2016年1月13日水曜日

学習概念を日常的な日本語に翻訳する課題を終えた学生さんの感想



英語教師のためのコンピュータ入門」という授業で、平均・分散・標準偏差・z得点・偏差値といった概念を扱いました。授業では、私が挑発的な問いかけをして、学生個々人に考えさせ、学生同士で話しあわせました。授業後の振り返り課題として、これらの概念を自分なりに例や喩えを出しながら、日常語に翻訳する課題(※)を出しました(こういった活動の意義については下の記事に書いています)。



実践者として現場で考えるための方法論



※ 翻訳 (translation) は、異言語間だけでなく、同一言語内でも使われる概念です。もちろん、後者の場合、ジャンルやレジスターが異なるように翻訳することが多いのかもしれませんが。


"After Babel: Aspects of language and translation" by George Steiner



学生さんの翻訳(そして例や喩え)は非常に面白いものでした。また、翻訳を行っての感想も書いてもらったのですが、それを読むと、こういった翻訳(言い換え)が非常に有効であること、しかし中学・高校時代にはほとんどこういった活動をしていないこと、翻訳しようと苦労することで概念理解がすすむこと、概念理解がすすみ「なぜこうなのか」がわかると学ぶ気が湧いてくること、教師は教える内容についてはこのような翻訳をやっておかねばならないこと、などのことを学生さんは実感したようです。

今回は英語教育専攻の学部一年生が高校数学(統計)の日本語を、自分で実感できる日本語に翻訳する(その際、適宜、例や喩えを補う)という課題でしたが、英語教師としての課題は、やはり英語科の学習内容を、目の前にいる学習者に伝わるように翻訳することだと思います。

実際、優れた英語教師は学習内容をさまざまに翻訳して学習者に伝えます。その翻訳は、数学での翻訳のように厳密なものではなく、それぞれの教師がそれぞれの学習者に伝わりやすくした翻案であったり新たなストーリー(フィクション)を作りあげたりすることであったりしますが、教師は徹底的に考え、その話を聞く生徒は納得します。これが教師の重要な能力だと思います(こういった能力を認めないのなら、コストのかかる人間教師はクビにして、教室にはコンピュータだけを設置すればよいなどという乱暴な意見にも反論できなくなるでしょう)。

しかし、下の学生さんのことばによれば、現在の中学校・高校(そしておそらく大学)の多くの教室では、こういった考えさせる活動はしていません。その理由としては、教師自身が大学時代に考える経験(そして喜び)を十分に味わっていなかったことや、浅薄な「客観性」概念理解に基づくテスト文化で「考える」ことが構造的に軽視されていること、などあるかと思いますが、そういったことへの考察は後日にまわして、ここでは印象的だった学生さんのことばをそのまま引用します(ただし赤色は私がつけたものです。また、[ ]は私が挿入した補注です)。




■ 今回の課題は今までで一番頭を使い苦しんだものでした。
[高校時代に] データの分析を習った時は、この問題にはこれを使うというのはわかっても、何のために求める数値なのかわかりませんでした
今回自分なりに調べたり考えてみて少しわかった気がしますが、この説明に自信はありません。
それは自分の理解がまだ不十分だからだと思います。
誰かに物事を説明するためには確かな知識と深い理解が必要なのだと改めて思いました。
それに加えてわかりやすい言葉を使い、文章を組み立てる力も必要です。
人に1教えるには10知っていなければない、という言葉に共感しました。



■ 私は中学生の時から数学が苦手だったので、この課題がでたときは正直やりたくなかったです。しかし、この課題をすすめていくうちに標準偏差などを数式で習った時よりも、なぜこういう計算をするのかといったことが理解できていった。それと同時になぜ今まで式を覚えるだけで理由まで知ろうとしなかったのかと思った。今回の課題だけにかかわらず、「なぜ」が分かれば自然と興味もそそられるし嫌いなものが好きになれるチャンスだと思うので「なぜ」と思うことをこれからも意識して心がけていこうと思う


■  [柳瀬先生の挑発的な問いでの主張に関しては] 直感的には誤りであることが分かるけれど、それを言語化して説明しようとすると、本質を理解しなくてはいけないから、答えに窮する

 本質理解の助けとなるのが、図表やイラスト、例えである。教師は学習者のストレスをできるだけ減らさなければならないし、言語説明だけの単調な授業を避けるためにも、こうしたものを積極的に使って説明を行わなければならないと思う。

