2016年8月18日木曜日

8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド



獨協大学で開催される第42回全国英語教育学会埼玉研究大会で個人口頭発表(8月20日(土)10:00-10;30 第25室(519))をさせていただく「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライドをここに掲載します。なお、この要旨は当日に配布される予稿集の原稿を一部修正したものであることを予めお断りしておきます。



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要旨


英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて

柳瀬陽介(広島大学)



キーワード:二次観察,複合性,自己参照性



1 序論:認識論的考察の必要性

日本の英語教育界ではリフレクションや質的研究が少しずつ市民権を認められつつあるものの、英語教育実践研究(=実践者の判断や意思決定を支援することを目的とする研究)にも客観性や再現性が当然のごとく求められている。そういった中、メタ分析などは今後の研究の進むべき方向としてほぼ無批判的に推奨されるものの、そもそも客観性や再現性とは何なのか、また、それらを求めることは何を意味するのかについての根源的な認識論的考察がない。本発表は、哲学的概念(特にアレントやルーマンらが使用する概念)の分析を通じて、客観性と再現性の概念、およびそれらを英語教育実践支援研究に求めることの意味について解明することを目的とする。こういった解明は、今後の研究が進むべき方向性を明らかにし、限られた研究資源の有効活用を目指せるという意義を有する。


2 第一概念分析:客観性について

 日常語として使用される「客観的」という表現には「(1) 主観または主体を離れて独立に存在するさま、(2) 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」(『大辞泉』)といった定義が与えられているが、これら二つの定義はそれぞれ「一元的客観性」と「多元的客観性」として説明できる。
2.1 一元的客観性:人間あるいは私といった主観性とは対極の認識として措定されるのが、超越的客観性と一元的客観性である。

2.1.1 超越的客観性: 西洋近代における客観性は、神の視点という宗教的な理念を、観察・実験といった実証に数学で理念化された無限を適用することにより獲得されるはずという理念として措定された(フッサール)。無限適用により「今・ここ」の私を超越した客観性を獲得する科学知の所有者は、情動や記憶(歴史)を欠いた “No-body”となる。だが、科学知も少なくとも人間の営みであるという制約を有さざるを得ない以上、こういった無-身体的な超越的客観性は、現実的概念とは言えない。

2.1.2数直線的客観性: 宗教的伝統に基づく超越的客観性に代わって現代に流布しているのは、資本主義社会という近代的性質を反映した数直線的客観性であろう。資本主義社会を支える基礎媒体である貨幣は、あらゆる商品の質を捨象し、すべての商品を貨幣量(価格)という一本の数直線上に配置する。あらゆる企業の活動は、貨幣量により黒字/赤字という二値的コードに還元できるため、貨幣量という数値は資本主義社会の客観的指標としてあまねく使用されているが、その考え方は教育界にも伝播し、教育の成果は数値(学力テストの得点)で客観的に測定されるべしという数直線的客観性が、時代の思潮となっていることは文科省の公式文書などからもうかがえる。一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されている。

2.2 多元的客観性: 超越的客観性や一元的客観性は(理念的・概念的に)厳密ではあるものの、現実世界で私たちが求める客観性としては狭すぎる。アレントやルーマンらが使用する客観性に関する概念は、社会構成主義に基づき、私たちが社会的に(=複数の視点と観点が共存する状況で)とらえる客観性を表現している。

2.2.1 現実: アレントのいう現実 (Wirklichkeit) とは、言語によりさまざまな視点と観点を取りうる人間が共存せざるしている複数性 (Pluralität, plularity) において私たちが認めるものである。私たちが「同じ」と認める対象が、さまざまに異なるように立ち現れるということが、私たちの共存と語り合いによって明らかになる時に、私たちは「現実」あるいは「現実性」 (Aktualität, actuality) ひいては「実在性」 (Realität, reality)を認めると彼女は説く。私たちが日常語で「それが現実ってもんでしょう」などと述べる時の「現実」はこのような認識であろう。

2.2.2 二次観察: 同じ対象の異なる立ち現われについて私たちが語り合う時、私たちはしばしば二次観察 (Beobachtung zweiter Ordnung, second-order observation) を行う。二次観察とはルーマンが使用する概念であり、ある観察(一次観察)が、何 (was, what) を観察したかはさておき、それをいかに (wie, how) 観察したかを観察する。二次観察は特権的でも超越的でもないが、一次観察の盲点を指摘しうるという利点をもつ。ある二次観察がさらに別の二次観察をされて・・・というのが、同じ対象について私たちが語りあうということであろう。私たちは日常において、一元的客観性よりも、語りあい(二次観察)において「客観的」な認識を得ていると考えられる(ルーマンにならって私たちは「客観的」という表現の使用を止めてもかまわないのだが・・・)。


3 第一考察: 英語教育界における客観性

 現代日本の英語教育では、本来はそれぞれの技能での能力の多様性を認めていたCEFRが、得点合算により技能間の能力差を捨象する各種資格試験得点の共通尺度として使われたり、各種資格試験がそれぞれの特徴(異なる質)ではなく得点換算表などで数直線的に表現できることが強調されたりするなど、一元的客観性が強くなり権力化しているように思われる。


4 第二概念分析: 再現性

4.1 単一要因の操作による再現:英語教育研究では、未だに単一要因の操作による結果の違いを求める比較対照実験が「主流」 (mainstream) とされている。だが、無作為抽出や二重盲検法を実施することは現実的に困難あるいは無理である。メタ分析にも技術的批判が加えられているが、そもそも実践は、複数の要因にさまざまな順番で働きかける試行錯誤による改善からなることから考えると、単一要因の操作により同じ結果の再現を求めるという根本的考え方自体が非現実的であるように思われる。

4.2 複合性の中での自己参照的な行為:私たちは過去の自分を参照しながら自分に可能な限りのことをできるにすぎず (自己参照性, Selbstreferenz,  self-reference)、現実世界の予測ができないという複合性 (Komplexität, complexity) の中では、事象の単独の制作者としてではなく、各種の相互作用の中で結果を知り得ないままに行為している (handeln, act) にすぎない。単一要因の斉一的な操作ではなく、行為と語りあいを重ねながらよい結果を求めているのが現実世界の私たちであろう。


5 第二考察: 英語教育界における再現性

 現在主流の英語教育研究が想定しているのは、どんな文脈でも同じ方法を適用してよい結果を出そうとする執行者であり、文脈に応じてさまざまなやり方を使い分けよい結果を出す現実世界の実践者ではない。あるいは、学習者などの当事者と語りあう必要を特に認めない業務遂行者であり、当事者との関わりこそが大切だとする実践者ではない。


