2017年4月27日木曜日

他教科の院生・教員との対話から学んでいる英語教育専攻大学院生の振り返り



私が所属している広島大学教育学研究科教科教育学専攻の修士課程では、昨年から「共通科目」として10の異なる教科を専門とする大学院生・教員が共に学ぶ授業を開始しています。初年度の成果は、研究報告書としてまとめ、以下のホームページで公開しています。


異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


以下は、その共通科目の一つである「教科教育学研究方法論」(概要 詳細)の最初の授業に参加した大学院生(M1)の振り返りの一部です。

近代知の専門化があまりに進行して知が細くなってしまい、知を統合できる人材、あるいは異なる専門家と対話ができる専門家が少なくなってしまったという指摘はずいぶん昔からありますが、それを克服する積極的あるいは実質的な努力はそれほど多くないのではないかと個人的には感じています。

この「教科教育学研究方法論」を始めとした広島大学教育学研究科教科教育学専攻の試みは、ますます複合化・高度化する知識社会で活躍できる実践者・研究者を育成する試みです。ぜひご注目いただけたらと思います。






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■ MY


私は今回の講義について、以下の3点に焦点を当てて振り返りたいと思います。結果的に振り返りを自分の研究領域に引き付け過ぎていますが、教科横断的な講義の中でシェアしたいという想いの基に書かせていただきました。なお、私は英語教育研究を専門としています。

① 教科間の対話の重要性
② 現代社会の中での英語教育研究の役割
➂ 他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話


① 教科間の対話の重要性

 教科間連携という言葉は私たちにとって新しい言葉ではありません。私が大学に入学した4年前には、すでにそうした連携の必要性は唱えられていました。しかしながら、4年間の大学生活の中で受講した講義の中に、異なる教科の教員志望者の間での対話がメインとなるものはありませんでした。またそうした状況から容易に想像できる通り、学部の卒業論文等にもそうした類のテーマが選択されることは無かったと記憶しています。私が専攻していた領域は言語に関わるものでしたが、同じ言語に携わる領域である国語科教育や日本語教育の学生や先生方と、講義等で公式に対話の機会をいただいたことはありませんでした。

 ここには様々な問題が関わっていますが、その中の一つの理由は「外国語教育=英語教育」という狭小な認識が、現代社会において暗黙の前提となっていることに加え、当の英語教育研究の関係者の中にも、そのような認識を未だに固持している方が少なくないことです。英語教育研究を専門にしているからこそ強調したい点ですが、現在の日本の英語教育は「英語至上主義」、「実用主義」、「数値至上主義」を基盤として動いています。そこに複言語主義的、英語の学習、使用を通して、英語だけでなく母語や他の諸外国語を知る、学ぶという視点はほぼ無いと言って良いでしょう。英語教育研究の関係者が今後まず行うべきは、他領域の研究者の方々との連携、それを可能にする対話です。少なくとも、同じ言語を対象とする研究領域の方々との連携が存在しない状態では、学習者たちはもとより、彼ら/彼女らの教育に携わる私たちの視野は狭まる一方です。


②現代社会の中での英語教育研究の役割

 今回の講義で取り上げられた3.11というテーマを受け、私も英語教育研究者の立場から何ができるか考えました。英語を扱っているので、「海外からの情報の受信、国内からの発信」ということを推しても良かったのですが、それは英語教育研究に携わる他のM1生が力説してくれると思っていたので、私自身は「言語について語ること」について考えることを強調しました。先述の通り、現代の英語教育の趨勢は英語の実用的な価値を強調する方向に傾いています。もちろん、災害時を含め、現代の日本社会における英語使用の重要性を否定するつもりはありません。しかしながら、英語を使うことに対する焦点が存在する一方で、使用されている英語について分析的、メタ的な視点を持つことの重要性に関しては、あまり大きな関心が持たれていないのではないでしょうか。例えば、英語を聞く力や読む力、話をする力等を向上させることによって、海外との連携の一助となることも可能ですが、英語教育が担う役割はそれだけではありません。例えば海外のニュースと日本のニュースの情報を様々な観点から比較したり、英語をメタ的に分析する力を母語の分析に利用し、政治家等々のレトリックに対処することを可能にしたりする力を養うこともその一つです。本講義のように教科の垣根を越えて意見を発信できる場をお借りし、真に学習者と社会全体に貢献できる英語教育を、他教科の知見を可能な限り利用しながら模索しなければなりません。



