2016年11月8日火曜日

今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)



以下は、11月26日(土)に明海大学浦安キャンパスで行われます「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」に登壇するための基礎資料の一つとして作成したものです。したがって、この『ことばの意味とはなんだろう』という書籍のごく一部 (私の発表に関連する部分) についてしかまとめていないことを予めお断りしておきます。


明海大学 応用言語学セミナー



セミナーにご参加希望の方は、プログラムをご覧の上、11月18日までに同セミナー運営委員会まで申込のメールを送ってください。




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■ 二種類の「ことばの意味」

言語学の見解では、「ことばの意味」には二種類あることになっています。意味論的意味と語用論的意味です。意味論的意味は、「言語表現だけを解釈することによって得られる意味」で、語用論的意味は「言語表現にコンテクストをプラスしたものを対象とした解釈によって得られる意味」です。(p.2)

この見解に対してしばしば以下のような反論が加えられます。(p.286)

(a) 意味論と語用論の区別ははっきりしない。
(b) 言語表現の意味を、コンテクストにおける具体的な使用から独立のものとして規定する試みはナンセンスである。
(c) ことばの具体的な使用から切り離したレベルでの言語表現自体の意味は存在しない。

この本はこれら (a) から (c) の主張にはすべて反対の立場をとっていますが (p.286) 、その説得力は十分で私もこれらの主張には反対します。



■ 「志向性」 (intentionality) の排除

しかし、この本そして標準的な言語学が行っている「意味の科学」は、私たちが「心が向かっている現象」や「心がとらえている対象」と述べていること、言い換えるなら「志向性」 (intentionality) を扱いません。そのようなものを扱おうとすれば、自然科学の方法が使えなくなるからです。


本書でもChomsky (1995) のLanguage and Nature という論文からの一節が引かれています。

general issues of intentionality, including those of language use, cannot reasonably be assumed to fall within naturalistic inquiry.  (p.27)

言語使用の問題も含めて、志向性についての一般的な問題が、自然科学的研究の領域に入ると想定することは理にかなっていない(拙訳)

ただし本書でのこの引用の意図は、チョムスキーの意味観に対する異議を唱えるためであり、本書での主張はあくまでも意味論と語用論は自然科学的研究として成立するということです。

しかし、私は自然科学的研究が適用できない領域での「意味」(後述)--あるいは志向性-- の議論をすることも重要だという立場を取っていますので(つまりは、自然科学的方法ではない方法で「意味」を語ることもナンセンスではないという立場で物事を考え行動していますので)、上記のチョムスキーの主張を、本書を離れてもう少し補っておきます。

チョムスキーは2000年のNew Horizons in the Study of Language and Mindという本で以下のように述べています。

More generally, intentional phenomena relate to people and what they do as viewed from the standpoint of human interests and unreflective thought, and thus will not (so viewed) fall within naturalistic theory, which seeks to set such factors aside. Like falling bodies, or the heavens, or liquids, a "particular intentional phenomenon" may be associated with some amorphous region in a highly intricate and shifting space of human interests and concerns. But these are not appropriate concepts for naturalistic inquiry. (p.22)

もう少し一般論として述べるなら、志向的現象とは、人間および人間の行為を、人間的興味と習慣的思考の観点からとらえるものであるが、そのような現象は(そのようにとらえられる限り) 自然科学的理論の領域には入り得ない。自然科学的理論はこういった要因を排除するからである。落下物体や天あるいは液体と同じように、「ある特定の志向的現象」は、定まった形式を有しないままに、非常に微妙で移ろいゆく人間の興味と関心と関連しているかもしれない。だがこれらは自然科学的研究にとっての適切な概念ではない。(拙訳)

つまり、私たちの日常的な興味・関心・考え方が、直接に自然科学の概念となることはないということでしょう。これは自然科学という特殊な(しかしとても強力な)近代文化の特質を考えるなら、誰も反対できない正論かと思います。