6 結論: 研究者が求めるべき権力

 日本の英語教育が現在主流としている研究は、教師や学習者という当事者にとっての現実を直視しない認識論に基づいている。そういった研究は「真理の体制」(フーコー)を形成し、さまざまな当事者を斉一的に管理しようとする為政者が欲する権力に奉仕することを意味するのではないだろうか。そのような研究は、さまざまな人々が共存する社会の公教育において、当事者の民主主義的に正当な活力(=権力)を高めることに役立ちがたい。もし英語教育実践支援研究が、当事者を管理や支配するためではなく、当事者が成長するためになされるものだとしたら、英語教育実践支援研究は、一元的客観性ではなく二次観察によってさまざまな様相を示す現実を基盤とし、単一要因の操作による再現ではなく複合性の中での自己参照的な行為についての理解を深め、より多くの実践者を当事者として研究の営みに誘う研究を志向すべきである。英語教育研究の認識論は根本的に刷新されなければならない。



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当日投影スライドのダウンロードURL







2016年8月13日土曜日

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)

この度(といっても発刊は少し前のことなのですが)、特定非営利活動法人「英語運用能力評価協会(ELPA)」(http://npo-elpa.org/)の広報誌 ELPA Vision No.02に「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という短い文章を掲載させていただきました。


ELPA Vision No.02


事務局の許可を得て、上の広報誌のうち、私の文章だけを以下に転載させていただきます。

私の文章は以下の通りですが、この広報誌には私のも含めると5つのテストに関する小論が掲載されています。

それに加えて、英語運用能力評価協会(ELPA)事務局が作成した「高大接続改革における英語4技能テスト(外部テスト)の行方と課題」は昨今の動向をうまくまとめてありますし、文部科学省が発表した一連の文書のURLリストは非常に便利です(文科省のサイトから文書を的確に探すのは必ずしも容易な作業ではありませんからね)。また、ELPA編集部による「英語の4技能を測定する外部試験の比較表」も便利なものです。

ぜひ上からダウンロードして、御覧ください。

それでは拙論です。



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「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」

柳瀬陽介(広島大学)


紙幅が限られているので、抽象的な表現となってしまうことを最初にお詫びしておく。今後の英語教育界は以下のような論理で動いていくように私には思える。

(1) テストで四技能を評価することにより英語コミュニケーション能力がほぼ十全に評価できるようになる。

(2) そういった四技能テストは複数ありうるが、それらの得点は定式化された相互換算表により標準化・一元化された数値やレベルで表現できる。

(3) 標準化・一元化された数値やレベルこそが、英語教育の価値を客観的(あるいは科学的に)表す尺度となる。

(4) 学習者個人が受験校合格や奨学金など、学習者を育てる組織(学校や学級)が予算・人員や賞賛などの権力を獲得できるかどうかは、その尺度での達成度によって決定されるべきであり、その他の客観的・科学的でない方法で決定されるべきではない。


しかしこれらの論理には疑義が加えられる。
(1)’ 四技能テストが評価できるのは、私たちが想定する英語コミュニケーション能力の一部にすぎない。なぜなら、リーディングとリスニングが一つの正解しか認めない多肢選択方式で問われるなら、現実世界でしばしば争点になる含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができなくなるからであり、スピーキングやライティングのテストで評価できるのも「よくある話」を適当に産出できるかのみだからだ。自分に忠実でありながら、特定の時空で特定の相手に対して何をどのように言うかという現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストでのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。

(2)’ 複合的な社会の変化に対応するためには、人々が均一化するのではなく、個々人が個性を発揮しながら社会全体として多様性を活かすことが必要である。評価もできるだけ多元的であり多様であるべきだ。しかし、標準化・一元化の推進はそれとは反対方向にある。標準化・一元化の動向は学習者の学びのためというより学習者と教師の管理のためではないか。

(3)’ ここで「客観的」とされるのは、過去のデータから推測される点数の相互換算関係だけだ。そもそも「客観的」な得点は、学習者が自らの心身で感じる喜びという価値 (worth=真価) を示したものではない。それどころか、自分の学びの価値を、もっぱら外から定められる「客観的」な得点だけに見出そうとするなら、それは学びにおいて主体性を喪失する疎外へとつながりかねない。世評への隷属ともいえるだろう。

(4)’ いかなるテストにも高得点獲得のための対策を行うことが可能であろうが、テストの権力性が高まれば高まるほど(high-stakesになればなるほど)テスト対策がはびこり、教育の営みが歪められる。


以上、観念的に聞こえたかもしれないが、これらの疑義はきわめて常識的な感覚であると筆者は考えている(紙幅があればもっと平易に説明したいのだが)。もしこれらの疑義にもかかわらず、(1) ~ (4) の論理がやたら推進されるとすれば、次の疑問はこれだ。「英語四技能テスト推進言説の背後にあるのは何か?そこには何らかの権力奪取・増強の狙いがないか?その陰で本来もつべき権力を奪われる者は誰か?」




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テスト推進のための文章を書く人ならいくらでもいるのに、私のようにテスト推進に対して批判的な --ある出版社いわく「癖の強い」w-- 人間の論考を敢えて掲載してくださったELPA様には感謝します。

これまた「癖の強い」人間の妄言と思ってくださって結構ですが、昨今の日本の英語教育界は、学界も出版界も「長いものには巻かれろ」、「流れには逆らうな」といった傾向にどんどんと流れているような気がします(もっとも下のような骨太の本の刊行もありますから、一概には言えませんが)。


 


研究や教育という公務に携わる人間としては、それぞれの頭で考えたことをお互いに率直に語り合い、批判すべき点は批判し、推進すべき点は推進するという是々非々の文化を大切にしたいと思います(やっぱり癖が強いなぁwww)。



関連記事
「リスト化・数値化の危険性」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/08/blog-post_31.html





2016年8月12日金曜日

研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える



『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)は、「心理学の再現可能性:我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」を特集し、『心理学評論』始まって以来の試みとして電子版をオープンアクセスにて公開しました。


『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)

特集「心理学の再現可能性:
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」




「今回取り上げたトピックが,心理学界全体にとってそれだけ重要な問題であるという証左だろう。多くの人々に読んでいただきたい」という編者の思いが「巻頭言」でも語られています。

奇しくも私は、全国英語教育学会埼玉大会で「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」という口頭発表を行います(8月20日(土)10:00-10:30 第25室)。ですからその準備も兼ねて、ここにこの『心理学評論』を私なりにまとめておきます。なお、この号はオープンアクセスなので、引用に関する著作権上の制限は少ないと判断し、以下では多くの引用をしていますことをお断りしておきます。



■ 心理学研究論文の再現可能性は40%?

