありがとうございました。





2015年6月5日金曜日

あるアマゾンレビュー(『小学校からの英語教育をどうするか』)に対する私のコメント

追記 (2015/06/07)

私、昨日、著者としては異例ではありますが、私が以下のレビューをアマゾンに投稿したところ、今朝見た限りでは問題のレビューが削除されていたことをご報告します。

なお、下で、2015/06/06以降の追記は斜字にするとしておりますが、明確な区切りをもった以下のレビュー部分は、読みやすさを優先し、斜字にはしておりません。またセンタリングなどのレイアウト変更はしていますが、内容の変更はありません。





■■■2015/06/06に私が投稿したアマゾンレビュー■■■

星3つ
投稿者 柳瀬陽介 2015/06/06
本書(『小学校からの英語教育をどうするか』)の著者の一人です。実名で投稿しています。

本書に対するEdgeworth-Kuiper Belt様のレビュー(注)が、極めて残念ながら、本書をきちんと読まないまま書かれているように思え、かつEB様(略称をお許しください)が「殿堂」「トップ10」のレビュアーであるのでその影響力を看過できないと考え、ここに投稿することにします。

もちろんEB様のレビューのコメント欄に投稿することもできますし、実際、私は昨晩コメント欄に投稿しました。ですが、そのコメントはすぐに消えました。

この消失に関しては、少なくとも二つ理由が考えられますが、現時点ではどちらの理由によるものか特定できません。しかし、もしそのうちの一つの理由が正しければ、私がEB様のレビューのコメント欄に再投稿してもそれが再び消える可能性がありますので、消えることがないように、ここにレビューとして投稿します。

なおこのレビューでの星印は3としておりますが、これは付けないと投稿できないから、真ん中をとって3としたものです。著者は自著に5(最高点)をつけるべきではないでしょうし、かといって1(最低点)にするのもおかしな話と思ったので、3とさせていただいたことをご理解ください。

EB様への反論を具体的かつ丁寧に書いたため、私のコメントは長文になってしまいました。ですから、その全文は、私のブログに掲載しています。

“英語教育の哲学的探究2” と “柳瀬陽介”

で検索してくだされば同名のブログが出てくると思います。その2015年6月5日の記事です。アマゾンのレビューではURLの掲載が禁止されているようなので、あえてこのような周りくどいお知らせをしています。

アマゾン・ユーザーの皆様におかれましては、もし可能でしたら、上記のブログ記事のコメント全文をご参照の上、EB様のご主張と私の主張のどちらが公正か、それぞれにご判断いただけたら幸いです。

ですが、お忙しいユーザーの皆様の便益のため、私のコメントの概要を次の三点にまとめておきます。



*****EB様のレビューに対する著者としてのコメントの概要*****

(1) EB様のレビューは、本書の複数箇所で具体的に書かれている記述を、読み落としたり言及していなかったりしているもので、そのことからすれば、EB様は、本書を斜め読み・速読し、本書の論証方法自体をご理解されていないまま、「実施計画」だけを参照し、本書を再読・再参照なさらずにレビューを書いたものと思われます。

[この論点を、本書の記述とページ数を具体的に指摘しながら示しました。その結果、EB様の「この著者は、英語教育を語る以前に日本語の読解力の勉強をやり直した方がいい」というご主張(現時点でのレビューのタイトル)は、著者としては納得しがたく思っていることを表明しました]

(2) 雑誌メディアや他のウェブでの書評を見ても、EB様がおっしゃるように本書が誤読と曲解にみちたものであるといった指摘・批判は、私が知るかぎりありません。

[逆に、例えば大修館書店『英語教育』(2015年7月号)の書評では、元文部科学省官僚の方が「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評価をしてくださっています。もし本書が文科省の文書をEB様がおっしゃるほどに誤読し曲解したものでしたら、元文科省官僚の方はまっさきにそれを指摘するはずです]

(3) アマゾンが現代日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化に対して与えている影響力の大きさを考えれば、「殿堂」「トップ10」レビュアーなどの称号を得られている方々には、その称号にふさわしいレビューを期待しております。

[私は、アマゾンのトップ・レビュアーがその称号にふさわしい見識と品格でもって、すべてのアマゾン・ユーザーから敬意をもたれている文化を望んでおります。アマゾン・レビュー全体が、新しい公共メディアとして健全な発展をすることが私の願いです]