しかし、繰り返すようになりますが、教育学部という場所で教員養成や教師教育を中心として英語教育という「現実世界問題」(あるいは「応用的」な問題)に関わっている私としては、自然科学的研究ばかりが研究ではないと考えています。むしろ、もし自然科学的研究が、その方法論上、現実世界問題にとって重要な現象を排除してしまうのなら、自然科学的研究ではない研究を行うべきだと考えています(私の場合でしたら哲学的探究です)。私は本書の主張に納得しますしそれを否定もしませんが、同時に本書が示す方法論だけが唯一の方法論ではないと考えています。ですから、本書が方法論的に排除せざるを得ない「意味」も、本書が示す方法論以外の方法で探究すべきだと考えます。



■ 広義の「意味」の分類

ここで本書をさらに離れて、私が考えている「意味」の分類を図示します。(追記:以下の二枚の図は2016/11/10に差し替えました)。




当たり前のことを言うようですが、言語学がとらえる「ことばの意味」は、私たちが広義で語る「意味」のすべてを包含はしていません。また、日常の言語使用では、その時の言い方(身ぶりや表情)が非常に重要ですが、それも言語学の語用論では通常、研究対象とはされていません。さらに英語教育という現実世界問題を扱っている者としては、「英語を学ぶ意味」や時には「生きる意味」について真剣に問いかけてくる学習者についても考察をする必要があります。

そうなると自然科学としての言語学が扱う範囲の「意味」を越えて、自然科学ほどの方法論的厳密性はないものの、できるだけ丁寧に物事を考えてゆくという哲学という営みが扱う範囲の「意味」で考えてゆきたいというのが私のような「応用分野」で仕事をする者の発想になってゆきます。



以下、この本の私なりのまとめを続けますが、そのまとめをする私はこのような意味観をもっているということを念頭においてください。



■ 自然科学(経験科学)の方法

ここまで自然科学の方法論については特に何も述べていませんでしたが、本書での自然科学の方法の定義を紹介しておきます(ただし以下の引用箇所では「自然科学」ではなく「経験科学」という用語が用いられていますが、私が本書を読む限り、この「経験科学」はチョムスキーの言語学の方法を述べているものであり、この文脈では「経験科学」を「自然科学」と読み替えることには問題はないと思います。)

本書はこのように宣言しています。

反証可能性を維持し、アブダクションを武器に考究を進める研究、つまり演繹法則的説明法ないし仮説演繹法をつづめて「経験科学」とよぼう。(p. 53)

それではアブダクションと反証可能性についても簡単にまとめておきましょう。



■ アブダクション

本書はアブダクション (abduction) を次のような形式をとる推論として定義しています。(pp.47-48)



(i) ある不可解な事実・現象Cがある。
(ii) しかしもしAが真であるとすると、Cは少しも不可解ではなく、当然のこととなる。
(iii) よってAを真と考えるべき理由がある。


このアブダクションは「データを飛び越した仮説設定」であり、論理学では「後件肯定の誤り」とされます ( i. C; ii. A→C; iii. ∴A)。ですから (iii) は「よってAは真である」ではなく「真と考えるべき理由である」と述べられています。(p.49)



■ 反証主義 (falsificationism)


反証主義 (falsificationism) の考え方とは異なる確証主義 (verificationism) の考え方では、何か仮説の主張をする際にその仮説が経験的に確証できる (empirically verifiable) ことだけでその仮説を科学的とします。しかし、反証主義の考え方では、どんな観察(経験的な確証)が得られたら自分が主張する仮説を否定(反証)できるかという反証可能性 (falsifiablity) を明確にした上で、その反証可能性にもかかわらず観察やテストに耐え続けて、反証されなかった仮説のみを科学的とします。

だが実際には、仮説に対して少しでも反証が加えられたらその仮説は直ちに斥けられるわけではありません。もしそうしていたら、わずかの観察データの狂いなどで本来は捨てるべきでない仮説が捨てられてしまい科学の発展が見込めませんから、あまりに教条的な反証主義は「素朴すぎる反証主義」 (naïve falsificationism)  と呼ばれます。実際の科学の歴史が示しているのは「洗練された反証主義」 (sophisticated falsificationism) であり、科学者は自分たちの仮説を、研究プログラム (research programme) としてまとめ、その中の「修正を許さない堅固な核」を守りつつ、細かな反証に対して再観察や理論の微修正などで自分たちの理論を発展させてゆきます(もちろん「堅固な核」が守りきれなくなったらその理論は捨て去られますが)。



