2017年2月25日土曜日

2016年度後期の「昼読」を終えて

以下の記事は「広大教英ブログ」にも掲載しています。


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2015年度後期から始めた自主的な読書活動「昼読」の活動ですが、今年も何とか終えました。

きわめて地味な活動ですし、私自身、仕事の忙しさからさぼってしまおうかと思うこともないわけではないのですが、まさに「継続は力なり」で、この活動がなければ読まなかった本(特に外国語の本)はたくさんあります。また、会の最後での対話から私自身もたくさん学ぶことができました。(ひょっとしたら「昼読」の最大の利点はこの対話かもしれません)。

4月からの来年度では、教英だけでなくもっと広範囲の学生さんに呼びかけて、いろんな講座からの参加者を募りたいと思います。

読書が個人や社会の中で果たす役割を考えると、ぜひとも継続したい活動です。

以下は、今期特に出席してくれた二人の学生さんの振り返りです。




写真は打ち上げの焼き鳥屋さんで撮影したものです





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 2016年度の「昼読」を終えて

学部4年(英語文化系コース) M

今年度も有志で行っているお昼休みの読書会、通称「昼読」に参加させていただきました。昨年度に同じコースの大学院生の方に誘っていただいて以来ですので、かれこれ一年以上の参加になります。今年度は基本的に週三回の開催でした。私自身この昼読への参加の中で多くの事を学ばせていただきました。

 短い時間ながらも、みんなで同じ場所に集まり読書をする。そして、お互いに自分が読んだものの内容や感想、意見をシェアする。このように書くと、単純な活動のように聞こえるかもしれません。しかし、こうした活動形態ゆえに、自分ひとりで読んでいるときよりも、緊張と弛緩のバランスが取れたように感じています。つまり、自分だけで読んでいるときはついつい惰性的になってしまうこともありますが、読んだ後に内容や感想をシェアするとなると、他の人に伝えようという意識が生じるため、読みながら頭の中で緩やかに内容をまとめていくというプロセスが生まれます。

こうした活動の中で、自分が読んでいた本の内容に対して賛成するような意見が出たり、一方で批判的な意見をいただいたりすることもありました。その際、ある程度自分の読みを客観視することができたため、その後の読みをさらに充実させることにつながりました。

 また、この一年間で昼読にご参加いただいた方々のことを思い出してみると、教英だけでなく様々な所属先から足を運んでいただきましたし(e.g. 教育学部の心理学専門、日本語教育専門、文学部の職員の方…etc.)、皆さんが読まれていた本の種類も多岐に渡っていました。

今でも皆さんが読まれていた本のことを思い浮かべることができますが、このように皆さんが読まれている本を知ったことは、皆さんの興味・関心のある分野を知ることが出来ただけでなく、私自身の興味の幅をさらに広げることにもつながりました。今後も幅広い視点で英語教育について考えていくうえで、この昼読のような経験が重要になると感じております。

 最後になりましたが、今年度の昼読にご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました。来年度も、ご機会があればぜひご参加いただきたいと思います。また、新たにご参加いただける方も大歓迎です。ご関心のある方は、お好きな本を片手に、お気軽にご参加ください。お待ちしております。
※以下は、今年度に私が読ませていただいた中で、とくに印象に残っている本の著者とタイトルです。来年度も、素晴らしい本との新たな出会いを求め、読書を続けていきたいと思います。


・J. K. Rowling, HARRY POTTER A L’ECOLE DES SORCIERS (『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語版)
・ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
・オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』
・ロラン・バルト『表徴の帝国』
・夏目漱石『こころ』 







「昼読について思うこと」

学部3年 (日本語教育系コース) O

昼読。今年度の後期から、ポスターを見てたまたま、でも勇気を出して参加してみて、いつの間にか常連になっていた。ここでは、失っていた読書習慣を取り戻せた、話の合う年齢を超えた友人のような知り合いができた、自分以外の知見を得ることができたなど、得たものはたくさんあったように思う。

しかし、昼読について思うこと、強い印象で一番はなにか、と問いかけられたとき、自分にとっての一番は、「出力すること」かなあ、と、参加を振り返って思う。英語で言えばアウトプット、こちらのほうが馴染みのある言葉だろうか。

昼読では、集まりの最後に、各自の読んだ本を紹介したり、感想を言ったり、それに関して別の人が反応したり、という習慣がある。実はこれ、自分にとっては結構ハードルが高かった。というのも、あまり人と本の内容で語り合ったことはなかったからだ。

読書、というのは非常に感受する割合が大きいものだった。書かれていることを読み、それがどんな意味なのか、自分にとってどういうことなのかを、やや感覚的に済ましていた。もちろん、今まで読んできた本の多くが小説だった、ということもあるかもしれないけれど。

ただ、昼読では、受信するだけでなく、送信もいる。読んだことをまとめる能力。まとめた上でどう思ったか、どう感じたか、どう考えたか。「じゃあ、これってどういうことなんだろう?」「どういう伝え方をすれば、この思いがわかってもらえるだろう?」。伝える際に、あんまりにもお粗末な伝え方では、自分にも、相手にも”理解してもらえなかった/できなかった”というしこりが残る気がする。それが嫌で、「考えながら」読んで、しかも「自分にとってどういう意味を持つかを」考えながら読んだ。いや、読むようになった。

伝える視点、この新しい読書視点を身につけられたという変化が、自分の「昼読について思うこと」である。




関連記事

昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/4.html
前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html

2017年2月24日金曜日

「勉強しよう」 --学部1年生の述懐--

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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以下は、「英語教師のコンピュータ入門」を受けてくれた HY君 (学部1年生)が書いた文章です(フォントや赤字部分なども含めてすべて原文です)。