*****著者としてのコメントの概要終わり*****


なお、私はEB様の今回のレビューには納得いきませんが、ことさらにEB様を敵視しているつもりはございません。

私は一人のアマゾン・ユーザーとして、トップ・レビュアーを尊敬したく思っています。ですが、残念ながら今回はそれがかないませんでしたので、ここに投稿した次第です。EB様が「殿堂」「トップ10」レビュアーでなければ、ここまでのことはしなかったと思います。私としてはEB様、および他のトップ・レビュアーの皆様が、その称号にふさわしい活動ですべてのアマゾン・ユーザーからの敬意を受けることを願い、その意味でのEB様の今後のご活躍を祈念します。

(注)ここでいう「Edgeworth-Kuiper Belt様のレビュー」は、5/18から6/6昼にかけて私が時折閲覧・電子記録したものです。EB様は、時々、レビュー内容を書き換えられておられるので付記しておく次第です。なおEB様が書き換えられた内容は、ブログ記事に記載しています。
 

■■■2015/06/06レビューは以上。以下、6/5のオリジナル記事(および追記)■■■












以下は、『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)に対してアマゾンで寄せられたある方のレビューに対する私のコメントです。長いので、コメントはここに全文を掲載することとします。なお、このブログでは、参照の便のため、当該レビュー(本日閲覧・記録したもの)をコピーして転載しておきます。


追記 (2015/06/06)
 この記事の最初の版は、昨日(2015/06/05)書かれたものですが、本日その一部を修正しています。公正を期すため、本日(以降に)追記した箇所には「追記」というマークをつけ斜字にし、削除した箇所には横線を引いておくことにします。



*****



あるアマゾンレビュー





追記 (2015/06/06)
私が上で横線を引いたEB様のレビューの固定リンクURLは、私のコメント掲載からおそらく数時間以内に無効になっていたようです(ブログ下の匿名様のコメントに基づく推定です)。しかし、時間推定はともかく、少なくとも固定URLが変更されていることだけは事実ですから、上記のように横線を引きました。

私のEvernote画像記録によると、固定URLの変更はEB様が、レビュー最後の部分に下記のような変更を加えられたからかと思われます。

昨日 「尚、このレビューの日付時点で一件だけ載っている5つ星の絶賛レビューは、このレビューしか書いておらず、少々あやしい、ということを指摘しておく。」

本日 「尚、このレビューの日付時点で5つ星の絶賛レビューが一件あるが、このブックレットのレビューしか書いていない上に、内容的にも中立な人物による客観的評価であるかどうか疑問がもたざるをえない、少々あやしいものであるということを指摘しておく。」 [「疑問がもたざる」は原文のまま]

ある方の経験によると、どうもアマゾンのレビューへのコメントは、レビュー自体が書き換えられ新たな固定URLが割り振られると、自動的に消えてしまうようです。また、それまでのレビュー評価(「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」「いいえ」)の記録も消えてしまうようです。

私はアマゾンのシステムについてよく知りませんので、アマゾンへの問い合わせ方法がわかったら問い合わせようと思いますが、もしこのようなシステムになっているとしたら、レビュアーは自分に不都合なコメントや「いいえ」が多くなれば、レビューを書き換えることによって、それらのコメントや「いいえ」を自動的に削除することができます。

昨晩の私のコメントは1名の方に自動通知されたとアマゾンは私に通知しましたが、もしその自動通知を受け取った方がEB様だとしたら、なぜEB様が、わざわざレビューを書き換えたのに、私(著者)のコメントについてまったく言及していないのか得心がゆきません(私のコメントがいったんはアマゾンに掲載されたのは私のEvernoteの画像記録からも明らかです)。


ただ、そのコメントにはURLが掲載されていたので、掲載後にアマゾン管理者によって削除されたのかもしれません(下の「レビューガイドライン」を見ると削除の判断は人間がやらざるをえないものと思われます。ただ、そのように高度あるいは微妙な判断をする方が夜に働いていらっしゃるのか、私は少し疑問です)。

参考:アマゾンの「レビューガイドライン」
https://www.amazon.co.jp/gp/community-help/customer-reviews-guidelines/ref=cm_cr_ryp_rvw_guidelines

もちろんEB様が自動通知に気づいて私のコメントを読む前に、夜にアマゾン管理者が私のコメントを削除した可能性はありえます(しかしアマゾンに寄せられる膨大なコメントを、夜の短時間のうちに読んで削除するかどうかの判断をしているとしたら、アマゾンは相当の人力をもった企業ということになります)。