まず、巻頭言で、友永雅己・三浦麻子・針生悦子(「心理学の再現可能性:我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(pp.1-2))(http://team1mile.com/sjpr59-1/preface/)は、過去の心理学の研究論文について追試を行ったところ、結果が統計的に再現されたものは追試実験全体のうちの 40% に満たないという衝撃的な論文が2015年にScience 誌に掲載された(Open Science Collaboration, 2015)(http://science.sciencemag.org/content/349/6251/aac4716)ことを述べ、再現可能性(reproducibility)について考えることの重要性を説いています。

ここでいう「再現可能性」の一般的理解は、科学研究の根幹をなす特徴のひとつであり、諸条件を人為的に統制・操作し従属変数を測定する際に、およそ同一の統制や操作がなされたとき一致した測定結果が得られる程度、といったものでしょう。(大久保街亜(「帰無仮説検定と再現可能性」(pp.57-67)(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/okubo.pdf)のp.57の記述より)

ですが、その再現可能性が思うほど高くないというのが、ここでの問題提起です。特集号では、研究の再現可能性を高めるための具体的提言もなされていますが、ここでの私のまとめは、「そもそも再現可能性を求めることが何を意味するか」といった関心からなされたものです。



■ PLACE: Proprietary,Local, Authoritarian, Commissioned, Expert workが科学の実態?

実は研究結果の再現性が高くないことは、心理学だけでなく、医学や生命科学でも問題になっています。この背景にある事情について、佐倉統(「科学的方法の多元性を擁護する」(pp.137-141))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/sakura.pdf)は、科学の駆動原理が"CUDOS"から"PLACE"へと変容してしまったことを指摘しています。(p.138)

"CUDOS"とは科学社会学者の Merton (1973)が提唱した概念で、科学者はCommunalism (知識の公共性),Universalism(普遍性), Disinterestedness (利害への無関心), Organized Skepticism (組織的懐疑主義)に基づき研究活動を行っているというものです。しかし現在ではこれは理想的主義すぎて科学の実態をうまく表現できないとも考えられています。

そこで提唱されたのが物理学者で科学技術社会論者でもある Ziman(2000)による"PLACE"概念です。すなわち、科学者を実際に突き動かしているのは、Proprietary (知識の独占), Local (局所性), Authoritarian(権威主義), Commissioned (権力からの委託),Expert work (専門家主義)であるという考え方です。これは産学の融合が高くなったことが原因で、だからこそ産学融合が著しい医学や生命科学で、再現性が低い研究が量産されているという共通理解が成立していると佐倉はまとめています。(p. 138)

心理学は、医学や生命科学ほどには金銭的な利益に直結していませんが、それでも社会的関心は高く、何より "publish or perish"の圧力はますます強くなっていますから、再現性が低い研究でもとにかく出版するという傾向が芽生え始めているのかもしれません。(英語教育研究においても、昨今は一部の研究がそれなりに"PLACE"によって進められているようにも思えますが、それについてはここではこれ以上述べません)。



■ 決して容易ではない研究結果の再現

しかし、もちろんほとんどすべての心理学者は良心的であり、故意や悪意で再現性のない研究を公刊しているわけではありません。そもそも心理学で研究の再現可能性を確保することは、容易なことではありません。心理学の中でも、動物を対象とするため侵襲的研究手法も使えるため再現可能性を担保しやすいとも思われるシステム神経科学でも、「動物の扱い方や飼育状況,訓練履歴,報酬として与える飼料や飲料,電極の刺入速度,安定させる時間,活動電位を単離する方法など,多くのパラメータや方法のわずかな違いが存在し,それら全てを論文に書くことはできないことが多い」と鮫島和行は述べています。(「システム神経科学における再現可能性」 (pp.39-45))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/samejima.pdf)のpp.40-41)



■ 観察研究やフィールド研究を行う心理学者の見解

また、現在の心理学では主流ではないかもしれませんが、自然場面での人間を対象とする観察研究では、「直接的な追試を行える可能性はかなり低く,仮に無理をしてオリジナル研究の観察条件に近づけようとすると,自然観察がモットーとする生態学的な妥当性(Bronfenbrenner, 1979/1996)が損なわれ,研究自体が成り立たなくなる可能性すらある」と小島康生は述べています。(「人間の観察研究における再現可能性の問題」(pp.108-113))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/kojima.pdf)のp.111)。

さらに小島は、「現在の再現可能性の議論は,一部の,しかも実験系の研究テーマでの議論に大きく偏っており,心理学全体を包括するようなものには進展していない」(p.112)ことを指摘し、そもそもエスノグラフィーや参与観察では「他者による追試という発想自体が存在しない」し、そういった考え方は「本特集号で多くの執筆者が述べていることからすると、180 度発想の違う考え方だが、心理学の世界ではそういった視点もあることをぜひとも頭に留めておいていただきたい。」(p.112)と訴えています。

また、松田一希(「フィールド研究の再現性とは何か?」(pp.114-117))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/matsuda.pdf)は、少なくとも論文冒頭では、「野生霊長類を対象に研究をしている私には,「研究結果の再現性」とは,ピンと来ない言葉である。それほど問題ととらえる機会がないからだ。」(p.114)と述懐しています。



■ 実践支援研究で再現可能性を高めるために

私は英語教育(言語教育)で、実践支援研究を行うには、研究の認識論はどうあるべきかという関心をもっています。

関連記事:比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

その関心からすると、この特集号で網羅された心理学研究の種類の中で、英語教育などでの実践支援研究の形にもっとも近いと思われるのは、平井啓(「心理学研究におけるリサーチデザインの理想」(pp.118-122))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/hirai.pdf)が報告している研究でしょう。平井は、厚生労働省科学研究費のプロジェクトとして,認知行動療法の一つである問題解決療法のプログラムを日本人のがん患者向けにアレンジしたものを開発し,その有効性を前後比較研究により検証する研究に責任研究者として関わった経験をもっています。(p.118) そのプログラムでは「プロトコール」と呼ばれる研究計画書が決定的に大切です。

