2016年12月20日火曜日

「わからない」という感性の重要性 -- 江本伸悟先生と学部三年生のことば



東京大学工学部を卒業し同大学院新領域創成科学研究科で博士号(科学)を獲得した後に私塾「松葉舎」を立ち上げた江本伸悟先生(Twitter, 私塾開校の挨拶)の発言は大学・大学院教育のあり方を考える点で非常に貴重です。  

以下は、江本先生のサイトからの引用です。大学・大学院ではむしろ「分からない」ことが大切であることを論じています。


科学者の良心は“分からない”という感性の中にある。

(中略)

この例からも分かるように、高校時代に物理が苦手だったという人に限って、本当はすごく物理的な感性が豊かな人が多い。つまり、平凡な人であれば自分が“分かっていない”ことに気付かないので、物理が“分からない”と思い悩むことはないのだが、物理的な感性が鋭い人は自分が“分かっていない”ことに気付いてしまうからこそ、物理が“分からない”と悩むようだ。
 (中略)
そこで僕は、ニュートンの林檎の寓話を少し書き換えてみたいと思う。元々の文章では、ニュートンは万有引力が“分かった”から偉かったということになっているが、そうではなくて、林檎が落ちるという当たり前のこと、それまでは誰しもが“分かる”と感じていたことを、ニュートンだけが”分からない”と思ったからこそ偉かったのだと言いたい。そうして、林檎が落ちるという“分からなさ”、これに立ち向かう人々の努力が、万有引力の“分かる”へと繋がっていったのだと。これは、“分からなさ”こそが科学の第一歩だということを伝える新たな寓話である。

科学とは、世界を“分からなく”なることから始まる。「え、りんごが落ちるなんて超不思議!?」と、世界を驚きのスープに浸すことから始まるのである。それはつまり、世界に未知を生み出すことでもある。科学は未知を既知にしていく営みだという印象が強いが、むしろ既知だと思っていた物事を未知なる物事として捉え直していくことが本質である。

世界に対しての認識を肥やすという事は、単に“ある対象に付いての知識”を知っていく事ではなく、“ある対象に付いて知らないと気付いてさえいなかった事”を知っていくことである。そのためには、如何にして世界に問い掛けるのか、ということが大切である。

(中略)

“分からなさ”へと向きあう姿勢こそが、物理学を営む上で自然と身につく倫理観のひとつである。“分からなさ”へと向きあうことは、”見えない背景”へと想いを馳せることに繋がる。そうして“見えない背景”へと想いを馳せられる人は、人のことを、命のことを大切にすることができる。人の身になって考えるということは、その人の背景に広がる見えない苦労を想像することに他ならない。命を尊ぶということは、古代から紡がれてきた命の糸、その糸が紡がれるまでの様々の知恵と苦労を想像することに他ならない。

僕が物理学者として、自然という“わからないもの”に向き合い続けるのは、そうすることで“見えない背景”へと想いを馳せる、その心の姿勢を保ち続けるためなのだと思う。そうして僕は、物理をやっていない時よりも少しだけ、人を、命を、自分を大切にで きるようになったのではないだろうか。

(中略)

いま思えば、大学は“分からなさ”に向き合う場としては最適な場所であった。まず授業を聞いても全然わからない。何が分からないのかさえも分からない。“分からない”というのはこういう事なのか、ということだけが妙に分かったりする。

更に友達が勧めてくる本も、全然わからない。数学の本を開いても分からないし、哲学の本を開いても分からない。今でも多くの本が「あなたはいつまでたっても私のことを分かってくれないわ」と愚痴をこぼしながら、本棚で寂しそうな背中をみせている。あきれ果てたのか、ふてぶてしく横になって寝ている本もいる。 たまに「ごめんね」と謝りたくなる。