と、私のコメントが消えた理由は、現時点では特定できません。ですから、ここではこれ以上の推測は避けます。ただ、私がなぜ、URLを抜いたコメントを再投稿せず、わざわざレビュアーとして投稿したのかの背景を説明するためにこの記述をしました。






カスタマーレビュー
5つ星のうち 1.0

この著者は、英語教育を語る以前に日本語の読解力の勉強をやり直した方がいい, 2015/5/12

投稿者 Edgeworth-Kuiper Belt
レビュー対象商品: 小学校からの英語教育をどうするか (岩波ブックレット) (単行本(ソフトカバー))


2013年に文部科学省が発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(以下、本書に従い「実施計画」と呼ぶ)の内容を批判し、正しい小学校での英語教育のあり方について提言しているブックレットである。小学校での英語教育自体を否定する内容ではない。分量は少なめで、すぐ読める。

著者の経験に基づく望ましい小学校での英語教育でのあり方を述べた後半部分は分量は少ないが興味深いところはいくらかあった。一番大切なことは、「どうしたらいいか」なのだから、ここをもっと中心にした構成にすべきだった。

一方、本書で多くのページを占めている「実施計画」についての批判であるが、「そんなにひどいものなのか」と、実際に文部科学省のWEBサイトからダウンロードして読み比べてみた。ところが、著者が書いているのとはずいぶん違った内容だったので驚いた。例えば、著者は「数値目標」について何ページも使って熱く批判している。しかし、実際に「実施計画」を読んでみると、英検2~1級などの数値目標らしいものが書いてあるのはあくまでも「高校卒業段階」に対してのみ。本書の対象である小学校の英語教育に関してはそのような数値目標は一切書かれていない。小学校の英語教育で書かれている目標は、小学校中学年であれば「コミュニケーション能力の素地を養う」であり、小学校高学年ならば「初歩的な英語の運用能力を養う」であるから、どう見てもこれは数値目標でもなんでもない。一体、この著者はどこを読んでこんな批判を展開しているのか。個人的に「実施計画」を発表した文科省の肩を持つ気は一切ないが、第三者的な立場から両者を公平に照らし合わせて読むなら、問題があるのは「実施計画」の内容ではなく、この著者の読解力の方であると指弾せざるをえない。

著者が指摘するような「英語ができれば何でもできる?」などというようなことも、「実施計画」にはまったく書かれておらず、むしろ「日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実について」と、わざわざ、国語、古典、伝統文化、歴史、道徳の教育にも力を入れることを強く奨励している。「そろばん、和装、和楽器、美術文化等の充実、武道の必修化」「『礼』をはじめ伝統文化に根ざす内容を充実」とまで書かれている。にもかかわらず、どうしてここから「実施計画は、グローバル資本主義への対応を主目的としていると推定できます」などというヘンテコな解釈が飛び出すのだろうか。呆れてしまう。

他にも、例えば、「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められていることです」というような批判も的外れで、「実施計画」では、「外部人材の活用促進」は書かれてあるが、それは「教員の確保・指導力向上だけでは十分対応できない部分について」であり、あくまでも小学校では「学級担任を中心に指導」と明言してある。「教員養成課程・採用の改善充実」も、そもそも教える先生が英語ができなければお話にならなから当然のことだろう。いったいどうしてここからこのような解釈が出てくるのかよくわからない。

このように、この著者の批判には、批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げているようにしか考えられないところがいくつもある。主張の賛否以前の問題である。はっきり書くなら、この著者は、英語教育を語る以前に、自身の日本語の読解力の基本から勉強し直した方がいい。

尚、このレビューの日付時点で一件だけ載っている5つ星の絶賛レビューは、このブックレットのレビューしか書いておらず、少々あやしい、ということを指摘しておく。




*****





アマゾンレビューは以上です。

以下にそのレビューに対する私のコメントを、アマゾンのコメント欄の重複部分も含めて全文掲載します。





*****




私のコメント



柳瀬陽介さんのコメント

Edgeworth-Kuiper Belt様、

「殿堂」ならびに「トップ10」のレビュアーとしてご活躍になり、日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化を豊かにすることに貢献なさっているEdgeworth-Kuiper Belt様に敬意を表します。EB様(略称をお許し下さい)のご活動がウェブ上の批評という新しい文化を切り開いているものと思います。公正なレビューを連続して出すご苦労は生半可なものではないと思いますので敬意をお示しする次第です。