 「わからないこと」、そして「悔しいこと」は(人によっては)学習において原動力となる。学ぶときに大事なのは、「自暴自棄にならないこと」だ。これが今回の授業で一番強く感じたことだ。

 僕は、「数学的なもの」へのアレルギーがとても強くて、たぶん解消するにはとても時間がかかるだろうし、少なくとも今のところは、解消したいとは思わない。数学の面白さや有用性をほとんど体感したことがないし、それでいて(試験以外では)困ったことがないからだ。でもいずれ数学の知識がないために困るときや、恥をかくときがくるかもしれない。

 僕にとって数学は、疑いなく「逃げたいもの」「見たくないもの」だ。これから先、僕たちは、英語から逃げようとする生徒に何度も出会うだろう。そんなときにどうやって彼らを英語という教科に向き合わせたらいいのだろうか。教師の勉学に対する姿勢は、生徒の勉学に対する姿勢にも影響を与えるのではないか。



■ 高校時代に覚えた事項ですが、今回予習をする際にきれいさっぱり記憶から抜け落ちていてとても驚きました。
やはりきちんとした理解を伴わない暗記は全く役に立たないのだなあと痛感しました。



■ 高校時代、数学で勉強し、どれも聞いたことがあったはずだが、ただ意味もわからず公式だけを覚えていたと実感させられた。(というより意味が分かっていなかったから公式すら全く覚えられなかった。)

今回、自分でしっかり考えてみたり、先生や友達が示す具体例などを聞いて前よりは理解できたつもりだ。しかし、こうやって文章に起こしてみると、上手に説明することができない。しかし、自分で文章に書き起こしている過程で、自分が何を理解できていないのかを把握することができ、それを自分で調べたり考えたりすることで理解をより深められた。非常にいい勉強になったと思う。何事も、人にきちんと教えられるくらい理解できて初めてきちんと理解できたと言えるのだと感じた。



■ 以前はよく使っていた言葉であったが、今では疎遠となっていた。しかも分散や標準偏差を求める公式はわかっていたものの、それがどういった意味なのかなんて考えてもいなかった。 

答えがでたらそれでいい。公式さえ覚えていりゃあ数学はそれなりにできてしまう。しかしそんなのではつまんない。英語でもそうだ。テストでいい点をとるために文法や構文を覚えるだけではつまんない。なぜこんな公式になるのか、どうしてこんな構文がつくれるのか。そんなことを考えてみると楽しく学べそうだ



■ この課題をやってよかったと思います。高校生の時なんて分散も標準偏差も求め方しか覚えずそれがなんなのかを知らずに過ごしていました。実際、数学の問題でも「分散を求めよ」「標準偏差を求めよ」というそのまんまの問題しか出されたことがないので、細かい所それらがなんであるのかなど気に留める機会すら有りませんでした。しかし今回自分なりに調べて、昔、機械的に暗記したものに意味を与えることができ、なるほどこういうものだったのかあとしみじみ思うことができました。高校生の頃のぼくに伝えに行きたいと思いました



■ [翻訳や例や喩えを使った説明をするうちに] だんだんと口調が軽くなってしまって、素の自分に戻っていた
「自分の中で3回理解しないと人には教えられない。だから人に教えようとしたらどんどん身につくようになる。」
中学の理科の先生の口癖だ。確かにそうだなと改めて感じさせられた。わかったつもりが伝えられない。伝えたつもりが伝わっていない。
教えることの難しさを改めて痛感した。悔しいと思う。
悔しい。もっと人に説明できるようになりたい
うざったいくらいに説明する人になりたい。
もう「説明おじさん」なんて呼ばれるくらいに、人に教えるのが上手い人になりたい。



■ どうやって分かりやすく説明しようかなと考えるのはすごく楽しかったです。しかし、しんどさ、これで理解してもらえるかという不安も同時に感じました。万人に分かってもらえる説明は無い、ということを聞いたことがあります。しかし、教師は勉強を分かりやすく教えてなんぼのものだとだと僕は思います。完璧な説明を相手にしてはイタチごっこのようになってしまうのでしょう。でも、イタチとの距離を少しでも縮める、つまり、少しでもベストに近い説明をずっと追求し続けることが教師にとってとても肝要ではないかという気がします。