■ 人格的説明と亜人格的説明

ここで先程の、私たちの日常的な興味・関心・考え方に基づく説明について再び考えましょう。こういった説明は、私たちが意識的に考えている理由で、これを人格的 (personal) な説明と呼ぶことができます。(p.83)  しかし私たちが実際に行っていることの多くは、そういった意識的な人格的な説明が生じる以前に、無意識的・自律的・機械的、かつ迅速に行われています。こういった実態をきちんと説明するためには、私たちの行為や行動を、亜人格的 (sub-personal) な要素にまで還元した上で亜人格的な説明を行うことが必要となります。先程の志向性に関する議論と重なりますが、「人格的状況や行動は、そのままでは科学的研究の対象になりえない」 (p.83) わけです。

本書の著者はここで、「関連性理論以外の語用論の多くが、人格的説明が科学的説明として通用すると信じているかに見える」 (p.83) 点を憂いていますが、これは言語学はあくまでも自然科学であるべきだという信念から来ている憂いだと私は理解しています。

しかし、自然科学以外の説明法を認める立場 --たとえそういった説明法が自然科学の説明ほど厳密ではなくても、まったく何の説明もないよりもマシだと考える立場-- からすれば、人格的説明もアリだと思えてきます。誤解のないように付け加えておきますと、同じ対象を自然科学的方法と非自然科学的方法(例えば哲学的方法)で説明できるなら、前者の方が高度な説明を提供できることは間違いありませんが、もしある対象が自然科学的方法では扱い得ないのなら、その対象については非自然科学的説明方法を使用することは極めて合理的であるということです。

いや、もっと議論を呼ぶ主張をしてみましょう。そもそも説明がなぜ必要となるかといえば、「目の前の問題を解決するため」というのがpragmatism(いい訳語がないので「現場主義」と訳しておきます)の考え方でしょう。そういった考え方からすれば、問題を抱えている当事者には、亜人格的説明よりも人格的説明(いわゆる「ナラティブ」)の方がよく伝わるし、また問題解決に役立つことも十分考えられます。そもそも説明は、最終的には自然科学的説明に収斂されるべきだというのは「科学主義」 (scientism) とも呼べるかもしれない独特の考え方ですから、「現場主義」からすれば、複数の説明法を、それらの違いや特徴をよく理解した上で使い分ける方が「科学主義」的な禁欲よりも合理的に思えます(この点、Dennettの physical stance / design stance / intentional stance の区別は有用であると思いますが、ここではこれ以上脱線することを怖れ、言及するだけに留めておきます)。




■ 「言語的意味」

本書の説明に戻ります。

上のような方法論に基づき、本書はことばの「意味論的意味」(あるいは「言語的意味」)の存在、そしてその存在を認めることで「語用論的意味」の解明も進むことを見事に論証します。その具体的な論証こそがこの本の主要部なのですが、ここではそういった具体的な論証を省き、この本の意味観を中心にまとめているのはご承知のとおりかと思います。

ですからここでは本書が「言語的意味」を説明している箇所を引用します。


今、言語表現Sで文の場合を考えよう。Sの意味とは、当の言語体系の中でS自体が有している意味であり、より正確には「文の言語的意味」とよばれる。これは、Sが使用される具体的なコンテクスト情報(話し手が誰でいかなる意図を有しているか、聴き手が誰でいかなる信念を有しているか、どのような状況でその文が使用されているか、といった言語外の情報)から完全に独立のものであり、当該言語の言語能力を有している者であれば、Sについて知っているところの情報である。 (p.231)


また、この言語的意味表示は、さまざまな具体的な語用論的意味(解釈)から中立的なものでなければならないと同時に、その意味表示に語用論的操作を適用した結果、それらの具体的な語用論的意味(解釈)が得られるものでなければならない (p.235) とも本書は述べています。

さらに本書は、意味論的意味を仮定することにより語用論的意味の解明が進む事例だけでなく、関連性理論で語用論的意味を仮定することにより意味論的意味(言語的意味)の表示についての理解が明確になる事例も示します。さらにこれまで「純粋に語用論的なプロセス」とみなされてきた事例についても、意味論研究が貢献できることを示したりもしています。(p. 285)