  さて、EB様の本書(『小学校からの英語教育をどうするか』)へのレビューですが、これは、主に三つの論拠に基づき、本書を「批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げている」ものと判断され、著者は「英語教育を語る以前に、自身の日本語の読解力の基本から勉強し直した方がいい」と断じて、星一つの最低評価を下しておられるものです。

三つの論拠はどれもEB様が参照された「実施計画」に基づくもので、「実施計画」には、(1)小学校の英語教育での数値目標の提示、(2)「英語ができれば何でもできる?」といった言及、(3)「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められている」といった主張、は書かれていないというものとしてまとめられるかと思います。
 
  ですが、このような論拠を提示されて本書を批判されておられるということは、大変失礼ながら、EB様が本書を速読・斜め読みし、「実施計画」をお読みになってから本書の再読(あるいは丁寧な再参照)をしないままにレビューを書かれたことを示唆しているように思えます(間違いでしたらどうぞお許しください)。
 
  EB様のプロフィールを拝見しますと、「常時5-6冊の本を並行して」「本の性格に応じて読み方を変え」られてたくさんのレビューを書かれておられますので、もしブックレットである本書を速読しレビューを書く際に再読の労は省かれたとしても無理からぬことかもしれません。しかし、「殿堂」ならびに「トップ10」のレビュアーであられるEB様には、その称号にふさわしいレビューを書いていただきたいと思い、以下、私の考えを書かせていただきます。誰しも自分の主張に異論を唱えられることは愉快なことではないかもしれませんが、EB様が読書によって培われたに違いない理性的な態度を信じて、私の考えを書かせていただきます。長文となりますことを予めお詫びします。
 
  私がEB様のレビューが本書の的確な読解に基づいていないのではないかと思う理由は主に二つあります。


【以下、大変長くなりますので、私のコメントは私のブログに掲載しました。ご面倒かとは思いますが、下記URLのページをご参照いただけませんでしょうか】

  http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html



追記 (2015/06/06)
私が昨晩EB様のレビュー欄に投稿したコメントには、このURLまでを掲載していました。上述のように、理由は特定できませんがなぜかそのコメントが消えましたので、本日はアマゾンのレビュー欄に直接投稿し、かつURLは表示しないようにしました。その投稿により、この箇所は今では機能をもたないものになったので横線を引いた次第です。







第一の理由

  第一の理由は、EB様が本書の論証法を正確に捉えられていないように思えるということです。本書で展開されている批判は、「実施計画」だけを根拠にしたものではなく、「実施計画」に関連する文書、(それからもっと重要なことですが)そういった文書の背景になっていると考えられる近代的な思考法を根拠にしているものです。実際、関連文書については本書23ページに明記されていますし、近代的な思考法への批判は第二章全体で展開されています。ですから「実施計画」での言及の有無だけで批判を展開されるのは、正鵠を射ていないと思われますが、いかがでしょう。

  そもそも「実施計画」は7ページだけの図表の多い短い文書であり、今後の英語教育改革がこの「実施計画」だけに基づいて展開されるわけではありません。英語教育改革の行く末を考えるには、「実施計画」だけでなくそれに関連する文書、およびそういった文書に強い影響を与えていると考えられる近代的な思考法をも入れて考えるべきだというのが、本書の論証法として読み取れると思います。
 
  以下、EB様の(1)-(3)の論点について、本書の具体的記述をページ数を示して、私の主張の説明とさせていただきます。
  
  まず、上記(1)の<数値目標は小学校にはない>という点ですが、本書30ページには「有識者会議」の文書(「実施計画」の後に出された文書)についての記述があり、現時点では小学校でそういった数値評価が導入されていないこと、また必ずしも数値評価が導入される予定ではないことがきちんと示されています。(引用をしておきますと、「『小学校高学年で教科化する場合、適切な評価方法については先進的取組を検証し、引き続き検討』と慎重な書き方をしています。これらを読みますと、有識者会議は英検やTOEFL iBTなどの客観試験を万能視していないことがわかります」(本書30ページ)です。)