平井は次のように報告しています。

そのプロトコールでは,「どんな人を対象に,どんな介入を行い,何と比較し,どのようなアウトカムをどのくらい改善するのか」,すなわち Patients, Exposure,Comparison, & Outcomes: PECO (福原, 2008)と呼ばれる研究テーマ(リサーチ・クエスチョン)を構造化するための定式に従って,それらを事前に設定しなければならなかった。加えて介入で使用する教材や介入者の訓練も含めてプログラムの開発を行いながら,「班会議」と呼ばれる 3 ヶ月~6 ヶ月毎に開催されるリサーチミーティングでプレゼンテーションとディスカッションを行い,研究を実施するために必要なことについて,PECOを満たすように決めていった。ここで求められていたことは,プロトコールが完成する段階で研究の知的作業のうち 8 割が終わっているということであり,あらゆる可能性を考えることが研究班の研究者たちから容赦なく求められた。最終的には,無作為化比較試験をするのか,単純な前後比較試験をするのかという狭い意味での研究デザイン,さらにデザインにもとづくサンプルサイズを計算し,データ取得後の統計解析方法,研究組織と役割分担,データの管理方法を含む倫理的配慮の内容についても詳細に記載することが求められた。(pp.118-119)

この報告を受けて、「英語教育界でもこういった研究を行うべきだ」と考える人もいるかもしれません。しかし、ここからは完全な私見ですが、直接生命に関わる医学研究と比べると、英語教育研究といった研究は、研究予算も研究者数も圧倒的に乏しいものです。私の感覚では、上のようなプロトコールを定めた実践支援研究を英語教育界で行うことを期待するのはあまりにも非現実的です。

もちろん科研などで高額予算を獲得したら、こういった研究も不可能ではないでしょうが、私は上述の「比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察」でも述べたように、そういった研究方法で得られる知見は少なく、投入された研究予算と人的資源にみあったものにはならないと思っています。

それよりも私は、現場の教員を当事者として巻き込み、日本の英語教育界の実態にかなった研究の方法を確立する方がはるかに現実的であり、効果的だと考えています。とはいえ、この話をし始めると長くなるので、ここでは『心理学評論』のまとめに戻ります。



■ 再現可能性を「目的」にしてはいけない

私自身がこの特集号から学んだことは、以下に引用する二つの見解で総括することができます。

一つ目の見解は渡邊芳之(「心理学のデータと再現可能性」(pp.98-107)(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/watanabe.pdf)によって示されています。心理学が対象とする現象の複合性を考えると、いたずらに再現可能性を高めることを研究の目的にしてしまうと、そもそも心理学としての妥当性を失ってしまうのではないかというものです。少し長くなりますが、引用します。


自分たちが研究対象にしている現象について,どのくらいの再現性が求められ,かつ可能であるのかについての理論的・方法論的な検討をさらに進めて,問題ごとに必要な再現可能性をあきらかにして,その実現を目指すことが求められるだろう。

その上で,再現可能性を「目的」にしないことが重要である。データや研究成果の再現性はしばしば「科学であること」の条件とされているために,再現性は高ければ高いほど望ましく,それによって心理学も科学の仲間入りができるというような考えが起きやすい。しかし,先にも述べたようにわれわれ心理学者が扱う現象には非常に多くの変数が関わっていて,そのわずかな変動によっても心理現象は大きく変動するし,そうした変数のうちかなりの部分は今後も潜在変数のままで残る。それだけでなく,対象とする現象自体の生起確率が低い可能性も常に残る。

必要な再現性の大きさは研究対象や研究の目的,方法によって異なるはずだし,低い再現性が検出されることのほうが現象を妥当に反映している可能性もある。データの再現可能性はあくまでもわれわれが研究対象とする現象を正しくとらえるために参考にできるさまざまな指標の一つに過ぎない。再現可能性のために他の重要なことを犠牲にする必要はなく,自分たちの研究や対象や研究目的に応じて,現象を正しくとらえるための他の基準とうまくバランスをとりながら,適切な再現性のレベルを決めて実現すればよい。(p.105)


■ 研究の多元性を大切に

佐倉(上掲)もこの渡邊の見解に同意しています。


渡邊(2016)が述べているように,比較的単純な系や,変数の制御が容易な系を対象として洗練されてきた手法(再現性確保もそのひとつ)を金科玉条のように唱えて最優先事項とすることは,場合によっては,本来その学問領域や研究者が共有していた問題群を置き去りにしてしまう可能性がある。動物行動学や文化人類学などのフィールドワークが,直接観察や質的研究法を採用してきたのは,定量性や再現性だけを強調することの不利益を認識していたからである(Dawkins, 2007;Flick, 1998/2009)。(p.140)

再現可能性を高めることだけが科学的方法でもないし,心理学において最重要な選択肢とも限らないはずである。科学的方法は,合理性を担保していさえすれば,多元であってよい。むしろ多元性を積極的に許容する方が,科学的に興味深い現象をすくい上げることができるであろうことは,上で述べたとおりである。(p.140)


もちろん、このように述べると、今度は「合理性とは何か?」という認識論的問題が出てきますが、それは実践者の共感的理解を得られる研究の実現のために試行錯誤する中で考えればいいわけです。私は、英語教育界も、もっと積極的に研究の多元性を認めるべきだと考えています。


これまで日本の英語教育研究は、心理学の古典的な(そしてこの特集号を読む限り、今でも主流の)実験研究を追いかけることが研究の進歩であると思い込んでいた節があります。人的資源が少ないところでそのような思い込みが強かったものですから、1990年代頃から心理学の中でも台頭してきた質的アプローチを研究する研究者も少なく、英語教育界の多くの研究者はそういった新しい研究のあり方を長い間排除してきました(「そんなのは研究ではない!」という(実は勉強不足からきている)を私も何度も何度も聞きました)。

昨今は英語教育界でも流石に質的研究なども認め始めましたが、研究者が先行分野の真似をすることで研究者としての優位性を保とうとすることからすれば、英語教育界でも今後ますます再現可能性・再現性を追求してゆくようになるでしょう(既にその兆しはあります)。

そういった方向で研究を推進している人を敵にまわすような言い方になりますが、私はそのような方向は、英語教育の研究と実践の実態を考えるととても非現実的で、ますます研究者と実践者の間の溝を深くすると思います。

英語教育界に与えられている課題の大きさと、英語教育界が有する限られた資源の両方を天秤にかけて考えると、私は先程も簡単に述べましたように、研究をますます象牙の塔にこもらせる方向ではなく、より多くの実践者を研究に誘う方向で、英語教育における研究のあり方を考え、新たな研究の実践を創造すべきだと考えます。

上に「敵にまわすような」と言いましたが、反面、私は英語教育界の若い世代の力と誠実さを信じてもいます。次の全国英語教育学会埼玉大会でも、衆知を合わせて英語教育を活性化できるような語り合いができればと願っています。