■ これまでの課題の中で最も難しく感じました。数学は得意科目であったため分散や標準偏差という言葉を見た時、ぱっとそれを求める公式が頭に浮かびました。しかし、実際にそれらの値はどのような意味を持っているのか、何のために求めるのかといったことを考えるとその答えは全く思いつきませんでした。今まで機械のように分散=公式、標準偏差=公式といったように特に意味を理解せず無理やり頭に叩き込んで、テストでは何とか点数が取れるようにしていたのだなと思いました。確かにこれでセンター試験やその他の入試で問題を解くことはできていましたが、知識を自分のものにはできていなかったのだと痛感しました。今まで自分がやっていたことが何も意味のないただの作業になっていたのだなと実感しました

また、自分の言葉で分かりやすく相手に伝えるということの難しさを改めて実感しました。頭のなかでは何となく理解していてもそれを自分なりに表現し相手に伝わるようにすることがとても難しかったですし、今回の課題が十分相手に伝わっているかと言ったらそうではないと自分でも思います。教師がいくら自分で理解していてもそれを生徒にわかってもらえるよう説明出来なければ何の意味もありません。これからはこのような自分の言葉で分かりやすく相手に伝える練習も必要だと痛感しました。



■ 問題を解くために平均や分散などの公式を覚えるのは簡単。ただ、今回みたいにこれらの単語を簡単にわかりやすく翻訳することは想像の上を行く難しさだった。小学生に「円周率って何?」ってバイト先で聞かれて「んんんん…」となった感覚と近い気がした。解を求めるのは式を丸覚えすればいい。けどその式の意味を、簡単に説明できることとは全く別次元のものだと再認識。何かの定義を伝えるというのはこんなにも言葉が出てこないかと。逆にこれができる人はそのものの本質を理解できているからだと思う。よく「人に教えることができて理解が深まる」というけど、今回思ったのは、「理解が深いからこそ教えることができる」んじゃないか。英語の文法だって、自分は今までの積み重ねでわかるかもしれない。でも理解が浅いと、教える時に「こんな感じや」としか言えない。説明できるようになるまで理解を深める。いままで自分が問題を解けるくらいに理解ができていれば特に問題がなかった。これから教員になるのに、その程度の理解では何も伝えることができないなと思った



追記(2016/01/20)

本件に関する感想が本日も若干ありましたので、下に掲載します。


■ 個人的に、受験のときに統計とかの分野は苦手だった。そのせいもあって典型的な文系になった。受験勉強のときには全く覚えられなかった偏差値や標準偏差の求めかたが、今回の課題を通してできてしまった。あのときはやらされていた感が強かったのと、問題集を解くだけだったのでいつになっても覚えることができなかった。何回もやっていたのになぜか受験が終わるまで結局解けなかった。なのにいまになって1日でできるようになった。不思議な感覚。受験勉強とは違う、学びってこのことなのかなぁと思った。なんとなく、さっぱりしたような、スカッとしたような、楽しいような気持ちだった。


■ 今回授業を通して、学びについて思い直すことがありました。高校生の時、どうしてこの式になるのか、どうしてこれで値が求まるのか、考えようとすることはほとんどありませんでした。今回少しだけではありますが、式の意味することを理解して、自分から数学をやり直そうとまではいかないものの、楽しいなとは思いました。表面上の理解、暗記だけではつまらないというのは当たり前だなと思います。教壇に立つ時には、生徒にいかにして楽しく学んでもらうか、これは教育に携わっていく限り、永遠の課題になるかと思います


■ 今まで授業中に取り扱ったり、問題として解いたことはあったものの、初めて課題として自分の力だけで偏差値を求めました。これから使う機会が増えるだろうなと感じたと同時に、使おうとしなければまた使い方を忘れてしまうんだろうなと感じました
高校時代のような単に問題を解くためだけのものではなく、自分のために活用できるよう、理解を深めていきたいと思いました。




2016年1月8日金曜日

オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念



前の記事(オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement))で、オープンダイアローグでは「愛」 (love) が重要概念として使われていることに言及しました。この「愛」という用語は、以下にもありますように恋愛的 (romantic) なものでも性愛的 (erotic) なものでもないのですが、やはり強い表現なので不必要な誤解を招きかねません(そういった誤解を避けるため、翻訳としては「友愛」や「情緒的な絆」などを使用することも考えられますが、私はとりあえず「愛」と訳しています)。