  本書30ページでは続いて、「しかし、前の節で検討したように数値管理は近代的思考に内在していますから、いつの間にか客観試験の得点がひとり歩きする危険性はあります」と記述されています。このことからも、本書が「実施計画」だけを基にした論考ではないことは明らかかと思います。(ちなみに学校教育では「教科化」はしばしば数値評価を含意します(後述))。少なくとも本書には、「実施計画は小学校での数値目標を提示している」といった明らかに誤読に基づく記述はございません。
 
  もちろん、いくらEB様が「分量は少なめで、すぐ読める」とされた本書でも、EB様に勘違いをさせてしまったとするならば、この著者の執筆能力には批判が必要なのかもしれません。本書に、明らかな誤読に基づく間違った主張がないにせよ、そのような主張を本書がしているとEB様に思わせてしまったら、それは著者の書き方に問題があるのではないかという批判が可能だと思います。しかし、そういった「執筆能力」に対する批判はともかくも、批判は著者の「読解力」に対して向けられるべきでしょうか?(この点については後でもふれます)
 
  上記(2)の「英語ができれば何でもできる?」についてですが、これは本書18ページの表現を引用なさってのことかと思います。しかし当該表現がある節(「英語指導の実態の理解不足」)は「英語教育の現状」(本書16ページ)について述べたものです。と言いますより、そもそもこの章のタイトル自体は「英語教育の現状」です。ですから、この章は「実施計画」の内容を解説したものではありません。こういった理由から、<「英語ができれば何でもできる?」という記述が実施計画にはまったく書かれていない>、というEB様のご主張・ご批判は、冒頭に述べましたように、EB様が本書を速読し、レビューを書かれる際に再読なさっていらっしゃらなかったから生じているものではないかと思う次第です。
 
  なお、EB様は「実施計画」には、むしろ「日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実について」が加えられているのだから、「どうしてここから「実施計画は、グローバル資本主義への対応を主目的としていると推定できます」などというヘンテコな解釈が飛び出すのだろうか。呆れてしまう。」とされていますが、本書41-42ページでは、そういった「日本人としてのアイデンティティ」の強調が英語の習得と常に抱き合わせのようになっていることが指摘され、ハーヴェイ(2007)(『新自由主義』)についての言及をふまえて、新保守主義が「新自由主義のもたらす競争や格差(不平等)の苛酷さをしばし忘れさせる感情的緩衝材として使われがち」(本書42ページ)と記述されています。

またEB様がご批判なさっている著者のこの推定は本書37ページからの引用かと思われますが、そのページでは、「実施計画」には英語教育改革の目標が明確には書かれていないが、「行動計画」(「実施計画」に先行する文書)では「国際的な経済競争」の激化が改革を促す重要な要因としてあげられていることが指摘されています。その指摘に加えて「実施計画」の方向性を決めたのが、通例のように中央教育審議会ではなく安部首相の私的諮問機関(教育再生実行会議)であり(本書2ページ)、その安倍政権は「経済成長を第一と考える政権」(本書37ページ)ことからするなら、と限定をつけた上で上記の推定がなされています。これらの記述からすれば、この推定がまったくの根拠を欠いたものとは言いがたいと思います。
 
  もちろんEB様が上記のページでの記述も目に留めた上で(あるいは記憶した上で)、新保守主義と新自由主義の融合というハーヴェイの考え方や、「実施計画」を「行動計画」や安倍政権の経済成長最優先の姿勢と結びつけることは「呆れてしまう」ほどの「ヘンテコな解釈」であるとされるのでしたら、話は別です。それは一つの意見として尊重できます。しかし、レビューを拝読する限り、ひょっとしたらEB様はこれらの記述を読み飛ばされた(あるいはお忘れになった)のではないかと思い、私は上記のように主張しています。
 
  すでに私のコメントはずいぶん長くなっていますので、EB様はその意味では呆れてしまっているのではないかと思いますが、これはEB様がアマゾンという現代日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化における重要なメディアで「殿堂」「トップ10」のレビュアーとされているからであり、また、私の投稿者名(実名)からすでにおわかりかと思いますが、私が本書の著者の一人だからです。しばらくご辛抱いただき、私のコメントをお読みいただけたら幸いです。
 
