2017年5月24日水曜日

Measurement and Its Discontentsの翻訳



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下の翻訳と英文を読みくらべると少しは理解が深まるかもしれません。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。



Measurement and Its Discontents
ROBERT P. CREASE
OCT. 22, 2011



現在の英語教育界は、評価測定による管理体制が隅々にまで強化されようとしています。しかしそれが教育的な営みなのか、立ち止まって考えてみませんか?




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測定およびそれに対する不満


先週、55カ国からの代表が夢を実現させるためにパリの郊外に集まった。それは何世紀にもわたる夢、世界の測定体系を完璧なものにしようという夢である。この歴史的な出来事といえる第24回度量衡一般会議は、秒やメートルや(これまで検討が不十分であった)キログラムといった測定の基本的単位について、最新の定義を完成させた。フランスの保管室に保存された金属の棒や塊によってメートルやキログラムを定義する時代は終わった。今や私たちは、光速や他の科学的定数といったハイテクの基準を使って定義している。

しかしこのように測定体系がほとんど完成されているというのに、どうして測定に関する論争がいまだに沸き起こるのだろう。どうして私たちは、知能や学校や福祉や幸福などを測定しようとする際に行き詰まりを感じているのだろう。

問題なのは、それらを測定するために十分に正確な道具をまだもちえていないということではない。問題は、二種類のまったく異なる測定があるということなのだ。

一つ目の測定は、物がどれぐらい大きいか小さいかを物差しで測る時のものだ。始点と単位が定められ、あるものはxフィートの長さがあるとか、yポンドの重さがあるとか、z秒の時間がかかるなどと測定される。哲学者が実在する対象や特性に対して用いる語をここでも使うなら、この測定は「存在物」の測定と呼ぶことができる。

しかし、測定対象に棒や物差しをあてがわない別種の測定がある。この種の測定はプラトンによるなら「適っているかどうか」の測定である。この測定は単に行える行為というよりも経験に根ざしたものである。私たちは、あるものが、ありうる状態という「測定基準」に適っていないと察することがある。私たちにこの種の測定ができるようになるのは、良い例を知ることによってである。例えばアリストテレスは、本当に道徳的な人は「測定基準」になると言っている。そのような人に出会うことによって私たちに何が欠けているかがわかるからである。何かがいかに存在するかを語る際に哲学者が使う用語である「存在論的」という用語を用いるなら、このような測定を「存在論的」な測定と呼ぶことができるかもしれない。

これら二つの測定の区別はしばしばおろそかにされているが、その結果として時にひどい結末に陥ることがある。スティーブン・ジェイ・グールドは著書『人間の測りまちがい』で、人間の知性を、IQや脳の大きさといった一つの量で測定しようとする的外れの試みが、どれだけ社会と人類の知識に対して害をなしたかということを詳らかにしている。知性を複合的な理念ではなく、単体で取り出すことができる一つの対象として考えると、知性は根本的に誤解されてしまう。教師の能力を生徒のテスト得点だけで測定しても同じように教師の能力は根本的に誤解されてしまう。

二種類の測定を混同してしまうことは、近代生活の一つの特徴のように思える。近代世界が存在物を測定する方法を完成するにつれて、私たちが自分自身を存在論的に測定する能力は低下しているように思える。私たちは測定の対象や測定の目的から目をそらし、測定すること自体ばかりに注目している。存在物の測定の方法によってすべての意味を求められると考えるように仕向けられている。しかし私たちが、綿密に計測された細かな結果を見て、そうではないと不満を抱きうんざりしてしまうことは予想に難くない。

人気のウェブサイト「計量化された自分」は、自己改善のために、毎日の生活のあらゆる側面についてのデータを収集するツールを提供している。睡眠、食事、性交、心配、コーヒー摂取などのデータである。サイトの創業者であるゲイリー・ウルフは、「『計量化された自分』に多くの人が魅力を感じていることの背後には、私たちが抱える多くの問題は単に、自分とは何かを理解するための道具がないことから生じているのではないかという考え方があります」とニューヨーク・タイムズの雑誌版で説明している。存在物の測定が自らを知ることの鍵としてみなされている。

しかし、測定の道具を選定しその測定結果を解釈する際に、私たちがいかに賢明で思慮深いかをどうやって測定すればいいのだろうか?近代文学には、測定が人間的な側面を剥奪することを描いたものが多くある。ディケンズの『ハード・タイムズ』の登場人物であるトマス・グラドグラインドがその好例である。彼は、事実ばかりを重んじる合理主義者で、「人間性のいかなる側面もすぐに測定し、その結果を正確に伝える」ことができる。しかし自分自身の人生は見失ってしまう。

どうすれば存在物の測定と存在論的測定の違いに目を向け、片方が他方に介入することを防ぐことができるだろうか?

一つの方法は、測定によって何が失われているかを自問自答することである。学校で実施されているテストは、生徒の頭を良くしその才能を開花させているのだろうか?それとも私たちに、自分たちは教育評価の方法については知っていると思い込ませているだけではないだろうか?毒素を微量なレベルで測定することによって私たちはより安全な暮らしをおくっているのだろうか?それとも私たちは毒素を一掃するための大量のお金を無駄遣いし、その結果、自分たちはより安全になったと感じているだけではないだろうか?

私たちの世界はますます計量化されているが、私たちはどこでどのようにして測定が失敗するかをきちんと知らなければならない。キログラムを絶対的に普遍的な基準で定義することができた今、私たちはそもそもどんな人間的な目的のためにキログラムという概念を創り出したのかを思い起こす必要がある。そしてキログラムが人間に奉仕しているのであり、人間がキログラムに奉仕しているのではないことを確認する必要がある。

フランスでの会議の参加者はまことに称賛に値する。グローバルな測定体系を完成させようとして、彼ら・彼女らは科学を尊び、政治的な企みなどとは無縁に、これまで集積された良きものを世界中の未来の世代のためにさらに良きものにしようとした。

これらの参加者を「測定基準」とするならば、私たちは何をするべきなのだろうか?





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