以下の論文では、「愛」という用語が非常に重要な箇所で使われています(最後の引用は、論文の最終段落です)。この概念を自分なりにきちんと理解するため、また翻訳をしてみました。

自分の翻訳と齋藤先生の翻訳 と比べてみると、後者のこなれた日本語にさすがと思わされますが、翻訳は私にとって理解・学習の手段ですので、拙い訳しかできなかったとしても、それはそれで意義があったと自分では思っています。

ともあれ、人間が関係する事象についての研究でも「愛」といった概念をきちんと考えるべきではないかという問題提起も含めて、興味のある方は以下をお読みください。明日の小学校英語教育シンポジウムでも、こういった問題提起を誤解されないように注意しながらできればと思っています。






Seikkula J and Trimble D. (2005)
Healing elements of therapeutic conversation: dialogue as an embodiment of love
Family Process, 44(4):461-75.







Observing and reflecting on his experience participating in scores of network meetings, the first author began to recognize an emotional process that, when it emerged in a treatment meeting, signaled a shift out of monologic into dialogic discourse and predicted that the meeting would be helpful and productive. Participants' language and bodily gestures would begin to express strong emotions that, in the everyday language used in meetings, could best be described as an experience of love. As in the meeting with Ingrid and her social network, this was not romantic, but rather another kind of loving feeling found in families -- absorbing mutual feelings of affection, empathy, concern, nurturance, safety, security, and deep emotional connection. Once the feelings became widely shared throughout the meeting, the experience of relational healing became palpable.  (p. 469)

この論文の第一著者であるSeikkulaは、当事者同士の集まりに何十回と参加した経験をもっていますが、その経験を観察し振り返るにつれ、ある情動的な作用に気がつき始めました。その情動的作用が集まりの中で生じると、当事者の語り方が独り語りから対話へと変化してゆきます。そしてその時点で、その集まりが当事者を力づける前向きなものになることが予測できます。参加者のことばと身ぶりが強い情動を表現するようになります。その情動表現は、集まりの中使われている日常的なことばで言うなら、愛の経験と呼ぶのがもっとも適切でしょう。イングリッドと彼女とつながりをもつ当事者の集まりの場合でもそうでしたが、この愛は恋愛とは別種の、家族の中で見られる愛の感情です。つまり、優しさ、同感、思いやり、育み、安心感、心強さ、そして深い情動的なつながりを、お互いが感じて、それを全身で受け入れることです。この感情が、語り合いを通じて広く共有されると、人とかかわることで癒されるという経験を実感できるようになります。




LOVE AS A MARKER OF MOMENTS OF HEALING

The process of healing and change in Open Dialogue meetings is subtle, embedded in the familiar language of network members as they talk about getting through their lives together. We have learned that by supporting dialogue in the conversation, encouraging free expression of emotion, and facilitating the emergence of new joint language in the community formed for the treatment, we can witness networks discovering what they need to get through extremely difficult and distressing situations and go on. Certain experiences have come to mark for us turning points in the healing process. They include strong collective feelings of sharing and belonging together; emerging expressions of trust; embodied expressions of emotion; feelings of relief of tension experienced as physical relaxation; and, perhaps surprisingly, ourselves becoming involved in strong emotions and evidencing love. Some others might like to call it a deep trust or some other more neutral term. For us, shifting the focus in a network meeting from an intervention to generating dialogue, we also take a step from applying some specific therapeutic method toward more basic human values.
Maturana (1978) wrote, “the only transcendence of our individual loneliness we can experience arises through the consensual reality that we create with others, that is, through love” (pp. 62-63). The feelings of love that emerge in us during a network meeting are neither romantic nor erotic. They are our own embodied responses to participation in a shared world of meaning cocreated with people who trust each other and ourselves to be transparent, comprehensive beings with each other. Tschudi and Reichelt (2004), whose use of network conferencing parallels Open Dialogue meetings in many ways, invoke Buber's (1923/1976)“I-Thou” relationship, a wholehearted encounter in which one engages with the other with all of oneself. Our highly focused attunement to the words and feelings of network members resonates with the most fundamental of human relationships, a relationship that developmental psychologists now recognize to be truly reciprocal and dialogical from birth. As we become fully absorbed in the profound exchanges of mutual attunement in a network meeting, we access the feelings that hold us together as relational beings and that make us truly human.  (p. 473)



