2016年2月24日水曜日

知性だけでなく、感性と理性も育てる



「今年も卒業論文抄録の挨拶文を書いてください」と事務のKさんから依頼が来て、「ご参考に」と、自分が去年に書いた文章も送られてきた。ケチくさい私は自分が書いた文章はたいていブログに掲載するのだが、去年は書いた直後に、この文章どうも気に入らなくてお蔵入りさせた覚えがある。でも今、読み返すと、それほどでもないと思えてきた。この心境の変化が、自分自身との和解なのか、自分の判断基準のさらなる劣化なのかはよくわからないけど、一応掲載しておきます(今年の挨拶文も書かなきゃ)。


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知性だけでなく、感性と理性も育てる


平成26-27年度英語文化系コース主任
柳瀬陽介



  慣例にしたがってコース主任として卒業論文抄録の挨拶文を書く。

  卒業論文は、多くの人にとって小学校から始まる学校教育の最終課題である。学生も教員も結構大騒ぎする。しかし、なぜ卒論が必要なのだろう。無駄ではないのか。実際、親しい友人や家族と過ごす日々で、卒論執筆経験が活きることはほとんどない。それどころか、卒論の調子で自己主張したり、他人の意見に「証拠を出せ」「先行研究を読んだのか」などと横槍を入れていたりしたら疎んじられること間違いない。

  だが近代社会で働くとなると話が異なる。近代社会とは、合理主義で設計された極めて機能的な組織とマシーン(機械)を基盤とする社会だ。組織は、家族や友人の共同体と異なり、目標達成のために合理化されている。機能達成のために手段が最適化される。組織では割り切って考えなければならない。マシーンにおいてその合理性は一層高まる。機能性追求のために徹頭徹尾無駄を省かなければならない。こうやって私たちは近代社会を作り上げ、運営している。新幹線が3分も遅れたら、私たちは何か事故でもあったのかとざわつく。センター試験の開始が30秒でも遅れたら、受験生はそれを問題視しかねない。それぐらいに合理的で機能的なのが近代社会だ(やれやれ)。

  そういった組織とマシーンに適応しようと思えば ―つまり近代社会で働き金を稼げるようになろうと思えば― 合理的な思考法を獲得しなければならない。その点、卒論執筆という経験は役立つ。卒論を書くぐらいの論理的な思考力があれば、まあ、近代的合理性は身についているだろうと雇用者は期待する。だから大卒はそれなりに就職に有利だ。

  つまり、卒論とは、近代社会で稼げるようになるための訓練とみなすことができる。今や、学校とは人間的成長の場ではなく、資本主義社会への適応訓練機関だと言う人もいるが、ある意味、それはあたっている。資本主義社会だろうが、封建社会だろうが、何社会だろうが人はとりあえず食べてゆかねばならない。その時々の社会に適応する必要がある。だから大卒という肩書に多くの人はこだわり、かくして卒論の重みも高まる。

  だが、私たちが生きている社会は人間の社会である。マシーンも人間によって使われる。だから、近代的な社会もマシーンも、合理性と機能性を基盤にするにせよ、実際はずいぶん人間的な側面がある。組織は規則や会議で意思決定をするが、そこには情に基づく裁量もあれば、総合的としかいいようもない複合的な判断もある。マシーンは機能優先だが、それでも美的な意匠や、身体で味わえる感覚も重要である。

  合理性や機能性は知性の領域だろうが、人間は知性だけで生きていない。美的・身体的な感性も働かせているし、判断や配慮といった理性ももつ。人間にとっては、感性、知性、理性のどれも重要だし、それらは統合されていなければならない。

  ところが感性と理性を忘れ去り、知性を振り回す人がいる。組織には、教条的な理屈ばかり述べて、人の情を踏みにじったり、微妙な判断を否定したりする人がいる。マシーンにも、およそ使う喜びを感じさせなかったり、非道な目的のために最適化されたりしたものもある(人を殺すための兵器というのはそういうものかもしれない)。

  私たちの多くは近代社会に適応するため、組織で働き、マシーンを作り、使う。その中で、自らをマシーン化する人もでてくる。しかしマシーンのように感性と理性を忘れ、知性ばかりを行使するなら、組織が非人間的な働きをし、非人道的なマシーンが製作され使用され始めかねない。そんな近代社会への過剰適応を私たちは止めなければならない。さもないと、マシーンのようなエリート強者が、無情な組織と冷酷なマシーンを合理的に働かせ、弱者を搾取しては自らの権益を強化する社会が到来する。

  話が大げさになったので、話を卒論に戻す。卒論作成の中では、主張に理論的な根拠と具体的な証拠をつけるという制約を課せられた。皆さんは、その制約の中では語りえない事象の存在も認識したことと思う。知性だけでは割り切れない感性の世界であり理性の領域である。知性が立証する事象は、さまざまな制約をつけた結果成立している「小さな正しさ」に過ぎない。それを針小棒大に「大きな正しさ」のように振り回してはならない。合理性と機能性を基盤とする近代社会では、「小さな正しさ」は時に暴走しうる。

  卒論作成では、「小さな正しさ」を成立させることが前面に出たと思う。「小さな」とはいえ、正しさを立証することは大変だ。個人的な思いを多くの人の関心を引く客観的な主張へと変えてゆくためには、多くの過程を経なければならない。この抄録に収められた卒論を書いた皆さんは、まがりなりにもその課題を達成した。だからこそ大卒という資格も得られる。

  だが、卒論作成の背後にあった課題は、実は、自らの「小さな正しさ」を超えた感性の世界と理性の領域があることを再認識することだった。自らの知性に基づく「小さな正しさ」には明らかな限界がある。その限界をわきまえずにそれを振り回せば、それは世界と人々を損ねかねない。だからといって「正しさ」の主張をすべてやめろというのではない。近代社会で生きている以上、私たちは「正しさ」から無縁ではいられない。「小さな正しさ」の吟味は必要だし、それを立証し使用しながら組織を運営しマシーンを作り使用することは不可欠だ。

  皆さんは「小さな正しさ」の作り方を学び、大卒の資格を得る。そしてほとんどが近代社会で働く。それに伴う責任は、自らがこれから作り出すだろう「小さな正しさ」を暴走させないことだ。知性だけでなく、感性と理性も育てることを忘れないでほしい。

  もっとも、これは知性に偏した大学教師が、自然な感性と、常識という理性を備えた皆さんに言うことではないだろう。私のお説教はこれにて終了です。ご卒業おめでとうございます。





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