願わくばこの「勉強しよう」という気持ちが継続しますように。いや、経験を重ねるにつれ、ますます深く、広く、そして味わい深くになりますように。


折しも明日は学部入試です。

受験生の皆さん、実力を出し切ってください。

でも勝負は時の運ですから、「失意泰然、得意淡然」で結果を受け止めてください。

どんな結果でも「学びたい!」という純粋な思いがあれば、あなたの学習は成功しているのですから。






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 私は全16回の授業を通して多くのこと学び、感じ、考えた。今まで自分になかった未知のものに数多く触れた。そのように新しい発見ばかりであったこの授業の最終課題であるポートフォリオを書く上で、毎週書き留めていた授業の振り返りを見返すなどして、自分の様々な変化に気づいた。そのような変化をいくつかピックアップして、以下に書き並べてみる。





◎授業を通して学んだこと



・文章の書き方が変化した。

 -毎回の授業の振り返りの文末をみると一目瞭然。“思います。思いました。”が“思う。思った。”に変化。それにより、幼く思えた文章が少し大人びたものになった。それに加え、ただ感想を書き連ねるだけだったのが、感じたことを元に自分なりにその問題について考え、自分なりの見解も文章の中に含めるようになった。また、いかにわかりやすい文章を書くか、読み手への配慮を優先するようになった



・コンピュータの便利さ、危険性を認識した。

 −小学生の頃から先進技術が発達し、世の中がとても便利になったと当たり前のように習ってきた。実際私も毎日スマートフォンやパソコンを利用し、技術革新の恩恵にあずかってきた。授業では、WordExcelはもちろんのこと、単語をクリックするだけで意味が表示されるWeb辞書なども扱われ、今まで知らなかった便利さを実感した。それと同時に、コンピュータによって人の職がなくなっていく未来が十分にあり得ることを知り、コンピュータが発達しすぎることに恐怖さえ感じた。そのような現状をよく理解した上で、コンピュータをうまく活用していくたいと思う。






・以前より、“教育”という分野に興味を持つようになった。

 -振り返ってみれば、これまではただ「教師になりたい」と思うばかりで、行動が伴っていなかったように思う。広大教育学部に入学したことで安心して、自発的に“教育”という分野に触れてこなかったことは認めざるを得ない。一度、教育という分野に触れてみると、その難しさや複雑さなどをとても感じ、口ばかりであった自分を恥ずかしく思った。これから学年が上がるにつれて教育に深く関わる授業も増えていくと思うので、その時に少しでも混乱を陥る可能性を減らすためにも、今のうちに本を読んだりインターネットを活用したりして、予備知識を増やしておこうと思う。



・建前での発言ではなく、正直な気持ちを表現することも重要であると学んだ。

 -授業の中で他の人と考えを共有する機会が数多くあった。その中で感じたことの一つとして、建前だけでの発言では話し合いが円滑に進まないということだ。みんなとの話し合いの中で建前での立派な論述を披露しても、必然と中身のない、共感されないものにしかならない。一方で、本当の気持ちに基づいた正直な意見であれば、共感される部分も多く、話し合いが盛り上がることが実感できた

  それと同時に、コミュニケーション能力を高めておくことも重要であると感じた。身近な人との話し合いの中でも、間が生まれたり円滑に進まなかったりしたのに、他の人との話し合いの中では尚更そうなるだろうと思う。そうならないために、知らない人と関わることでコミュニケーション能力を高めていこうと思う。



・教養への考え方が変化した。

 -正直なところ、今までの教養に対する私の考えは、教養は年を食えば自然と増えるものでそれほど重要なものではないというものだった。しかしこの授業を通して、自分なりの考えを持つには考えの根底となる教養が必要であると感じ、自分の中での教養の重要性が上がった。先生が授業の中で何度もおっしゃっていたように、本を読むことの重要性を幾度もなく感じた。本を読むことが得意ではないため、今まで小説以外の本をあまり読んでこなかった。しかし自分なりの考えを持つために、これからは少しずつ本を読んで豊かな教養を身につけようと思う






・英語の可能性、重要さを再確認できた。

 -今まで、これから先は英語が使えることが重要だと親や先生、大人たちに何度も言われてきて十分に分かっていたはずだった。しかしこの授業を通して、英語が使えることでインターネット上で学べる量が大幅に増加することがわかった。“英語を学ぶのではなく、英語で学ぶ。”これをキーセンテンスに、これから多くのことを学ぶために、確実な英語力を身に付けたいと思う



TedGraded ReadersWebページなど、英語を学べるのは教科書や参考書だけではないことを知った。

 −中学校や高校では先生が選んだ指定の教科書や単語帳、参考書などで英語を勉強していたが、この授業を通してTedGraded Readersなどの良質な教材を自分で選択して利用できることを知った。これからもTedGraded ReadersWebページなどを継続して活用していこうと思う





 上に書いたものはこの授業で学んだことのほんの一部でしかない。全16回の授業を受ける中で、新しいことを学び知識が増えた。それと同時に、先生の話を聞く中で、先生の知識の豊富さや考えの深さを感じ、自分の教養のなさを痛感した。授業における活動を通して、様々な考えを持ったが、それらをまとめ上げると、

勉強しよう。”

この一言に尽きる。大学生活で様々なことを経験しつつも、日々学ぶことを忘れずにこれから過ごしていこうと思う。







2017年2月23日木曜日

「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」に関する学生さんの振り返り








 

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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以下は「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で、「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」について講義した際の学生さんの振り返りの一部です。講義の中では「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針についても扱いました。

学生さんは学生さんなりに批判的に考えています。文科省の肝いりで「思考力・判断力・表現力」を本当に育てようとするのなら、少なくともこういった学生さんの思考・判断・表現を抑圧してはいけないと思わされます。