愛が癒やしの瞬間を示す印となる

オープンダイアローグの集まりでの癒やしと変化の作用はさりげないもので、当事者が共に人生を共有することについて語り合う時のことば遣いの中に見え隠れしています。私たちは当事者に、会話では対話をすること、情動を自由に表現すること、互いに助け合い相補って語り合うことを勧めます。すると当事者は、現在の極度に困難で苦痛な状況を切り抜けるために何が必要であるかを発見し始め、なんとか前に進んでゆきます。この癒やしの作用の中には、ある種類の経験があり、ますがそれが転換点を示す印となっていることが明らかになってきました。その経験は次のようなものです -- 共有感と連帯感の強い感情を集団で経験すること。信頼感が形となって現れること。情動を身体で表現すること。身体がほぐれるのと同じように、緊張がほぐれることを感じること。そして驚くべきことに、療法家である私たちも強い情動に巻き込まれ、愛を感じること -- です。この経験に対して、「深い信頼感」などのもっと中立的な用語を使うことを好む方々もいらっしゃるでしょう。しかし当事者の集まりにおいて、大切なのは介入であるという考え方から、大切なのは対話の創出なのだという考えへと変わっていった私たちは、特定の療法の実施という考え方から退き、もっと基本的な人間的価値へと一歩近づいていったわけです。

Maturana (1978) は、「私たち個々人の孤立感を乗り越えることができる唯一の経験は、私たちが共に創り出して感じる実在感を通じての経験、すなわち愛の経験である」 (pp. 62-63) と述べています。当事者の集まりの中で私たちの中に現れてくる愛の感情は、恋愛的なものでも性愛的なものでもありません。共に信頼しあう人々と療法家自身が、お互いに正直にまるごとの人間であろうとする中で共に創造する意味が共有される世界が現れてきます。その世界に参加すると、私たちの身体は反応します。その身体反応こそが愛の感情なのです。Tschudi and Reichelt (2004) での当事者の集まりは、多くの点でオープンダイアローグと共通していますが、そこで思い起こされるのはBuber (ブーバー)(1923/1976)の「私-あなた」(我-汝)の関係です。この関係で、人は他者と心のすべてを込めて出会い、その他者と自分のすべてをかけて関わります。私たちはできるだけ当事者のことばと感情に共鳴しようとしてきましたが、この共鳴は、人間関係の中でもっとも基礎的な関係と重なり合うものです。それは誕生以来の関係ですが、現代の発達心理学者は、その関係こそが本当に互恵的で対話的な関係だと考えています。私たち療法家は、当事者の集まりでの相互共鳴の深いやり取りを全身で受け入れます。そのことによって私たち療法家は、関係的存在としての私たちをつなげ、私たちを本当の人間にしてくれる感情にたどりつくことができるのです。





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2016年1月5日火曜日

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)



先日、ある優れた実践家(英語教師)のワークショップ(集中講義)を3日連続で受けるというかけがえのない経験をしました。そこで感じたのは、その実践においては、教師と学習者(児童・生徒・学生)の情動 (emotion) のあり方が、非常に重視されているということです。

そこで思い出したのが、オープンダイアローグにおける "(powerful) mutual emotional attunement"という概念です。斎藤先生の翻訳では「互いの感情の強い同調」(149ページ)、「相互的かつ協力な感情の同調」(157ページ)、「互いに感情を同調させ合う」(171ページ)となっていますが、私としては「豊かで相互的な情動共鳴」と訳してみました(注)。






「豊かで相互的な情動共鳴」、短く切り詰めて表現するなら「情動共鳴」は、Healing Elements of Therapeutic Conversation: Dialogue as an Embodiment of Loveの論文では3回登場しますが、どれも重要な箇所(少なくともとても印象的な箇所)での登場となっています。




Seikkula J and Trimble D. (2005)
Healing elements of therapeutic conversation: dialogue as an embodiment of love
Family Process, 44(4):461-75.