比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--





現在主流の、無作為化試験(無作為抽出による比較実験)およびそれらに基づくメタ分析を批判的に考える上で、以下の論文は非常に重要だと思われますので、ここにその論文の一部を引用し、その箇所の趣旨を私なりに書きなおしてみます(翻訳ではありません。原文の趣旨を、理解しやすいように大幅に書き換えたまとめです)。この記事も、今後の研究を進めるための「お勉強ノート」です。

この論文には邦訳があり、私はその邦訳を非常に参考にさせていただきましたが、以下のまとめでは私なりの日本語表現を使っています。特に、医学界では当たり前の「trial/試験」といった表現も、私の分野である言語教育界ではほとんど使われていないので適宜言い換えています。


Jaakko Seikkula and Tom Erik Arnkil
Research and generalizing practice
pp. 167-186. (Chapter 9)
(2006) Karnac Books Ltd., London

ヤーコ・セイラック/トム・エーリク・アーンキル(著)
高木俊介/岡田愛(訳)
「さらなる研究と実践へ」
(2016) 日本評論社


まとめは、この論文を私なりに以下の流れに編集して行いました。

(1) 現状の問題点::無作為化試験(無作為抽出による比較実験)のメタ分析は、現場の実践の大切な部分を構造的に排除している 
(2) 現場の実践で必要とされている力
(3) なぜ研究が、現実の実践に基づいたものにならないのか
(4) これからあるべき実践支援研究の姿

以下、この論文からの引用に基づく箇所はインデントで示し、それらを私なりの説明(インデントなしの箇所)でつないでゆきます。

なおこの論文では無作為抽出が当たり前のものとして扱われていますが、英語教育界の「実験研究」では無作為抽出はほとんど行われていないことは周知の通りです。その点およびその他の多くの点で、英語教育界の「実験研究」を医学界の「試験」と同等視することはとてもできないことを、私は2010年に公刊した以下の論文で説明していますので、ご興味がある方はお読みください。


英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMNBMからの考察


また、この論文の著者(の少なくとも一人)が関わっているオープンダイアローグについてご存じなければ、とりあえず以下の記事をお読みください。


オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)

オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念

当事者研究とオープンダイアローグにおけるコミュニケーション (学生さんの感想)

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)


この論文の筆者は、医学の中でも、心理的・社会的な影響が強く生理学的・生物学的要因だけに事象を還元しがたい精神医学に従事し、その精神医学の療法の中でもとりわけ人間的な関与(対話)を重んずるオープンダイアローグといった方法で実績をあげていますから、精神医学などの分野で、以下に説明されるような研究ばかりで「エビデンス」が産出され、それによって画一的なガイドラインが策定されることに対して根本的な疑義を表明しています。しかし医学の中には、精神医学ほど複合性(=考慮すべき要因があまりにもたくさんあるので唯一の正解が定められない状況)が高くない分野もあるでしょうから、そういった分野の専門家は彼らの疑義にあまり意義を見出さないかもしれません。

ですが精神医学同様に複合的で、医学研究とは比較できないほどに曖昧である英語教育研究(注)で、現在のような形の比較実験やそれに基づくメタ分析が「望ましい研究の姿」として無批判的に称揚されていることに対して、私はこの論文の著者同様に(あるいは彼ら以上に)危惧を覚えています。

注:上記の「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMNBMからの考察」論文の表2:数的処理に関する医学と英語教育研究の比較、表3:実験計画に関する医学と英語教育研究の比較を御覧ください。 


それではこの論文を私なりにまとめてみます。



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(1) 現状の問題点:無作為化試験(無作為抽出による比較実験)のメタ分析は、現場の実践の大切な部分を構造的に排除している

現在は、教育界においても何かと「エビデンス」が求められています。根拠なしの一方的な思い込みによる主張を封じる意味でそれは歓迎されるべき流れですが、現在はその「エビデンス」が狭い意味に限定され、(無作為抽出による)比較実験の結果だけが「エビデンス」だとされがちです(少なくとも、それ以外の研究成果は「エビデンス」としては劣るとみなされています)。

現実世界では、実にさまざまな要因が複雑な影響関係で絡み合いながら事態が発生してゆきます。ですが、(無作為抽出による)比較実験では要因を少数(しばしば一つ)に絞り込んで、その他の要因(およびそれらの相互作用)は「ノイズ」として考慮の外において事態の発生をみてゆきます。そうやって得られた「エビデンス」をもとに、実践者はこのように行動すべきというガイドラインが作られてゆきます。

実践の妥当性に関する科学的エビデンスが求められている。その結果、効果の違いを説明できるようにするため、多次元的な人間の活動が、実験する一要因の有無だけという観点に縮減されて定義される。それらの無作為化試験(無作為抽出による比較実験)の結果がメタ分析を経て、実践のガイドラインが作成されている。
Scientific knowledge has increased dramatically in psychosocial fields and is increasingly being evaluated. Scientific evidence for the validity of practices is required. Because the effective factors in human activities are multidimensional, research designs need to be defined and reduced, in order to be able to make visible explanatory differences. Within medicine and social work, specific libraries of evidence-based research -- The Cochrane Library for psychiatry and the Campbell Library for social work -- have been founded for such important quality-control purposes. These libraries collect reports of studies that are based on experiments and randomized trials. Through meta-analyses of such reports, guidelines on valid practice are constructed. (p.169)

ですが、そのように要因を少数(一つ)に絞った形での実験での「エビデンス」は出せないものの、精神医学の現場で確実に成果を出しているオープンダイアローグといった「対話的実践」 (dialogical practice) を推進している著者としては、この傾向に危惧を覚えざるを得ません。ガイドラインが権威をもち権力化すると、実践が画一化し、それから外れる実践が認められにくい風潮が生まれるからです。

実際、上の英文で示されていたThe Cochrane Libraryでは無作為実験研究しか受け付けず、オープンダイアローグといった、単一(少数)要因の一方的介入ではない、多方面の多くの要因に関して専門家と当事者が対話的に(=相互的・応答的に)相互作用を重ねながら事態の改善を図るアプローチは研究論文として認められていません。経験的には、精神医学では多面的・多次元的に考え相互作用的にアプローチしてゆくべきという知見が得られている一方で、研究では単一要因的・一方的な介入をするしかアプローチしか認めないのは大きな問題だとこの論文の著者は考えています。

精神医学のほとんどすべての学術誌が、単一要因での因果関係を立証する無作為化実験論文しか認めない。このことによって、そのような療法ばかりが研究されることになる。
Almost all the research reports published in journals of psychiatry are based on experimental settings. There are increasing demands to also publish evidence of cause-effect relations in social work. Constructing an experimental design in psychiatry requires therapy models that allow the separating-out of single effective factors. This, in turn, leads to the publication of only those studies where the problem to be treated is defined unequivocally as, for example, a biological condition. The Cochrane Library accepts only reports of randomized experimental studies, although the spectrum of disciplines and research methods has widened enormously. (p.170)