私はそういった本書の具体的な論証に反論できる材料(および能力)をまったくもちません。しかし、本書の意味観だけが唯一の意味観ではなく、場合によっては別の意味観を採択した方が合理的でもあるというののが私の見解であるというのはこれまで述べてきた通りです。

最後に、本書の「ことばの意味とはなんだろう」という本書のタイトルでもある問いについてまとめて、私なりの考えを蛇足で付け加えることにします。



■ 「ことばの意味とはなんだろう」

このように自然科学的な意味論の構築を行う筆者ですが、一般人は「ことばの意味」として意味論的意味ではなく語用論的意味の方を最初に考えてしまうことはもちろんのこと承知しています。しかし、ことばの意味の考察が日常的な概念(あるいは人格的説明)にとどまっていたら意味の科学的研究は先に進まないというのが本書の前提です。本書はその前提に基づき、言語的意味表示(あるいは論理形式)を示しましたが、それはあくまでも経験的仮説にすぎず、それがどこまで正しいかは、究極的には妥当な意味理論が判定してくれると筆者は述べます。 (p.287)

筆者は次のように述べて本書を終えます。

したがって「ことばの意味とはなんだろう」に対する本当の答えは、実は、妥当な意味理論が教えてくれるということになる。

 では、そもそも妥当な意味理論とは何であろうか。それは、たんに意味理論の内部だけで決まるものではなく、語用理論、統語理論、さらには音韻理論との関係で、妥当な言語理論全体のなかで経験的に決まるものなのである。科学的な意味理論は妥当な言語理論における他の下位理論と整合的なものでなければならないからである。ということは、「ことばの意味とはなんだろう」に対する究極の答えは妥当な言語理論が教えてくれるということになる。このことを十分念頭において、ことばの意味を科学的にどこまでも深く追求していく営為こそ、「意味を科学する」ということにほかならない。本書はその営為の一端を紹介したものである。(p.287)

たしかにこの本からは「意味を科学する」ことを教えていただきました。とても勉強になりました。しかし、「ことばの意味とはなんだろう」に対する究極の答えは妥当な言語理論が教えてくれる、という箇所には少しひっかかりました。科学としての言語理論が、日常生活での私たちの言語使用よりも高次の階層(あるいは独立した階層)に存在し、そこから一方向的に「ことばの意味」についての解答を授けるといったように解釈できたからです。

しかし「意味」あるいは「ことばの意味」ということばは、上の図で示した広い意味で使われていることばです。科学としての言語理論が「意味」や「ことばの意味」の科学的な意味について教えてくれるというのならともかくも、それらの一般的意味を教えてくれるというのには納得がいきません。

またそもそも科学としての言語理論(言語学)の説明や記述においても日常言語表現は使われます。もう少し正確に言いますと、言語学は、対象言語として日常言語表現を引用するだけでなく、それらの説明や記述、つまりはメタ言語においても、科学的専門用語だけでなく日常的な言語表現を使います。別の言い方をしますと、言語学は科学的専門用語だけでなく日常言語表現によっても構成されています(少なくとも現時点までで、対象言語の引用以外に、日常言語を一切使っていない言語学論文(例えば、対象言語以外はすべて数学的表現で書かれた言語学論文)は私は見たことがありません --人工知能が人間の知性を超えたらそのような論文も書かれるようになるかもしれませんが、これ以上の脱線は自制します)。

そうなると言語学と日常的言語使用の関係は、エッシャー (Escher) のDrawing Handsの関係に似ているように思います。言語学が日常的言語使用を記述している一方、言語学は日常的言語使用によって記述もされているというわけです。





これと同類の議論は、ウィトゲンシュタインを引用しつつ意識概念について論じたMurray Shanahan (professor of cognitive robotics at Imperial College London) の以下の論にも見られると思いますが、今はそれについて考え直す時間がないので、備忘録としてここに言及しておくのみにとどめます。

Murray Shanahan
Conscious exotica



と、極めて個人的なまとめになりましたが、この本のようなきちんとした研究書をもとに「応用言語学」と時に呼ばれる研究のあり方について考えてゆきたいと思います。ご興味のある方のセミナー参加をお待ちしております。


明海大学 応用言語学セミナー


 









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