➂他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話

 ②で述べたことと重なりますが、英語教育の研究者間でも各々の意見は大きく異なることがあります。さらに、そうした意見の分断は時折大きなものになってしまいます。だからこそ、他の領域の新鮮な知見を利用しつつ、自分たちの研究を相対化する必要があるのです。私は自分自身の研究テーマが「言語について語ること」に密に関連していますが、だからといって言語使用に関する研究を否定することは決してありません。ともすれば極端な方向に振り子が振れる英語教育研究なので、教科横断的な対話の実践を通し、その経験をさらに英語教育研究者間でシェアすることによって、私たちの研究領域をバランスよく発展させていきたいと考えています。



■ MK

学部時代から対話概念を学び、対話的ディスカッションを経験してきた教英生にとってはおなじみとなった形式の講義でした。

 これまで対話を行ってきたのは同じ価値観を共有し、英語科の文脈を理解してきた人たちであったのに対して、今回は専門の教科が異なるゆえに、自分たちとはまた異なる観点から意見を述べることができる人たちであったという点で、大変興味深い経験ができたと考えています。以下、①他教科との対話、②英語科としての立場 にしぼり話をします。 

 「3.11が明日起こるとしたら自分はどう感じ、考え、行動するのか」というテーマは初めて集まったメンバー同士で語り合うには重たすぎるテーマかもしれないな、と考えていたのですが周りを見ると多くのグループがすでに意見を述べ合っています。こちらでもすぐに会話が始まり、理科の観点から地学における防災論、そしてそれを用いた「津波」に対する防災教育の話、社会科からは市民性教育の観点から非常時に市民が錯綜する情報を多面的に判断し行動するあり方を、家庭科からは”家族・家庭”を再認識させる働きかけや防災教育についての話をいただきました。特に興味深いと思ったのは理科の方が発した、災いを忘れると書いて「忘災」という言葉が出ているが、今回の震災を語り継ぐためにどのような取り組みができるか?という問いです。そこから話は発展して広島においても原爆ドームを残すか残さないかで大きな議論があったが結果として残されているのは忘れないためである、だとか被ばく経験を広島がどのように語り継いでいるかが参考になるだろう、ということまで話すことができるのは、ひとえに対話的環境が醸し出す自由な雰囲気のおかげでしょうか。他教科と学びを共有するというのは刺激的な体験です。私がそう感じるように、周りの方にもそう思っていただけるような情報を共有せねばならないと考えました。

 最後に、自分自身が3.11に英語教育学を学ぶものとしていかに貢献できるのか考えたことについて言及します。震災という非常事態において、人と人がトラブルなく協力できること、共に仮設住宅で生活できること、意思を伝え合うことができることというのは非常に重要な問題です。コミュニケーションを教える役割を担ってきた言語教育の中でも英語教育、とりわけ学校教育における英語科はこのことについて多くを貢献することができていなかったのではないかと考えます。極端な言い方になりますが中・高等学校においては受験合格という出口を最重要視した暗記科目と遜色のない現状、コミュニケーション重視を打ち出したとは言え中身のないペラペラ英語話者を量産してしまいそうな英語教育政策を見るに、「非常事態に他者とどのようにうまくやっていくか」、そしてそれはいかにして教えていくのかという実は重要な発想が欠けているように思えます。英語教育が根底として何を目的としているのかという問題は、実はまだまだ問い直しが可能な事柄なのかもしれません。

 震災と教育を自分の中で結びつける視点をいただくことができた今日の授業に感謝するとともに、これから他教科の視点をどんどん取り入れていくことができることに期待します。