明確に立証しやすい単一要因の因果関係だけに焦点を絞る比較実験研究において特徴的なことの一つは、普遍的な因果関係を求めようとするあまり、それぞれの実践現場で重要な個別的要因 (local factors) が研究から構造的に排除するということです。実践者的感覚からすれば、その場その場の状況を深く理解することが実践を成功させるために重要なことですが、現在主流の研究は、そういった場に即した要因の理解を考察の外においてしまいます。

普遍的な因果関係を求めると、場に即した要因が無視される。
When the aim is to find universal causal relations, local factors are not of interest. (p.170)

比較実験やメタ分析により実践のガイドラインが定められても、そのガイドラインが示しているのは、場に即した諸要因が捨象された実験室的な仮想現実にすぎません。ガイドラインが言っていることは、「もしあなたの現場が、あなた自身も含めた固有な事情が一切なくなった一種の「真空状態」であるならば、あなたはこの方法をやれば高い確率で成功するはずだ」ということです。あるいは非常にくだけた言い方をするなら「フツーなら、これでうまくいくはずなんだけどね」ということです(しかしこういった「フツー」が時に非常に抑圧的な意味合いをもつことは、おわかりいただけるでしょうか)。

比較実験やメタ分析によるガイドラインは、現実現場の複合性を無視しています。もし「現場の知恵」というものが、一般要因とさまざまな個別要因の相互作用が生み出している複合性への対応を主に意味するものでしたら、ガイドラインは現場の知恵のほとんどを扱いえていません。

メタ分析などで実験研究は比較できても、現実に行われている実践は比較できない。現実の実践ははるかに複合的であるからだ。メタ分析に基づくガイドラインが示しているのは、実験室的な仮想現実であり、現実の実践ではない。
The problem here is that studies cam be compared, but not the actual practices, which are far more complex. When research outcomes are summarized into treatment recommendations, they are, after all, not guides of practices, but of virtual realities created in the research settings. (p.171)

ですから、比較実験やメタ分析は現場の実践にまったく無縁ではないものの、「実践者がこのように行動しなくてはならない」と規範的に規定するだけの説明力は実はもっていないといえるでしょう。

それでは現場の実践ではどのような力が必要なのでしょうか。次節で少し考えることにしましょう。



(2) 現場の実践で必要とされている力

現場で新人や経験が浅い者は、それが比較実験やメタ分析に基づくものであるにせよないにせよ、一定の実践の形を推奨されます。しかし新人らに求められていることは、その推奨された実践を形の上だけで忠実に真似することではなく、その推奨に基いて現場で工夫をこらして自分なりにその現場に適した実践を創造することです。

推奨される実践をただ真似するのではなく、文脈に合わせて柔軟にその実践を変容させる場に即した力が必要である。
Enhancing local skill for variation and contextual flexibility is called for instead of mere attempts to implement good practices by duplicating them. (p.169)

自分なりにその現場に適した実践を創造しようとすると、実践者はその現場の当事者の反応から学び、さらには語り合うことが必要となってきます(ちなみに実践者も当事者の一人です)。現場に即した実践は、「専門家」によって一方的に実施されるものではありません。現場で有効な実践は、当事者がお互いの反応から学び合い、それに誠実に対応し、語り合うことから創り出されてゆきます。

しかし、ここで障害になってくるのが、上記の普遍的な因果関係を立証しようとする研究です。そういった研究のあり方だけが研究だと大学で叩きこまれ、現場でもそういった研究に基づくガイドラインの指示に従うことを命令され、さらには自らもそういった研究をするように求められると、実践者は、現場の状況や当事者と共に実践を創りだす「対話的実践」を忘れ、推奨される方法を一方的に実施する「独話的実践」ばかりに従事することになります。

専門家による当事者への介入研究により「独話的な実践」が推奨されると同時に、相互性・応答性・対話といった「対話的実践」がないがしろにされる。
Designs that study interventions by someone on someone are valued above all others, dismissing mutuality, responsiveness, and dialogue and thereby reinforcing monological practices. (p.167)

これでは研究により実践が歪められてしまいます。現代社会では研究のキャリアを有する者には一定の権力が与えられていますから、この状況では、権力が実践を損なうために使われることになってしまいます。ここは研究者が、大学・大学院で教えられた研究を無批判的に(拡大的に)再生産するだけではなく、実践に関する研究のあり方を真剣に考えなくてはなりません。

研究は、実際に行われている実践に基づくべきだ。
Research should correspond to living practice. (p.172)

それでは現実の現場実践に基づく研究とはどのようなものでしょうか。もちろん論文著者の答えは対話的実践です(この論文が収められている著書の原題は “Dialogical Meetings in Social Networksです。著者は当事者が社会的関係の中で対話を行うことによる事態改善が効果的であることをこの著書全体で訴えています)。

ですが、そういった研究を提唱しても、なぜ現状では研究が現実の実践に基づいたものになっていないかを分析し、その現状を少しでも改善しようとしないと、提唱は徒労に終わりかねません。ですから、次節では研究をめぐる現状について簡単に考察しましょう。



(3) なぜ研究が、現実の実践に基づいたものにならないのか

まずは学界の現状確認です。英語教育学界も含めて多くの学界では、未だに因果関係についての「強い説明」ばかりが求められています。相関関係の解明は、因果関係の解明よりも劣る「弱い説明」と考えられます。記述研究にいたってはさらに弱い説明しかできないさらに劣った研究だと未だに思われています。

現状では、「強い説明」(因果関係解明)が研究で好まれている。強い説明では、少数の説明項により多数の被説明項が説明される。相関関係解明はそれよりも「弱い説明」であるとされ、記述研究は「さらに弱い説明」とされ、学界では好まれていない。
He [=the French sociologist Bruno Latour (1988)] discusses so-called weak and strong explanations. In a strong explanation, a minimum amount of elements (explanans) provide the explanation of a maximum amount of elements (explananda). Correlations are weaker explanations than showing causal relations, and descriptions are even weaker.  (p.172)

確かに学界の傾向としてはそうでしょう。研究者は「強い説明」に憧れています。しかし、実践者の立場から考えてみましょう。実践者は実践を改善するために「強い説明」を必要としているでしょうか。「否」でしょう。