そこでこの「情動共鳴」 (emotional attunment) を実践理解のための重要概念とするために、ここではその用語が出ている箇所を私なりに翻訳してみることにします。ただ、以前の記事でも書きましたが、読みやすく信頼できる訳をお求めの方は、齋藤先生の本を参照してください(私の訳はかなりの意訳になっています)。

私としては1/9の小学校英語教育シンポジウムでもこの概念について言及するので、その準備も兼ねてこの翻訳を通じて概念理解を試みた次第です。(翻訳は、精読のための、唯一とは言わないものの、最善の方法の一つだと最近ますます思うようになりました。もっともこれは、山岡洋一先生が昔からおっしゃっていたことですが・・・)





それでは3箇所の翻訳です。



*****



(1)

Abstract
From our Bakhtinian perspective, understanding requires an active process of talking and listening. Dialogue is a precondition for positive change in any form of therapy. Using the perspectives of dialogism and neurobiological development, we analyze the basic elements of dialogue, seeking to understand why dialogue becomes a healing experience in a network meeting. From the perspective of therapist as dialogical partner, we examine actions that support dialogue in conversation, shared emotional experience, creation of community, and creation of new shared language. We describe how feelings of love, manifesting powerful mutual emotional attunement in the conversation, signal moments of therapeutic change. (p. 461)

要約
私たちが依拠するバフチン的視点からすれば、理解するためには、語り合い聴き合うという能動的な過程が必要です。望ましい変化をもたらすには、いかなる療法においても対話が前提条件となります。この論文では対話主義と神経生物学的発達の視点から、対話の基本的要素について分析を進めて当事者の集まりにおいてなぜ対話が癒やしの経験となるのかを理解することを試みます。療法家を対話の相手とみなす視点からは、会話の中の対話、情動的経験の共有、共同体の創出、新たな言語の共有を促進する行為について検討します。愛の感情は、会話における豊かで相互的な情動共鳴が現れる時に感じられるものですが、その愛の感情が感じられることが、いかに望ましい変化が起こる瞬間と重なっているかについても記述します。




(2)

We use our theoretical lenses to examine the activities that appear to be factors in healing: creation of new, shared language from multivoiced conversation, shared emotional experience, and creation of community, all of which, we believe, are supported by powerful mutual emotional attunement, an experience that most people would recognize as feelings of love. (p. 464)

私たちは理論的な観点を用いて、癒やしの要因になっていると思われる活動を検討します。それらは、多くの声が共存する会話から新たに共有できる言語を創出すること、情動的な経験を共有すること、共同体を創出することの三つです。私たちの見解では、これら三つを支えているのは、豊かで相互的な情動共鳴です。この共鳴こそは、たいていの人が愛の感情と呼んでいるものです。





(3)

Trevarthen's (1979a) careful observations of parents and infants demonstrate that the original human experience of dialogue emerges in the first few weeks of life, as parent and child engage in an exquisite dance of mutual emotional attunement by means of facial expression, hand gestures, and tones of vocalization. This is truly a dialogue; the child's actions influence the emotional states of the adult, and the adult, by engaging, stimulating, and soothing, influences the emotional states of the child. (p. 470)

Trevarthen (1979a) は親と乳児を丁寧に観察し、最初の人間的な対話の経験が、生まれてわずか数週間で生じることを明らかにしました。親と乳児は、顔の表情や手振りや声色を使って相互的情動共鳴という絶妙なダンスを踊っています。これはまさに対話です。乳児の行為が親の情動の状態に影響を与える一方で、親は、情動的共鳴をしたり、あやしたり、なだめたりして、乳児の情動の状態に影響を与えます。




*****



ちなみに上で使われる"love"(愛)という表現があまりに強烈で、抵抗を感じる人もいらっしゃるかもしれません(私も最初はそうでした)。しかし人間の実践を考える際には、照れたり斜に構えたりせず、この概念について考えるべきとも思えてきました。(せめて「友愛」と訳そうかとも考えましたが、敢えて直訳的に「愛」と訳しました)。

そもそも"love"はこの論文のタイトル(下記)にも使われているのですから、著者はこの概念を重視しているのは明らかでしょう。安っぽい言い方に迎合することなく、この概念についても丁寧に考えてゆくべきかと思います。



Healing Elements of Therapeutic Conversation:
Dialogue as an Embodiment of Love

療法的会話で癒やしをもたらす要素:
愛の身体化としての対話




(注)

"Attunement"を「同調」でなく「共鳴」と訳したのは、二人の人間がいくら気持ちを寄り添わせても、二人の気持ちがまったく同じになることはないと考えたからです。

もちろん「同調」にも「(3)外部から来る振動に共振するように,装置の固有振動数あるいは周波数を調節すること。特に,テレビ・ラジオで目的の周波数に合わせること」(三省堂 大辞林)といった「共振」「共鳴」とほぼ同じ意味もありますから、「同調」でも「共鳴」でもどちらでもいいのかもしれませんが、「共鳴」と訳しておくと、"mutual"を省いた"emotional attunement"でも「情動共鳴」となり、"mutual"の含意を表現できるので便利と考えました。