  上記(3)の<「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められていることです」というような批判も的外れ>、という点ですが、これは本書16ページからの引用に基づくご批判だと思われます。しかし、まさに同じページでそのような通念が一連の英語教育改革の背後に存在している理由として上げられているのは、大阪府が教員免許の有無や職歴も不問でTOEFLの高得点を「スーパー・イングリッシュ・ティーチャー」の唯一の応募資格としていること、および、そもそも外国語指導助手(ALT)の応募資格も英語が母国語(並)の大卒外国人であることであり、「実施計画」にそういった言及があることではありません。既に述べましたように、筆者としては「実施計画」だけでなく、こういった諸要因を勘案して英語教育改革について考えており、そのことは本書のさまざまな箇所で言及されていることはご理解いただけたらと思います。また上記(2)と同じように、この(3)の主張は、「英語教育の現状」について述べた第一章にあることも付け加えておきます。
 
  以上が、本書での記述を証拠として具体的に示した第一の理由(直接的理由)の説明です。EB様は本書が「批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げている」ものであるとされていますが、上記のような記述を本書に書いている私としては、著者の読解力に関するそのご批判はそのままでは受け入れがたいというのが正直なところです。
 


第二の理由

  もし本書が、EB様がおっしゃるように誤解・曲解にみちたものでしたら、文科省に反対することを自己目的化しているような人は除いた、まともな(英語)教育関係者からは指摘・批判の声が上がるかと思います。ですが、私が知る限りそのような指摘・批判はございません。これを私がEB様のレビューの妥当性に対して違和感を覚える第二の理由(傍証的理由)といたします。
  
  逆に、例えば大修館書店『英語教育』(20157月号)では、元文科官僚の方が本書の書評をし、「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評価をしておられます(念のために申し上げておきますと、私はこの書評者に10年ぐらい前に一、二度、研究会でお会いしたことがありますが、それ以降の接触はございません)。
 
  そもそもこういった雑誌が、数ある出版物の中から書評すべき本を選定する場合は、通常複数の編集者が対象書籍が書評欄で取り上げるに値するかを検討します。また書評原稿に関しても複数の編集者が熟読します。変な本を書評対象にしたり、変な書評を掲載したりしたら、出版社の評判(ひいては経営)にダメージを与えてしまうからです。さらに申し上げますなら、そもそも本が出版される時は、複数の編集者が原稿を吟味し、著者は何度も原稿の書き直しをします。わずかながら出版経験がある私としては、こういった出版社のチェック体制にある程度の信頼をおいていますので、ある程度のレベルの出版社から出され、またある程度のレベルの雑誌で書評として選定された本に、呆れる程の誤読・曲解にみちた本はあまりないのではないかと思っています(もちろんこれを過信しますと、とんでもないことにつながりかねません。私がここで申し上げているのは一般論あるいは確率的推定です)。
 
  また、ウェブの無料媒体ではありますが、株式会社福分堂が発行している「教職ネットマガジン」(念のために申し上げますと、私はこの会社とまったくの面識をもちません)も、本書に対しての一定の評価(5点満点の4点)を示してくださった上で、「本書は、原典の紹介や引用の仕方についても好感が持てました。参考文献や先行研究の提示は大切ですが、ありすぎたり、少なすぎたりすることがままあります。本書は編集者がそのあたりの調整をうまくやったのではないでしょうか。論文作成の観点からも参考になる本です」ともおっしゃってくださっています。
 
  その他にもざっとウェブ上のレビューを読んでみましたが、私が見た限りでは、本書が誤解と曲解に基づいたものだという評価はございませんでした。
 
  ですが、EB様ほどの読書家に、本書を正確にお読みいただけなかったことは一つの事実です。本書は第一の読者層を「保護者および一般市民」としていますが、私たち著者は、教育関係の出版経験はそれなりにあるものの、一般読者相手の出版をするのは初めてでしたので、まだ一般書籍としての執筆能力には努力すべき点が多いのかもしれません。ある程度英語教育の事情に通じたものにとっての常識(例えば「教科化はたいていの場合、数値による評価を含意する)をそのまま一般読者に共有されている常識とせずに、丁寧に明記するなどの配慮がもっと必要だったのかもしれません(この教科化と数値評価の関係は最初の原稿では言及していたのですが、今、本書を読み直してみたら、編集過程で削除してしまっていたようです。ブックレットはページ制限が厳しいので苦労しました)。
  
  ですから著者としては、執筆能力についてのご批判でしたら謹んでお受けします。また本書をきちんと読まれ・参照された上でのご批判も拝受します。しかし、現時点でのEB様のレビューにある、著者の読解力についての「指弾」については上記の二つの理由から同意しがたく思っております。
 