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■ 英語の授業一つとっても,最近は観察の観点が「いかに英語を使っているか」という部分にあると感じています。授業コメントの多くは,先生は日本語を20分も話していた,とか,生徒が英語を10分しか使っていなかった,オールイングリッシュでやっていたのが素晴らしい,などです。しかし,今回の授業で分かったことは,英語使用とは何かということです。

今の英語授業での英語使用というものは,パターンプラクティスや新出単語の繰り返し練習なども含めているように思えます。しかし,ドリル,パターンプラクティスは言語産出や言語再生ではあっても言語使用ではありません。そのような練習段階が必要でないといっているわけではなく,それがあたかも言語使用のように認識されていることに疑問を覚えます。

実習でも,専ら使用言語は英語であることが求められました。少ない英語の時間のなかで,生徒が少しでも英語に触れる機会を多くとるという,クラッシェンのインプット仮説に基づいているようでした。実際に英語で授業をしてみて感じたことは,教科書を開くのも,誰かを指名するのも,本時の目標を伝えるのも,プリントを解かせるのも,答えを聞くのも,ほとんどがクラスルームイングリッシュといういわばすでに定型化している英語を繰り返しているだけで,なんだか生徒とコミュニケーションを取っている感じがありませんでした。

これは実習だからということもありますが,本時案・細案で,生徒の反応まで事前に予測して決定して,その通りに進めます。そこで行われるコミュニケーションといえば,生徒の答えが自分の求めているものと合っているかそれとも違っているかという反応くらいです。コミュニケーション能力を養うはずの授業なのに,本末転倒な感じがします。

 訳読式の授業は今やoutdatedであり,批判の的にされていますが,今回の授業を通して,必ずしも訳読式の授業が悪いというわけではないと感じました。翻訳というものが,英単語に当てはまる日本語をただパズルのように並べ替えて当てはめるだけのものであると捉えられているのが問題であると感じました。そのように捉えられているから,多くの英語学習者が,「日本語で言いたいことが英語で表現できない」という悩みを持っているのではないでしょうか。それ故日本語の母語干渉が顕著に現れるのではないかと感じました。

ここでも「語り合い」というものが重要だとペアで話しました。ここでの語り合いは,異言語間の語り合いです。英語を分析的に理解することはしばしばありますが,日本語の分析的理解が極端に欠けていると感じました。翻訳とはまさに言語間の語り合いだと認識しました。最後のポートフォリオを通して,この授業をしっかりとまとめたいです。



■ --英語教師って日本語文法の知識なしにできるの?

素朴に放たれた疑問であるが故に、余計にこの言葉が心に突き刺さる。英語が話せるようになろうと思って、あるいは英語教師になりたいと思って「よし、日本語文法を勉強しよう!」と思い立つ人がどれだけいるだろうか。それだけ、英語と日本語は切り離されたものとして考えられているのである。

英語を習得するために英文法を学ぶのは至って普通だ。そんなこと当たり前すぎて何を言っているんだと言われてしまうかもしれない。ただ、私たち日本人が英語を知ろうとする時、その身が日本語の染み付いた身体であるということもまた、当たり前すぎて忘れられてしまうような事実である。英語を勉強する時だけ自分自身をリセットできるわけもない。英語モードになっているようで、実際のところ強化された習慣からは逃れられないのである。

第二言語習得において、母語の転移がしばしば学習者を悩ませる障害となるということはよく聞かれるが、負の転移を正の転移にしてしまえばいいのではないだろうかということだ。一つ目の言語に関する経験と知識を、二つ目の言語習得に生かすのである。しかし、その一つ目の言語というのは気付いたら話せてたという、まるで形ないもののようで、無意識のうちに身に付いた何かを分析的に捉えることは難しい。そこで、一つ目の言語と二つ目の言語とを比較できるだけの知識やら能力やらが必要になってくるのである。「ことばへの気づき」を重視した教育の出番だ。

少し話が逸れるようだが、私は初等教育教員養成コースにいて、三年次から国語ゼミに配属された。研究室分けがなされ、今お世話になっている担当教員はこの授業でも一度さらっと名前の出た先生である。その先生は、卒論は何をしてもいいとおっしゃった。ただし蝶の標本だけはやめてくれと。…というのは先生のご冗談だが、要はどんなことも全ては「ことば」につながっているということである。

ここで言う「ことば」の捉え方こそが、英語を学ぶあるいは教える際にも同じようになされるべきものなのではないかと思った。英語と日本語を比べるといっても、決して一対一の等号で両者を結びつけようというのではないから。英文和訳をしようということではないから。ここでは、同じ「ことば」として違う「言葉」を見ようとする。

英語だ英語だと言って全てを英語で塗り替えようとするのは、少なくともここ日本の、学校教育において歓迎されるものなのだろうか。授業も試験も英語で行おうという考えは、少々安直すぎやしないかという気がしてくる。いずれにせよ、目の前の子どもたち、目に映る現実世界から目を逸らしてはいけない。そしてちゃんと、対話をしよう。



■ 授業の中で、ある心理学者の方が、英語教師は日本語文法を知らなくても免許を取得できるということに驚かれたというお話があったが、言われる通りおかしなことだと言われて気づいた。英語の元々の文法を知らず、英語で授業をしたら解決するという風潮は少し幼稚に感じる。外国語を学ぶ上で母語干渉があるのは当たり前で、その母語干渉が悪影響を及ぼさないためには、自然に文法の違い、表現の違いに気づくのは難しいところがあるので(何年かかるかわからない)、やはり日本語文法とのわかりやすい比較が生徒には必要だろう。