実践者は、わざわざ実践の複合性を、単一の要因に還元してしまうことはありません。もちろん、あまりにも多くの要因が絡んでいる時には少数の要因をとりあえず特定して、それらに優先的に働きかけますが、その際も、それらの要因には同時に働きかけ、それらの要因間の相互作用も重視します。また、実践者は時に、ある一つの要因だけをとりあえず変えてみることもしますが、それ以降その要因だけに実践上の関心を集中してその他の要因には一切手を付けないようなことはしません。実践者は決して、狭い意味の実験研究者のように、単一要因の有無だけに注目しその他の要因をノイズとして切り捨てることはしません。

ですから実践者にとってむしろありがたいのは、多くの要因間の相互関係を概観できる相関関係の解明かもしれません。また、現場の複合性がとても高い場合は、相関関係にまで抽象化できる以前の現状を克明に描いた記述をありがたがるかもしれません。

実践者は「強い説明」を必ずしも求めていません。「強い説明」を求めているのは、現場の固有の事情を知らなくても唱えることができる「強い説明」によって、実践者を遠くから動かそうとしている、あるいは管理(もしくは支配)しようとしている人です。

だが、もし実践者が被説明項の文脈の只中にいるのなら、弱い説明だけで十分役に立つ。文脈の中にいる実践者は、強い説明が前提としているように、複合性を少数の要因に還元してしまうことを必要としない。強い説明は、誰かが遠くから実践者を管理したがる時に必要となる。
If the practitioner or the team is in the very context of the explanations, then weaker explanations are sufficient, in that they do not help to reduce the complexity to a few facts. A strong explanation becomes necessary when someone wishes to act at a distance. (p.172)

実際、教育行政者や研究者から指示されるガイドラインに自分の実践を合わせることに苦痛を覚えている実践者も少なくありません。ガイドラインが指示する一つや二つの要因だけに着目して実践を行うと、現場の複合的な調和が乱れて、実践がうまくゆかなくなるからです。あるいは、ガイドラインどおりに実行しようとするとどうしても都合が悪い条件が、自分や生徒や学級・学校・地域などに存在するからです。

こうなると、実践のガイドラインは --教育行政者や研究者の自覚があるにせよないにせよ--、実践者を遠くから管理(あるいは支配)する道具として機能しているといえるかもしれません(この可能性の指摘に対して、こういった批判的考察をしたことがない教育行政者や研究者は感情的に猛反発するかもしれませんが)。

実践のガイドラインは、実践の文脈を遠くから管理するための手段である。ガイドラインは、異なった文脈でのさまざまな実践を、ガイドラインに合致させるように求めてくる。
Valid treatment or valid practice guidelines are a means to attempt to control contexts at a distance: practices in different contexts ought to change in accordance with the guidelines. (p.173)

もちろんある程度の管理はいかなる組織にも必要です。しかし、人間には支配欲があり、そうであるからこそ権力者を抑制する民主主義文化を「不断の努力によつて」普及させなければならないという人間社会の実態を考えると、実践ガイドラインは、なんらかの意味で「上」に立つ人間が「下」にいる実践者 --私も嫌いな表現ですが、この比喩表現が実相を示していることも多いと思いますので敢えて使っています-- を管理・支配する道具として機能しかねないことを忘れてはならないでしょう。私は教育界にも成熟した民主主義文化 --戦後の一部の左翼が曲解した歪んだゴリ押し・ゴネ得文化ではありません-- が必要だと思っています。当たり前のことですが。

ガイドラインでしばしば示される「独話的実践」つまり一方向の介入研究が、実は権力者が実践者を管理・支配するために使われかねないという権力性について私たちは自覚すべきでしょう。

一方向の介入研究は、上層部が一方向的に実践を統治することと親和性が高い
One-way intervention studies go hand in hand with top-down practice governance. (p.167)

もし教育行政者や研究者が(自覚の有無は別にして)現場の実践者を管理し支配することを志向しているのなら、彼ら・彼女らは研究を「普遍的」なものにして、それぞれの現場に即した固有の要因は排除するでしょう。それぞれの現場の要因を重視していたら、その現場から離れたところからの管理・支配が著しく困難になるからです。

逆に言いますと、もし教育行政者や研究者がまったくその意図がないままに「研究とはこういうものだろう」と思い込み、研究からそれぞれの現場に即した要因を排除していたら、彼ら・彼女らは、実践者が自ら民主主義的に実践を創造してゆくことを阻害していることになります。

遠くからの管理を推進する立場からすれば、場に応じた固有性が研究結果に影響を与えないような研究デザインで研究が遂行されなければならない。そういった研究デザインでは、研究で得られる知識が文脈から自由であればあるほど(つまり普遍的であればあるほど)、その知識はより転移可能であると考えられている。
According to the controlling-at-a-distance approach, research has to be carried out in settings where the local particularity cannot have an effect on the outcomes. The idea is that the more context-free -- that is, universal -- the knowledge is, the more transferable it is. (p.173)

こうなると研究は、ひょっとすると支配欲の強い権力者に利用されることもありうることを研究者は自覚するべきでしょう(考えてみれば「御用学者」といったことばがあることからも、これも当たり前のことですが)。

行政は学界の権威を利用できる。科学の威信を利用して、行政が推奨している実践は、一般的で普遍的に適用可能な説明にもとづいているものであるとし、現政権がその実践をイデオロギー的に好んでいるから推奨しているのではないとすることができる。
The administrative system borrows authority form the science system. Basing on meta-analyses of research reports, the steering system demonstrates with the prestige of science that this or that recommendation is not just an ideological preference of the prevailing government, but a general, universally applicable explanation of the valid means of having an effect on the phenomenon. (p.175)

以下の断言は言い過ぎなのかもしれません。しかし、この可能性について、私たちは真剣に考えるべきではないでしょうか。

普遍的な説明や実験室的状況に基づく研究が必要だという信念は、遠くから実践を管理したいという欲望からとりわけ生じる。
The need for universal explanations and experimental settings is necessitated especially by the wish to control treatment and other practices at a distance. (p.173)



(4) これからあるべき実践支援研究の姿

例えば物理学といった人間的な営みから遠い対象を調べる研究はさておき、人間の実践の営みを対象とする実践研究(私はしばしば「実践支援研究」という表現を使っています)は、あくまでも現場の現実の実践の特性 --例えば複合性や相互性や対話性など-- を踏まえた研究であるべきです。

現場の実践は、商品のように入手し、その商品(品物)を使うだけで成功に至るようなものではありません。ありとあらゆるものが商品化されつつあるようにも思える現在の資本主義社会でこのことは忘れてはなりません。