■ MM

今回の講義を通じて、対話(dialogue)という言葉の意味とその重要性を再認識しました。対話とは、話し手と聞き手の間で発生する差異について考えることを繰り返すことによって、一緒に新しいものを創造していくことであると理解しました。グループでの話し合いにおいても、多くの差異が発生しました。

例えば、数学専攻の方は、数量的・数値的に、体育専攻の方は、身体や健康、運動に関連させてトピックにアプローチしていました。個人的に印象的だったのは、ベトナムからの留学生の方のお話です。その方は、震災当時はベトナムにいたそうですが、Facebookを使って震災に関する記事を共有したり、日本に向けての応援メッセージを送ったりしていたそうです。また、震災の後には、日本の防災教育の凄さについて話題になったこともあったそうです。

この話題は、国が違えば、物事を見る角度、持っている情報が異なるということの一例ですが、同様のことは、やはり教科に関しても言えると思います。グループ内の専門が異なる者、つまり、持っている情報や思考様式に何らかの異なりがある人間が集まり、話し合うことによって、お互いの想定を越えた意味の差異が発生し、多種多様な考えに触れることができました。改めて、学校現場は性質上、教科という枠によって断片化しており、共有性が薄れた、それぞれが非連動的な意味を有する集団の集合体になっており、これからの通教科型、教科横断的な指導を実施していくためには、異なる教科の人と対話をしていくが初めの一歩だと思いました。

また、同時に対話をすることの難しさを痛感しました。教科が違う事でそれぞれが持つ情報の差が発生するのは当然として、お互いの人間性(社交的/非社交的、積極的/消極的など)も大きく対話をしていくうえで重要であると実感しました。対話に対する態度、対話の雰囲気作り、進行の仕方など、どのようにすれば対話がうまく成立するかをこの講義の中で考えながら実践していきたいと思います。



■ IM

今回の講義を通して,感じたことが3つある。

 まず最初に,自分の視点の偏りである。「もし明日3.11が起こったとしたら〜教科教育学の研究者または教師としてどう感じ考え行動するか?」という問いについて,グループで話し合いをした時,私は石巻市の大川小学校で7割の児童が津波の犠牲になったことに関連して教師として何ができるかという話をした。そして,対話が繰り返される中で,「英語の教科としては何ができると思いますか。」と聞かれた。この時,自分の視点は教師としての視点が強く,教科教育学の研究者としての視点は弱いのだということに気づいた。

 次に,教師は児童生徒と十分に対話できているのかということである。柳瀬先生の「よい対話とは」というお話の中に「偏見なしに他人に影響を与えようなどとせずに傾聴する」ということがあった。学校においては,教師の一方的な指示や押し付けになっていることが多いのではないかと感じた。これは,教師自身に自分の思考や意図は絶対的に正しいという思い込みがあるからではないだろうか。児童生徒の成長を促すためには,時にはそれらを捨てる覚悟も必要なのではないかと感じた。

 最後に,学校現場で教科間の融合ができたら何が生まれるだろうという期待である。中学高校では教科の指導が単独で行われる。他教科との連携や融合はほとんど行われていない。しかし,社会に出れば各教科で身につけた知識や技能が単独で使用されることはほとんどないのかもしれない。このことを踏まえると,教科間の融合で生まれるものは教育上有益であるはずだ。

 他教科の人たちの意見を聞き,対話することで新たな視点を持つことができた。またそこからお互いの考えを掘り下げ,それを共有することで新しい考えを生み出すことができるということを実感した。



■ SK

今回の他教科(時には他校種)の学生の皆さんとの交流を経て私が感じた事をまとめて復習とさせて頂きます。

私たちのグループで話題に挙がったのがいわゆる「習熟度が低い」学習者に各教科でどう対応しているか?というものでした。

つい最近、私が所属していた学部のコースの先生が英語科では、依然として「英語嫌い」に対する十分かつ有効な研究がされていないというお話がありました(様々な背景を踏まえたお話であったのでここではそれについて深く触れることは避けます)。このお話を聞いた後ということもあって、他教科の皆さんの非常に明確で分析的な「○○嫌い」に対する知識・思いに本当に感銘を受けました。