 また、日本の社会の中で英語をきちんと使わないといけないのは5%と言われており、小学校の「外国語活動」を英語習得路線で考えるのではなく、英語という外国語 (および可能ならば他の外国語) を通じて対照言語学的に言語に対する理解と洞察を深める路線で考えることは、より真剣に検討されるべきであろう、という話があった。私もこの説には賛成だ。

しかし英語をよく知らず、英語が絶対に必要だと思っている有識者ばかりが話し合うから、その路線は英語習得に向けて進んでおり、実際に教育実習や授業見学で拝見したのは、英語塾に通っている子どもたちが楽しい授業で、それ以外の子はついていけず嫌いになっている状況だった。(たったの3校しか見ていません)この話を聞いて私が思ったのは、英語の対象言語学的理解を深めるには、授業の中で子どもたちにカルチャーショックをいくつも与え、日本語との違いを染み込ませていくことが有効なのではないかと思う。他の言語を理解するときにその国の文化についても知っていくが、その際に何かカルチャーショックのようなものを経験すれば、その違いを身をもって感じることができるのはないだろうか。

 今日の授業では、英語第一主義のその後がどうなるのかをたくさん想像したように思う。先生がブログで書かれていたアフリカの例もそうですし、広大にいるアジア人留学生に話を聞いても、私立の学校だけで1年生から行われており、それ以外の学校は母国語で授業を行っているという話を聞いた。その格差をなくすのが1番だと思うが、簡単そうに見えて簡単ではないのだと感じた。日本で良い実践例を作り上げるしかないのだと思う。その中で役立てるよう、この授業を活かしていきたい。


■ 個人的に英文和訳に関して興味があるということもあり、今回の授業では翻訳についての話が非常に興味深かったです。私自身、受験期に論述形式のテストで何度も英文和訳問題に遭遇しました。当時の私は「攻めた訳し方をして点を落とすぐらいなら、守りにいって確実に点を稼ごう」という考え方で問題を解いていたため、問題の英文を自分でも違和感を感じるほどの日本文に変えていました。

言い換えると、単語帳、文法書で覚えた(覚えさせられたものが多いですが)訳し方を疑うことなくそのまま用いて機械的に英語を日本語に変える単なる作業をしていました。このように機械的に英文を訳していた受験生は私以外にも相当な数いるのではないのでしょうか。また、合格を勝ち取らせるため、点数を稼がせるために、機械的に訳すのが一番だと言わんばかりの指導をしていた教師も少なくないのではないでしょうか。

私は「守りにいって点数を稼ぐ」ことが正しいやり方だと思い込んでいたため、記述模試の答え合わせをする際に、いつも英文和訳問題の模範解答に違和感を感じていました。「こんな攻めた訳し方をしてよいものなのか」、「これが満点の解答なのか」と。模範解答のような自然で違和感の全くない訳し方がしたい、できるようになりたいという感情はもちろんあったのですが、その度に私はそれをしたら減点されるかもしれないという現実に押しつぶされていたのだと思います。

実際、記述模試の英文和訳問題は基本的に長文の中の一文に下線が引いてあり、その一文を訳すという形式であるため、訳すためには当然ながら前後の文脈を理解していなければならないのですが、仮に文脈が理解できていなくてもその下線の引かれた一文にわからない単語、文法が用いられていなければ、機械的な訳し方をすることで、満点をとることも十分可能でした。

このような、攻めた訳し方をすれば大幅に減点される可能性が高いが、守りにいけば減点を最小限に抑えられる上、満点の可能性もあるという採点システムでは、受験生が攻めた訳し方をしようとしないのは当たり前ともいえます。

試験の採点システムがこのような機械的な訳し方(=受験のための便利な道具)を生んだといっても過言ではないのかもしれません。採点基準に「文章の自然さ」という項目を入れれば良いのではという意見もあるようですが、この案には諸々の問題があります。採点に平等性が確保されなければいけない試験で、そのような採点項目を含む採点基準を採用すれば、どうしても採点者の主観が入ってしまい、十分な平等性が実現されません。

しかし、そもそも英文和訳を含む、記述形式の問題を採点する際に主観が入ってしまうのはやむを得ないことなのかもしれません。そう考えると、採点項目として、機械的な訳を防ぐための項目を入れることも意味のあることに思えます。

卒論で英文和訳について調べていこうと考えているので、上記のような点についても深く考えていこうと思います。
  


■ 二点目は、置き換え訳と翻訳について、授業を通じてもう一度考え直した。言語そのものに着目し、英語の公式に従い訳をする置き換え訳と、言語そのものだけでなく言語使用的、相手意識的な観点に従い訳をする翻訳。

「今までの英語教育で成功を収めた訳を今の英語教育は全否定している」という主張がブログ記事にもあったけれど、「訳」を否定している人々の殆どは、この後者の翻訳の意味・概念を正しく理解していない、または知らないのではなかろうかと思う。なぜならば、もし気持ちや相手意識(分かってほしいなどの期待)を持ってコミュニカティブに訳をするという翻訳の役割を知っていたならば、コミュニケーション能力の育成を目的とする外国語教育において、それが否定されるはずがないからである。

訳と言ったら我々日本人の中に最初に出てくるのは前者の置き換え訳であり、その置き換え訳を以て訳としている。そのような考えを持つ人が英語教師になれば、コミュニカティブな「翻訳」をできるようになる生徒は必然的に現れない。このように、あらゆるところに存在する言葉一つ一つの意味をしっかり分析し、しっかり理解しておかないと、このように生徒の伸びしろを捨ててしまうことに為りかねない。

幸運にも私は「訳」の二種類の違いを知ることができたので、将来後者の「翻訳」を授業の中で取り入れる試みを行いたい。そして、否定されている「訳」の名誉を挽回したいと思う。またそのためには、先ほぞも述べたように、まず訳について、自分なりの教育方法を確立していかなければならないと思っている。