しかし不思議なもので、“分からない”と思っていたものも、分からないなりに頭の中にしまっておくと、数年後くらいにふと、そういう事だったのかと腑に落ちたりする。そう思うと、“分からない”ということ自体はそう大きな問題ではない。“分からない” に耐えられないことこそが問題なのだ。頭の中に“分からなさ”を養ってやるだけの余裕が必要である。

http://www.shingoemoto.com/text/unknown/






この江本先生の文章を思い出したのは、学部三年生向けの「コミュニケーション能力と英語教育」の授業での学生さんの下の書き込みを読んでのことです。

この授業ではChomskyやHymesやWiddowsonなどの言語学者や応用言語学者、あるいはカントやウィトゲンシュタインなどの哲学者の文章をごく一部ですが示した上で、そこから物事を考えることを促しています。明晰にあるいは実証的に定義できる知性の「概念」ではなく、抽象的にしか理解できない理性の「理念」が授業ではしばしば登場します。

ですから「A=Bで、C=Dです」といった項目をひたすら覚えることが「勉強」と思い込んでいた学生さんにとっては、この授業は「どんどん分からないことが増えてくる」あるいは「今まで分かっていると思っていたことが実は分からないことが分かる」授業となっているかもしれません。

誤解のないように述べておきますが、私はできるだけ具体例なども出して分かりやすい授業をやっているつもりです。しかし私が変えようとしているのが、学生さんの認識の表層部ではなく深層部であるために、学生さんの認識体系が変わるのにそれなりの時間がかかってしまいます。

ですが、大学・大学院の授業にはそのような授業があってもいいのではないかと、江本氏のことばを読んで意を強くしたので、ここに江本先生と学生さんのことばを引用する次第です。

以下は、学部三年生の授業振り返りの一部です。





■ これだけの論を読んで解説をしていただいてもやはり「コミュニケーション」の明確な定義がどんどん曖昧に、抽象的になっていくような気がしました。英語教師が教えなければならないものはこんなにも実体のないものなのかと思うとこの先少し不安にもなりますが、もっとたくさんの論文にチャレンジして見解を深めていきたいと思います。



■ 復習が大事だと、改めて感じました。わかっているつもりになって、なんとなくで 180分が終わっていしまうのは勿体無いです。時間はかかりますが、これからもしっかりと復習をしていこうと思います。(理解できていなかったことだらけでした)



■ この授業で読む英語は簡単には読み進めることができないことが多く、自分の英語力の無さ、感覚の鈍さを痛感します。「わからない」という経験を価値あるものと捉え、努力していきたいです。



■ 授業をうけていてひたすら感じることは、「コミュニケーションは深い」ということです。「コミュニケーションとは」という問いかけにたいする明確な答えなんてないのではないかと思えてきます。それと同時になくても良いのではないかとも思えます。

 「深い」というのは文字通りの意味で、掘っても掘っても底が見えません。ついにはチョムスキーやハイムズでさえ明確な答えを出せなかった(当人たちはその答えにたどり着いたと思っているかもしれませんが)。でも、掘り進めてくれたことには違いはありません。彼らが掘り進める片手間で、標識を立ててくれたり、階段やはしごを設けてくれたり、休憩所をこしらえてくれたおかげでぼくたちは迷わずに彼らの思考をたどることができます。

 学問の第一線に立つ人の仕事はまさにこれなのかもしれません。道なき道に勇敢に飛び込んでいき、後に続く人がそこまでたどり着けるように道をつくってあげる。「道なき道」というだけあって前例はないものですから査定や評価は大変難しいです。でも、当の本人たちは決してそんなことは気にしていなかったのではないかと思います。なぜなら、具体的に数値化された「評定」を気にする人たちならば周りの人との比較によって自らの能力を示すことに固執するからです。誰もやってこなかったことをやっているのですから、他人と比べることはできない。ですから、学問のフロントラインに立つ人たちにとって評価はどうでもいいことなのではないか、と僕は思います。学問を修めようとするならばまず僕たちが長い間とらわれている「評価の檻」から抜け出す必要があるように思えます。





これからも学生さんとの対話を続け、よりよい授業を目指す努力を怠らないようにしたく思います。 



追記 (2017/01/09)
この記事の続きを「広大教英ブログ」に書きました。
「わからない」という感性を大事にできる学校を作りたい
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/01/blog-post.html





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