また、「共鳴」と「共振」では、人間が気持ちを寄り添わせた時に使う表現はどちらだろうと考えて「共鳴」としました。

"Emotional"を「感情」ではなく「情動」と訳したのは、神経科学のダマシオの用語法にしたがったからです。ダマシオによれば、"emotion"(情動)とは身体レベルで生じている基底的なものです。情動の一部を私たちは意識しますが、それが"feeling"(感情)と呼ばれるものです。

とはいえ、日常語では、情動も感情も同義語で使われることが多く、感情の方がより日常的な表現となっていますから、"emotion"を「感情」と訳すのは、むしろわかりやすい翻訳といえるかもしれません。しかし私としてはダマシオの区別を尊重したため「情動」と訳すことにしました。

ちなみに"emotion"(情動)と"feeling"感情を合わせて総称する場合、ダマシオは"affect"という表現を使っています。私はそれを「情感」と訳していますが、これは日常ではほとんど使わない語なので、私はしばしばこの意味を「気持ち」という日常語で表現しています。上でも"emotional attunement"を説明する際に「気持ちを寄り添わせる」という表現をしばしば使いましたが、それはこの理由からです。

"Powerful"を「豊か」と訳したのは、こういった気持ちの寄り添わせに対して、「強い」という語を使うと、異なる人間の一体感を強調しすぎてしまうように思えたからです。「同調」という訳語を使わない問題意識と同じものですが、大げさに言うと、アレントによる人間の複数性からするなら、人間の同一性や一体感をあまり強調するべきではないと言えるかもしれません。




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2016年1月4日月曜日

1/9 (土) 小学校英語教育シンポジウム(広島大学)での投影スライドと印刷配布資料



シンポジウム「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」(1/9 土 広島大学 -- 詳細はブログの下部を参照)でのスライドができましたので、ここで公開しておきます。









以下は印刷配布資料のコピーです(ダウンロードをご希望の方はここをクリック





「語り合う力」で創る小学校英語教育



柳瀬陽介(広島大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/


1 忘れてはならない事実
1.1 約2万校にいる約400万人の児童と約25万人の教師への試み
1.2 教育基本法の理念に基づく試み


2 前提とすべき五つの考え方
2.1 人間の複数性 (←大規模な企て)
2.2 世界の複合性 (←大規模な企て)
2.3 統整的原理としての目的 (←教育基本法)
2.4 加速化・複合化・多様化としてのグローバリゼーション (←英語)
2.5 複合的言語観 (←英語)


3 現在の政策の危険な傾向
3.1等質化としてのグローバリゼーション観
3.2 外国語教育における単一言語主義
3.3 「エビデンス至上主義」


4 大津提言をどう受け止めるか
4.1 複合的言語観と多様化の観点からすれば
4.2 複数性と複合性と目的の観点から


5 授業と授業研究での「語り合う力」
5.1 世界に誇れる小学校の授業と授業研究
5.2 アレントの「語り合う力」
5.3 オープンダイアローグに学ぶ


主要参考文献
ハンナ・アーレント著、森一郎訳 (2015) 『活動的生』みすず書房
斎藤環 著・訳 (2015) 『オープンダイアローグとは何か』 医学書院
柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』 岩波書店






 ***** シンポジウムの詳細 *****



 タイトル:シンポジウム「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」

日時: 2016年1月9日(土)13:00~16:30

場所:広島大学大学院教育学研究科 (東広島市鏡山1-1-1 広島大学東広島キャンパス)     K棟102教室

問題提起: 「小学校での言語教育を考える―英語教育導入の流れの中で―」
大津由紀雄氏(明海大学外国語学部教授・慶應義塾大学名誉教授)

シンポジウム: 「小学校英語教育の未来:現状と今後のあるべき姿を考える」    
柳瀬陽介(広島大学大学院教育学研究科教授)    
朝倉 淳(広島大学大学院教育学研究科教授・広島大学附属東雲小学校長)    
本岡 寛氏(東広島市立東西条小学校教諭)    

指定討論者:大津由紀雄氏    
司会:難波博孝氏(広島大学大学院教育学研究科教授)

定員:150人
参加費:無料
参加申し込み: http://www.hiroshima-u.ac.jp/schedule/show/id/15697 からお申し込みください。