■ 今日前半の授業を受けて第二言語を学ぶ時の母語干渉について考えました。日本語の「は」と英語のisについて、1年生もしくは2年生の時に履修した柳瀬先生の授業の復習でももしかすると書いたことがあるかもしれませんが、私の弟(英語は得意ではない)は以前“I like sport is baseball.”という英文を書いていたことがあります。この一文には色々問題はありますが、おそらく弟はisを日本語の「は」と捉えており、「I like sport(私の好きなスポーツ)is(は)baseball.(野球です)」と言いたかったのだろうと考えられます。

このような文法的間違いから、英語と日本語の違いについて生徒が気づく事ができれば英語科の教養的価値が高まるのかもしれません。そして、授業中に柳瀬先生がおっしゃっていた通り、英語教師自身も国語教育や日本語教育についてもっと理解を深める必要があると思いました。

英語教育の目的が英語を流暢に話せる日本人の量産でない限りは、言語の中に現れる日本文化、欧米文化をもっと生徒に感じてもらえるような授業が求められるべきだと思います。今や「英語といえばアメリカ・イギリス」と言う時代ではありません。世界中でそれぞれの国の英語が話されており、それぞれが母語の影響、母国の文化の影響を受けながら「英語」という言葉を借りて自分達を世界に表現しています。発音、イントネーション、文法はもちろん相手に伝わる程度には正確さも必要ですが、世界中の人と簡単に関わることができる今の時代に日本人として英語を話すこと、その中身の充実が求められているのかもしれないと思いました。

 授業の後半を受けて、経済界の敎育界への影響を考えされられました。経済発展のために英語は不可欠だから英語の授業を英語で、ないしは大学での授業は英語でということに対してはあまりにも安直な考えなのではないかと思いました。第一言語と第二言語の習得方法は同じようにいきませんし、50分の英語の時間だけ使用言語を英語にしても頭の中の思考は日本語で行われます。第2言語を使う時の私達の頭の働きは第一言語を使用するときとは全く別物なのです。第2言語を習得したからと言って、ネイティブスピーカーや、バイリンガルの方とは脳の使い方が異なるということを意識する必要があると思います。

また、英語の授業の中でよく気になるのが、中学生や高校生にもなると、第一言語であれば抽象的なことやかなり難しいことも思考、議論することが出来ますが、英語の授業になると「好きな国を紹介しよう」などといった易しいトピックが多く、思考の点においてはあまり深まりを感じられないことが多いということです。思考が深まらないというのは、例えば教科書の定型文を取り出し、国名の部分やその国の有名な建築物の名詞のみを入れ替える作業のみを行っていることが多いように感じられるからです。

ここで思い出したいのが田尻悟郎先生の授業実践です。田尻悟郎先生の授業でもトピックは「私の宝物」という比較的易しいものでしたが、先生の生徒さんたちは自分とまっすぐ向き合い深い思考を行う事ができていたように感じられました。ただ教科書本文の一部の単語を変えて話しているのではなく、一人一人自分の言葉を探して話しているような印象を強く感じることが出来ました。

同じトピックでも教師のアプローチひとつで生徒の思考を深いものにすることはできるのではないかと思います。そしてその時の頭の中の使用言語はきっと母語になるでしょうが、そこで自分が考えたことを一番適切に表現することができる英語、「からだ」から出る言葉を探していくことが生徒たちの学習につながるのではないかと思いました。

 この授業では普段の生活の中では、あたりまえのこととして見過ごしていたものを哲学の観点から考え直すことが出来ました。授業外の課題でも自分のお気に入りの本を見つけることが出来たので嬉しく思います。ありがとうございました。



■ これまでの授業を通して、自分の知識や経験がいかに浅いかを痛感するとともに、聞いたことをすべて正しいと受け入れるのは安易だと感じました。いままで変だと思わなかった多くのことが違和感や疑問点を抱くものに変わりました。子どもたちに考える力を育てる前に、自分自身も考える力をつけていきたいです。その前に多くの知識を、自分が納得のいく形で自分の中で貯蓄できればと思います。



2017年2月17日金曜日

「本読め、新聞読め、英語読め」 --追いコンでの挨拶--



 以下は、本日、私が教英追いコンの席で挨拶として述べたことです(実際の口調は非常に柔らかくしましたが)。

その後の追いコンは、まさに抱腹絶倒の場で、皆、心から楽しみました。

このような場を作り、発展し続けている教英の学生を私は心から誇りに思っています。





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卒業・修了予定者の皆さん、おめでとうございます。

本日は楽しみましょう。

私も含めた教員も、動画で今日を楽しい一日にすることを試みています。
後で大笑いしましょう。

ですが、私は一応教員で、かつ、卒業・修了予定者の皆さんにお話できる機会がほとんどなくなってきたので、大学教員の一人としてぜひとも伝えておきたいことを少しだけお話させてください。

短くまとめるなら、それは「本読め、新聞読め、英語読め」ということです(笑)。

これから社会に出て何らかの形でお金を稼ぐ皆さんは、そのお金と引き換えに社会的責任を担います。

今までお金は基本的に親が送金してくるもの、奨学金という形で銀行口座に振り込まれるものだったかもしれません。

しかしこれからは(ほとんどの家庭で)親はあなたに送金してくれません。奨学金は負債という真の姿を示し皆さんは毎月一定額を返済していかなければなりません(給付型奨学金が日本ではあまりに貧困であることに対して私たちは怒るべきですが、それは今は別の話とさせてください)。