よい実践は、品物のように違う場所へ移送できるものではない。
Good practices are not like articles that can be transferred from one place to another. (p.174)

優れた実践者は、普遍的あるいは転移可能な方法をどこかで仕入れてきて、それをそのまま適用して実践を改善しようとはしません。優れた実践者は一般的な説明よりもむしろ自分が置かれた文脈の理解を求めます。

文脈の中で働きかけする時、私たちは理解をしようとするのであって、普遍的あるいは転移可能な説明を必要だとは思ったりしない。
If one acts in the contexts one tries to understand, one does not need explanations that are assumed to be universal or transferable as such. (p.173)

そして理解を求める中で、実践者は当事者の反応から学ぼうとします。当事者の反応に即した行為を行い、そこからさらにどのような反応が得られるかを見ようとします。さらには、人間はそもそもことばを使いうる存在なのですから、対話を重ねます。そうした対応関係から相互的に実践を創造しようとします。これが「対話的実践」です。

実践者は当事者を単なる測定対象と捉えてはいけません(そのように捉える研究者は少なくありませんが)。そのような認識に基づくと、相互性や対応性から生じる創造性、および私たちの対話性を構造的に排除してしまうからです。実践者は「独話的」な手段で当事者を一方的に変える存在ではなく、「対話的」な実践で、当事者と共に変容していく存在です(おそらくは当事者と共に実践者も変容しなければ、その場に即した実践は生まれないとさえ言えるでしょう)。

「対話的実践」では、相互性あるいは対応性が本質的に重要である。当事者は単に測定されるべき対象ではない。測定可能な変数の効果を特定する研究では、直線的な因果関係は解明できても、相互的な因果関係は解明できない。そのような研究に基づくガイドラインは、人々の対話的出会いをもたらす実践ではなく、「独話的」な実践を強化する。それは対象に対する一方的な介入であり、専門家がある方法でもって当事者を変えるのだが、専門家自身がその過程で変化することはない(もし変化したとしてもそれは取るに足らないことだとみなされる)。
Mutuality/reciprocity are essential in dialogical practices. Clients are not just objects targeted with measures. When settings are reduced to single out the effects of measurable variables, the research reveals lineal rather than reciprocal causations. Guidelines built on such research are prone to reinforce monological practices -- interventions on objects -- instead of dialogical encounters: someone does something to change others with the method x, but does not change her / himself in the process, or if it does, it is an unessential point to the research. (p.174)

もちろん実践者は知識を求める存在でもありますが、実践者として求めるべき知識とは文脈から引き離された知識ではありません。

知識を文脈から引き離して得ようとすると、文脈に基づいた研究よりも実効性の低い知識が生まれてしまう。
Striving for valid knowledge through purifying it from its contexts produces less valid knowledge than strongly contextualized research.  (p.177)

そのように文脈から離れた知識は、世間のさまざまな人々と丁寧にコミュニケーションをとろうとしない研究者や行政者、そして彼ら・彼女らから構成される制度によって生み出されます。制度と一体化した彼ら・彼女らは、世間のさまざまな人々を一括して表現し、その表現をもって自分たちは世間を正しく代弁していると思い込みます。

文脈から離れた研究では、「人々」は集合化されて扱われ、人々の願いや望みは、学界や行政などの制度によって代弁されている。コミュニケーションのあり方は制度によって定められてしまう。
The authors [Nowontny et al. (2002)] call science weakly contextualized if its communication patterns are determined largely by institutions. In other words, "people" are aggregated, and their wishes and desired are, in a sense, represented by institutions.  (p. 177)

そのようにさまざまな人々とコミュニケーションを取らないままに制度の中から人々を管理・支配しようとせずに、人々とのコミュニケーション、あるいはコミュニケーション以前の微かな信号から学ぼうとする中で生まれてくるのが文脈に基づいた研究です。

文脈から離れた研究とは対照的に、研究者が社会からのさまざまな信号を受け止めようとする機会を積極的につくる中で生まれてくるのが文脈に基づく研究である。
By contrast, strong contextualization occurs when researchers have the opportunity, and are willing, to respond to signals received from society.

さまざまな人々が絡む人間の営みに関する実践支援研究においては、研究者は当事者とのコミュニケーションから学び、そのコミュニケーションの中から研究を創出すべきでしょう。これがこれからの研究のあり方だと私は考えます。

しかし、学界の現状は、そういった対話的実践に基づく研究に対して理解が少ないことを忘れてはいけません。

現在は、エビデンスを出せない研究には予算が削られる傾向にあり、エビデンスとして認められるのは無作為抽出に基づく直線的な介入研究の結果だけである。
At present there is a move in the West to cut financing from approaches that cannot demonstrate evidence -- and what passes as evidence in meta-analyses is material from randomized linear intervention studies. (p.180)

必要なのは、「エビデンス」や「メタ分析」の推進がそもそも意図していた効果を得るために、それらの概念の狭隘な理解を避け、裏付けとしての「エビデンス」概念や多くの事例から学ぶため方法としての「メタ分析」概念を拡張することでしょう。その中でひょっとしたら「エビデンス」や「メタ分析」という用語は新たな意味を獲得するかもしれませんし、そもそも捨てられるかもしれません(ちょうど「真理」や「客観性」といった用語が、研究の認識論で大きく意味を変えたり姿を消したりしているように)。

そういった未来のことはさておき、以上のまとめを通じて、普遍的あるいは一般的な因果関係や転移可能性を求める比較実践研究やそれに基づくメタ分析だけが研究のあり方ではないこと、それどころかそれらの種類の研究にはそれなりの問題点があることがわかっていただけたでしょうか。

現実の複合性を大幅に縮減して一方向の因果関係だけしか見ようとしない統制実験研究だけが、科学的エビデンスや慎重なメタ分析を生み出せると思い込んではならない。
It is important not to equate the search for scientific evidence and careful meta-analyses only with control studies that drastically reduce the phenomena under study and see only one-way causations. (p.180)


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英語教育研究についても、英語教育という現場の事情をよく理解した上で、批判的に行われなければなりません。

しかし研究者という人種は、存外に頭が固く、これまでやってきたことを繰り返すだけの人が少なくなりません(私にもその傾向が多分にあるでしょうが)。

多くの税金を使いながら研究という公務につく人間としては、自らの研究の営みが、実践を歪めてしまうのではなく実践を支援する社会的に健全な権力となるように努力してゆかねばと思わされました。

これからもさまざまな人々と語り合い、さまざまな営みから学んで、現場実践の複合性と対話性を活かした実践(支援)研究の充実に努めたいと思います。

以上、お勉強ノートでした。おそまつ。