その中でも保健体育科の学生さんがされていた話が特に興味深いものでした。その方は、幼児の体育教育に携わった経験があるそうで、その際に習熟度の差の例として「早生まれの児童と」と「遅生まれの児童」の例を挙げられていました。保健体育教育に全く見識のない私でも一年間という発育段階の差を抱えながら、共に同じ学習環境を共有していることのすさまじさは容易(専門とされている方には失礼かもしれませんが)に想像できました。このような大きな「差」に対する工夫、配慮を当然の前提として保健体育の教育は、なされるそうです。

 正直なところこのお話を聞いた時に私の「英語教育」に対する考えはなんと横暴で乱雑なものだろうとショックを受けました。他方では、上の例のような緻密で責任を持った研究(教育)をなされている一方で、私という教員志望の学生は、知らず知らずのうちに弱者を切り捨てるような理念を持ってしまっていたことを痛感しました。

 今回は保健体育の教育を例に挙げましたが、他の教科の皆さんも本当に私に常識や固定概念を見直す機会を与えてくれる素晴らしいお話をしてくださりました。次回以降も多くの私の「常識」を覆して下さるのが楽しみです。



■ YR

今回の授業では、自分が勤務する学校での職員会議などの話し合いについて、新しい視点をもつことができた。教科の違い、経験年数の違いから、議論が平行線になったり、しっくりいかないことがある。しかし本当は、議論の前に、それぞれの先生と対話をしていることが大切なのだと思った。

 3.11に関するテーマについて、対話をするとなった時に、どんなものになるのか想像がつかなかった。しかし、指定討論者の意見を聞いた時に、専門性があるということの素晴らしさに感銘を受けた。避難生活によるエコノミー症候群を心配すること、初めての経験に言葉を失い、新たな言葉を紡いでいくこと、これまでと今とこれからの思いを形にして残すこと、数字や値を正しく理解し、ただ不安になるのではなく理性的になること、内容に結びつく英語で外とつながっていること、次に起こることを予測することなど、それぞれの専門を立場とした意見は、その専門がもつ力を教えてくれた。

 それから自分のそばにいる院生との対話は、面白い内容となった。「うまく話がまとまらない」というメンバーもいたが、同じことについて考えようとする姿勢が大事だと思った。自分の専門性があるからこそ、気づき、行動することができる。だから、専門性を磨き、他との融合のために対話していく人間になりたいと思った。発表してみて、私はどうしても意見をまとめる癖がついているという発見もあった…。



■ TK

われわれ教師は児童生徒に本当に「役に立つこと」を教えているのだろうか。

そんなことを考えるきっかけとなった講義だった。

児童生徒から「こんなん勉強しても何の役にたつん?」という質問を受けたことがないだろうか。

もしくは自分自身が学習者のとがそのような質問や疑問を感じたことはないだろうか。

そんな質問が来たとき私は

「自分がこの学習を役に立つものに変えていくんだよ」と答えている。

役に立つかどうかはだれにもわからない。学習者が「役に立つかどうか」で判断し知識技能の習得を取捨することはリスクがあるともいえる。

教師として知識・技能を児童生徒に伝え、思考・判断・表現力をはぐくむ場を与えてきたつもりであるが、3・11のような未曾有の事態において、役に立つと思われていた既存の知識や技能はどれほど役に立ったのだろうか。

逆に「役に立たない」と思われていた学習が「役に立った」こともあるのではないだろうか。

講義では社会科・理科の生徒が発表した後、音楽科の生徒が「音楽は、社会や理科みたいに役にたたないかもしれないが」と話し始めた。

しかしグループで対話を進めていく中で、他教科学生達からの音楽の有用性について発言を集め、音楽の役割・効果が明らかになってきた。

ともすれば、即効性を、あるいは受験というフィルターを重要視した知識技能伝達型の授業を行いがちである我々に、ふと立ち止まって考えることの重要さを与えてくれた講義であった。



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