今までは適当に単位を取れば、後は気ままに楽しむだけだったかもしれませんが、その時期はもうすぐ終わりです。"Party's over"です。

新しい社会人としての皆さんに私が一層勧めておきたいのは、本を読むこと、新聞を読むこと、英語を読むこと、です。これは私が大学教師として常に皆さんに促していることですが、未だ、十分にそのメッセージが伝わっているとは残念ながら思えません。ですから、今日、繰り返している次第です。

本を読むこととは、吟味されたことばで表現された思考や情感を通して、深く考え深く感じることです。これまで皆さんは、せいぜい学校で出される底の浅い問題にしか接してきませんでした。しかし社会が、あるいは人生が、皆さんにこれから突きつけてくる問題は、解の公式など存在しない深いものです。それに対処するには深い思考と情感が必要です。どうぞ皆さん本を読んで下さい。

新聞を読むこととは、社会について広く知ることです。これまで皆さんは、せいぜい自分の周りのことだけについて配慮していればよかっただけかもしれません。しかし、教師になれば、様々な社会的・経済的・文化的背景をもった生徒とその保護者に対する十分な配慮が求められます。その背景はより広い状況につながっていることもすぐに気づくでしょう。皆さんは社会人として、自分身の回りを超えた広い社会のあり方について知る責任が生じます。日本の新聞については私も批判したいことはたくさんありますが、民主主義社会は、おそらく自発的に支払う購読料という信頼に応えて社会的責任を果たそうとする批判的ジャーナリズム抜きには維持できません。どうぞみなさん、きちんと新聞を読んで下さい(そして新聞に対しても批判を続けてください)。

英語を読むこととは、一つの言語文化圏にとらわれずに、より自由に考え、感じることです。残念ながら私がまともに読める外国語は英語ぐらいでドイツ語はほとんど使い物になりませんが、それでも日本語以外に英語(そしてごくわずかながらのドイツ語)が読めると、日本語だけでは考えられなかったこと、感じられなかったことを経験することができます。トランプ大統領の選出という派手な出来事によって多くの人々が感じ始めたように、今は、世界史的な転換点にいるのかもしれません。世界は連動しています。これがグローバリズムの一つの意味です(グローバリズムとはお金儲けのことだけを意味することではないことは十分ご理解下さい)。皆さんは教英を卒業・修了するのですから、ぜひ英語を読んでその読んだことから社会について考え感じることを習慣化してください。そうやって人生で英語を活かすことができないなら、私はその人がいくらTOEICで満点を取ろうが英検1級をもっていようが、そんな人は残念ながら、単なる優等生、あるいは英語オタクか自分のコンプレックスを資格試験自慢で解消しようとしているだけの人としか思えません。"Read words to read the world"とも言いますが、どうぞ日頃から英語を読んで、この世界について少しでも多角的な視点を得て下さい。

以上で「本読め、新聞読め、英語読め」という私の話は終わりです。教師の悪癖でお説教を、私の悪癖で辛口でしてしまいましたが、本日のお説教はこれで終わりです(さらに、卒業・修了すれば私のお説教も聞かなくて済みます)。

その意味も込めて申し上げましょう。「おめでとうございます」。

本日は楽しみましょう。




2017年2月12日日曜日

教科教育学研究方法論 -社会の複合化への対応という観点から-





この記事は、筆者の所属する教科教育学専攻で作成する報告書(『異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究 (1) -教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて-』)に提出した原稿に、筆者が自重し削除しておいた部分(青色部分)も加えて掲載するものである。

 なお、この記事(および報告書原稿)は、2016(平成28)年度から新設された教科教育学専攻の共通科目(必修)の一つである「教科教育学研究方法論」のシラバス(「授業の目標・概要等」に基づいていることも付記しておく。




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教科教育学研究方法論 -社会の複合化への対応という観点から-


■ 社会の複合化

 社会のグローバル化と高度知識化が進行している。社会はますます複合化している。多くの要素が絡み合い、だれもその展開が予測できない社会となりつつある。ある場所の一つの問題は、ある境界線の範囲内にとどまることなく他の様々な場所の諸問題とつながる。加えて、一つ一つの問題を解くためにも高度な知識が必要なのに、諸問題が絡み合い問題解決がきわめて困難になる。高度な知識をもつ専門家は、自分の枠にとどまることが許されず、他の専門家と協働的に問題解決しなければならない。さらに、その問題解決は、政治的判断などに資するために一般市民にわかりやすく伝えられなければならないが、これもまた容易ではない。複合性の高い現代社会が、私たちに要求している知的水準は、どう考えても高い。
 高度な知的水準が求められるというのは、近未来の話ではない。例えば3.11直後の日本は大混乱に陥った。放射線被害に関する科学リテラシー、原子力発電に関する技術的理解、さまざまな支援活動を効率的にするための数学的理解、緊急時における社会的・法的諸権利の理解、問い直された人間らしい生活についての理解、実利に直結しない文学的・芸術的表現の意義の理解、原子力の軍民利用に関する日米関係の歴史理解、日本の状況についての海外への発信状況についての理解、ロシアやドイツを始めとした非英語圏からの原発関連情報の理解、等などの多岐にわたる領域の理解を同時に薦め、しかも相互に関連させながら諸問題の解決にあたらねばならない状況に追い込また。そして問題はまだまだ残っている。「残ってはいない」 ( "Everything is under control") と信じて疑わないとしたら、上記のリストにマスメディアのあり方も加えるべきだろう。
  あるいは子どもとスマホの関係を考えてもよい。子どものスマホ利用について保護者や社会がどう取り組むかを考えるには、SNS上でのことば遣いがもたらす問題についての理解、スマホ利用の技術的・社会的・法的・健康上のリスクの理解、噂の広がりに関する簡単な数学的理解、パスワードの安全度についての技術的理解、生活リズムのあり方に関する医学的理解、新しい画像・動画表現の可能性についての芸術的理解、言語を超えた交流についての外国語理解、等などを進め、それらに基いて考える必要がある。スマホを一律に禁止しても、それは生徒が所属学校の権力空間を離れた瞬間に、一気に反動的にスマホの世界に耽溺する事態を招くだけであろう。複合化した社会に、単純な解決法はない。