これからの読書文化・批評文化・ウェブ文化のために

  私がEB様のレビューを最初に拝見したのは5/18のことです(私はウェブで気になる情報はすべてEvernoteで電子保存していますので、このような特定が可能です)。その時点でのレビューでは、本書が「英語教育学を専門とする小学校校長が」書いたブックレットとなっていました。言及されなかった方の著者である私としては、「著者の数まで間違えておられるのか・・・」と案じていましたが、幸いEB様はその後その部分を修正してくださっていました(私はいつもアマゾンレビューを見ているわけではありませんが、少なくとも5/29ではそのように修正されていました)。
 
  ですが、その5/29のレビューには他のレビュアーについて、少なくとも私としては若干気になる記述が加わっておりました(ここでも念のために申し上げますと、私はそのレビュアーがどなたであるか存じません)。そして、本日この原稿を書くためにEB様のレビューをまた参照しますと、星印はそれまでの二つから最低評価の一つに下がっておりました。
 
  もちろんウェブ空間で誰が何をどのように書こうが、それが法に触れない限りは自由であることは言うまでもありません。また、書籍の著者が、ウェブ上のコメントにいちいち反論するのも通常はありません(そんなことをする時間があれば、もっと生産的な活動をするべきでしょう)。
 
  しかし出版物は著者個人を超えて、微細ながらも出版社や出版文化に影響を与えるメディアです。私としては本書を丁寧に読まれた方からのご批判は謹んでお受けしますが、もしあるご批判が、本書の正確な読解に基づいていないものでしたら、異議を申し立てたく思いました。(繰り返しになりますが、「この本はブックレットなのにきちんと速読できるようにはできていない」といったご批判でしたら、それは一つのご意見として謹んでお受けします。またEB様の、理論部分よりも具体的な部分を中心にするべきだったのでは、というご批判も享受しております)。
 
  さらにアマゾンというメディアは、現在、日本の読書と出版の文化を大きく変えていることについては言うまでもないでしょう。そのアマゾンにおいて「殿堂」かつ「トップ10」とされたレビュアーのコメントは、大きな影響力をもちえます。その影響力は、本書の評判といったことだけでなく、これからの日本での書評文化や(匿名)ウェブ文化のあり方についても及ぶかと私は考えています。
 
  私は時々米国アマゾンを利用しますが、そこでの"Review"と日本アマゾンでの「レビュー」の違いについていろいろ考えさせられています。管見の限りで比較しますと、米国アマゾンの"Review"は日本アマゾンの「レビュー」よりも、長文で丁寧なものが多く、時には著者も"Review"欄に登場したりします。一方、これも私が見る限りのものですが、日本の「レビュー」では、短文で筋違いの断定が少なくありません。著者が「レビュー」欄に登場することもあまりないように思います。
 
  EB様のレビュー活動をざっと見る限り、EB様は丁寧で誠実なレビュー活動をお続けになり、その結果、「殿堂」かつ「トップ10」の称号を得られたのだと思っております。
 
  そういった称号をもつレビュアーは当然少数しかいません(実際私は「トップ10」のレビュアーは初めて見ました)。そうなると、その称号で注目を集めるEB様の言動は、今後のアマゾンの(ひいてはウェブ全般での)日本語批評文化のあり方あるいはイメージを決める一要因となりかねないとも思われます。既にEB様の言動は、日本語でのアマゾンレビュー全体の評判に影響を与えているのではないでしょうか。そして言うまでもなく、私は、アマゾンのトップ・レビュアーがその称号にふさわしい見識と品格でもって、すべてのアマゾン・ユーザーから敬意をもたれている文化を望んでおります。

そういったEB様のレビューだからこそ、私は今回このように長々と書かせていただきました。また、最初の方でも述べましたように、熟達の読書家としてEB様が理性的な態度でこのコメントに対応してくださることを信じております。
 
  末尾になりますが、EB様の今後のご健康とご多幸、そしてご活躍をお祈りします。そして私としてはあくまでも、日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化がよい方向へ発展することを願っていることを表明させていただきます。最後まで丁寧にお読み頂きありがとうございました。



追記
このコメントは、本日(2015/06/05)時点でのEB様のレビューに基づくものです。 





*****



私のコメントは以上です。このコメントが生産的で建設的なコミュニケーションを生み出すことを願っています。