■ 差異の統合

 社会の複合化への対応は、「差異の統合」という表現でもまとめることができる。各教科での研究が専門化すればするほど、それぞれの教科教育学研究の違いは大きくなる。ますます業績産出に追われる現在、たとえば同じ言語教育である英語科教育学と国語科教育学の研究者が互いの研究活動にあまり興味を示さない、したがってお互いに語り合えないという状況は、もはや珍しくはない。だから例えば英語科教育学者が -どの教科教育学者も大同小異だろうが-、数学科教育学者や音楽科教育学者と教育について共に話し合おうとしない(そもそも話し合えない)ということは多々ある。そんな教科教育学者に育てられた教師が他教科の教師と語ろうとしない(そもそも語れない)というのも容易に想像がつく。知識の高度化に伴う専門化で、知識の差異が大きくなることは現代社会の一つの特徴であろうが、その差異は統合されなければならない。
 差異の統合を重要な論点とするのは、意識についての統合情報理論 (Integrated Information Theory) を提唱する神経科学者のトノーニ氏である。氏は共著の中で、現代医学における各種の専門家がチームで医療にあたることの必要性と困難性について述べる。現代の医学のレベルで高度な治療を行おうとすれば、さまざまな専門医を集めたチームを結成し、その中でコミュニケーションをとって治療方針を定める必要がある。しかし現代の医学の専門化は高度に進展しているので、少しでも専門が違う専門医とのコミュニケーションは容易ではない。むしろ特に高度な専門性をもたない一般医(町の診療医)を集めたチームのほうがコミュニケーションは容易である(「この患者は諦めるしかない」といった結論はすぐに出るだろう)。
 だが専門家がお互いの知識の差異をコミュニケーションの試行錯誤で統合させた時には、素晴らしい先進的な治療が可能になる。しかし、差異の統合とは、差異を消滅させることではない。専門家同士が集まっても、それぞれが他人に理解されないままに自論をモノローグ的に語り続けるだけのコミュニケーションしかとれなければ、社交上の発話(相互作用)は多くなろうものの、互いのもっている貴重な差異は活用されず、新しいものは何も生まれない。コミュニケーションは差異の否定や隠蔽に向けてではなく、差異の肯定と活用に向けてなされなければならない。
 トノーニ氏がこの医療チームの例を出したのは、実は、人間の脳が行っている偉業を説明するためである。脳のニューロンの一つ一つは、非常に特異的・限定的な働きしかしない。しかし大脳においては、それらが相互作用を行い、それぞれの差異を脳全体として統合している。この差異の統合により人間の大脳は極めて創造的になっていると氏は考える。

「差異と統合が同時に成り立つのは難しく、めったにあることではない。というのも、相反する性質だからだ。実際、あるシステムの構成要素のそれぞれが専門化し、差異が生まれれば生まれるほど、相互作用が難しくなり、それゆえ統合も困難になる。一方で、要素間の相互作用が活発であればあるほど、それぞれの要素は均一的なふるまいをしがちである。そうなると、システムの総合的な差異の度合いが低くなる。脳のどこかで、そしてなにかしらの方法で、この反発する力が、奇跡的なバランスを保っているに違いない。」(トノーニとマッスィミーニ 2015, 126ページ)

差異の統合が、脳のレベルだけでなく、私達のコミュニケーションのレベルでも困難であることは事実である。だが、困難を経ずして創造がないことも事実であろう。私たちは事実に向き合い、将来の世代のための教育を創造する社会的責任を担っている。


■ 複合化に対応せざるを得ない学校教師

  このような現実世界の複合化がつきだす課題を自覚してか、日本の多くの小中高でも、教科を超えた研究主題を掲げて、学校をあげて児童・生徒の生きる力を育成しようとしている。例えば、「知識基盤社会における生徒の育成」、「グローバルリーダー・地方創生リーダーに求められる能力・態度の育成」、「社会的自立の基礎となる資質・能力及び態度・価値観の体系的な育成」、「協働的問題解決ができる子どもの育成をめざして」といった研究主題はよく聞かれるだが、同時にそういった研究主題がお題目としては掲げられても、実際は、各教科がバラバラに、半ば惰性的に従来の研究を繰り返す出すだけというのもよく見られることではある)
 学校教師は、もはや自分の専門教科だけに自足・自閉していることは許されないのではないか。学校現場でよく聞く話だが、自分の教科のことについてしか語れないし興味も持たない教員は、しばしば学校内でのチームワークも苦手で、学校をあげての取り組みができない。また、そういった教員の教科指導も優等生相手の受験指導だけでしかないことが多い(受験指導しかできず、その教科を学ぶ意味を学習者に実感させることができない教師は言語道断と筆者は考えるが、そのことについてはここではこれ以上述べない)
 中高の教師は自分の専門教科を教えつつ、それを現実社会で使いこなせる力に発展させなければならいない。それが社会的責任というものではないだろうか。「そうはいっても、まずは受験に合格しないと・・・」と反論する教師は、しばしば生徒に「受験が終わるまでは余計なことは何も考えず何も感じず、受験対策だけをしろ。受験が終われば好きなことができるから」と説諭する。だがその結果、知的感性がつぶされ、晴れて合格して入学した大学で、自分が本当に好きなことがわからず、結果、付和雷同的行動しかできない学生を残念ながら筆者は時折観察している。そのような学生は、卒業論文で苦労する。自分がやりたいテーマが見つからないからである。就職活動でも苦労する。自分が何を大切にしたいのか、何になら妥協できるのかがわからないからである。就職すればさらに苦労する。暗記と再生の受験勉強的単純知的労働は得意でも、様々な要因を同時に考えて、その中から良さそうな解を見つけては試行錯誤を繰り返し、さらに良さそうな解を探すといった高度な知的探究ができないからだ。そういった若者(元受験エリート)は、早晩「社会では使い物にならない」と烙印を押されるか、遠くない将来に人工知能 (AI) に仕事を奪われるかもしれない。明らかに学校教員は、自分の狭い枠だけにとどまらずに思考し協働できる若者を育てなければならない。


■ フィンランドの先行事例

 実際、フィンランドの総合学校(1年生~9年生、716歳)では、従来の教科別の教育に加えて、複数の教科にまたがった横断的な教育を行うことが2016年から義務化された。以下、フィンランド大使館のホームページの記述を要約する。
この新たな取り組み(「テーマ別授業」)では、「地球温暖化」や「欧州連合」といったテーマを、数週間にわたるひとつのプロジェクトとして学ぶ。授業では、教師も各生徒と話し合い、目標をどこにするのか一緒に決める。今までの教育の問題の一つは、生徒がなぜ特定の成績をつけられたのか必ずしも理解していない点にあるとフィンランド国家教育委員会・基礎教育課のアンネリ・ラウティアイネン氏は考えている。生徒を積極的に目標設定の話し合いに巻き込むことによって、生徒のやる気を上げられるというのが氏の見解だ。もちろんこのテーマ別授業は、教師と生徒の役割関係も変える。教師は単なる情報提供者ではなくなり、生徒もただ受身の聞き手ではなくなる。「学校が、互いに学び合えるコミュニティになってほしいと考えています。これにはもちろん、大人が子どもから学ぶことも含みます」と同氏は語る。
 だが、そのような取り組みは、OECDの学習到達度調査(PISA)によって得られた「学力世界一」の評判を落としてしまうことにつながるのではないかという懸念もあろう。それに対して、フィンランド教育の専門家で、現在はハーバード大学教育学大学院で客員教授を務めるパシ・サルベリ氏は語る。「そうかもしれませんが、それがどうしたというのでしょう」。氏はPISAを始めとした教育測定さらにはその国際的競争について次のように述べる。「フィンランド的考え方では、PISAランキングの意義は取るに足りません。PISAは血圧測定のようなもので、時々自分たちの方向性を確かめるうえではよいですが、それが永遠の課題ではないのです。教育上の決定を行う際、PISAを念頭に置いてはいません。むしろ子どもや若者が将来、必要とする情報こそが大事な要素となります」。
 この自主性・自律性は、ひょっとしたらフィンランドの自治体・学校・教師の裁量権の大きさとも関係しているのかもしれない。サルベリ氏は、フィンランドが他国と異なる大きな点は、自治体や学校、教師が、生徒が何をどうやって学ぶのか決められることであると語っている。教え方の決定権は現場にあり、生徒たちにとって何がベストかは現場が判断できると氏は説明している。
 このフィンランドの状況は、国が一律に学習指導内容を決め、教科によっては指導方法も検定試験での達成目標まで定められている日本の状況とあまりに異なっている。しかし、社会の複合化に対応しようとしている事例の一つとして、フィンランドの事例を参考にしないという道理はないだろう。教育に関する日本の権力構造が一気に変わることは望むべくもないが(権力構造の変化は民主的に、ということは長い時間をかけて起こるべきだ)、教科の枠組みを超えた授業を試みることはできる。


   「教科教育学研究方法論」が目指すこと

  こういった社会の複合化に起因する現状を踏まえて、教科教育学専攻の院生必修である「教科教育学研究方法論」の授業では、ますます複合化する社会で教科教育学が抱える今日的および将来的課題に対して、研究者ならびに実践者が柔軟かつ現実的に対応するために必要となる研究の方法論を学ぶことを目指す。ここでいう「方法論」は、"method"(調査や実験の技術的手続き)というよりは、"methodology"(そもそもどのような研究をどのように行うべきかといった認識論)である。この授業では、参加者が研究に対してより広く深い考え方ができるようになることを目指す。
  これからの研究者と実践者には「知の革新」が必要であろう。指導教師や先輩がやっている研究をただ真似て再生産するのではなく、院生一人ひとりがそれぞれ独自の視点で教科教育学研究を刷新し、新しいアプローチで現実世界の問題に対応することが期待されている。
  もちろん、一人ができる研究には限りがある。誰もあらゆる研究の"method"を自由自在に駆使して多種多様な研究ができるわけではない。着実に研究論文を執筆するためには、自分の得意な"method"に集中することも必要であろう。
  しかし研究者共同体の一員としては、できるだけ多くの種類の"methodology"を理解することが必要である。さまざまな分野の研究論文をそれなりに正しく理解し、研究者共同体の中での対話に参加できるようになるべきだ。複合的な世界に対処するためには、私たち自身が複合的にならなければならない。自らの知識のさまざまな集合体を組み合わせ、自分でも驚くような知的創造ができる複合的な知性をもたなければならない。
  この授業を通じて、院生がさまざまな研究方法についてのあり方について学び、未来を切り開く研究者・実践者となってほしい。



参考文献
フィンランド大使館:フィンランドの学校がこう変わる!Q&A 10

トノーニとマッスィミーニ(著)、花本知子(訳) (2015) 『意識はいつ生まれるのか ― 脳の謎に挑む統合情報理論』亜紀書房



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