2017年8月7日月曜日

自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか



8/4(金)に広島県民文化センターで開催されたヒッポファミリークラブ西日本主催のシンポジウム「多言語 x 脳科学」は大変に刺激的でした。ヒッポファミリークラブについては「ことばを歌う」 (=多言語のマテリアルを細かな音や意味などを追わないで、リズムやメロディを音楽のように楽しみながら口ずさんで、歌を歌うように、ことばのらしさを波に乗ってまねをする) ことなどによる多言語習得が有名で、私も昔から興味をもっていたので、今回のシンポジウムに参加しました。

シンポジウムはマサチューセッツ工科大学のSuzanne Flynn先生と東京大学の酒井邦嘉先生の講演、それらへの質疑応答を主にして、時折、ヒッポファミリークラブの子ども会員の外国語使用の実演が組み込まれたものでした。

フリン先生のお話は、多言語習得に関するいくつかの原則に基づくもので、「学校英語教育」といった枠組みを超えて、私たちの周りの世界で起こっていることを見るならば、非常に納得できるものでした。

酒井先生のお話は、私は初めて聞いたのですが、ひろしま美術館にあるゴッホの絵の話や、広角21mmレンズで撮影した平和記念公園の写真などから話が始まり、「いったい何の話なんだろう?」と聴衆を引きつけておいてから、脳科学での知見を述べ、最後にすべてのエピソードをまとめるというすばらしいものでした(後で知ったのですが、酒井先生は、多くの専門論文に加えて、芸術家との対談本『芸術を創る脳: 美・言語・人間性をめぐる対話 』も出版され、科学報道のあり方についても提言されていました)。

酒井先生のお話の中で特に印象に残ったのは、次の三つの主張です。(私の記憶とメモに基づく記述ですので、誤りを怖れます。あくまでも柳瀬が解釈した限りでの記述とご理解ください)。


(1) 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか。

(2) 音声は情報が豊かなので、ことばや音楽は耳から覚えた方がはるかに自然で理にかなっている。

(3) 言語習得についてあえて一言でまとめるなら、それは"Be natural"になるだろう。


(1) の「人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか」はもちろん大まかな仮説ですが、私としては聞いた瞬間に「あっ、そう考えた方が、物事がよく見えるかもしれない!」と啓発されるものでした。学校英語教育に従事している者としては自己否定にもなりかねない主張ですが、さまざまな知見から酒井先生が提示されたこの大まかな仮説に基いて、物事を観察・考察し直すなら、今まで見落としていた多くのことが見えるような気がします。

ちなみに、懇親会の席で、フリン先生と私で上とはまったく異なる流れで話をしていた時にも、フリン先生は「むしろ今のような学校外国語教育の制度で外国語習得をした人の偉業について私たちは驚くべきなのかもしれない」と語っていました。私が学校外国語教育の成功者は "against all odds"での成功なのだろうと合いの手を入れると "Exactly!" と同意されていました。

また、Dwight Atkinson教授が先日広大で講演してくれた際の問題提起も、第二言語教育における「自然さ」とは何かというものでした。

Natural Second Language Pedagogy? Dwight Atkinson教授の講演から

学校外国語教育という、机上の計算ではもっとも合理的に外国語を学ばせるために作られた環境が、実は言語習得にとってはとても不自然な環境であり、それゆえに、学校教育に順応できる人となかなかそうできない人の差が大きくなってしまっているのではないかという仮説は、学校での語学の成績はよくなかったのに、なぜか現実世界ではうまく外国語を使ったり新たに習得したりしている人の存在からすると、無視できない考え方です。学校英語教育関係者は、学校秀才の成功体験を前提とした発想をとりがちですが、それを疑うことは必要でしょう。

といっても学校英語教育関係者としてのことさらの自虐をてらうのではなく、「人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか」という仮説に即して冷静に観察と考察を繰り返すことが必要だと思わされました。


(2) の「音声は情報が豊かなので、ことばや音楽は耳から覚えた方がはるかに自然で理にかなっている」については、酒井先生は、スズキ・メソードの実践についても触れながら、曲を耳から覚えることができても、楽譜から覚えることは困難であるというエピソードも紹介されました。ヒッポファミリークラブの子ども会員の外国語使用も(当日は、英語、中国語、フランス語などでの実演がありました)非常に音楽的で、それぞれの言語らしさを体現したものでしたが、このような外国語使用は確かに文字からの学習だけではほとんど不可能なものでしょう。

楽譜や文字は、音楽やことばという表現の情報を極度に圧縮した表象であり、その抽象度の高さゆえ、伝達することも簡単です。しかし、その凝縮された表象から、もともとの音楽やことばを再現させることは容易ではありません。

「文字からではなく、音声から外国語を教える」というのは、20世紀の初頭からしばしば言われてきたことですが、日本の英語教育では文字という伝達が容易な媒体にあまりにも慣れすぎたせいか、まだ音声の豊かさを十分に味わうほどの英語教育を学校ではなしえていません(それは教科書付属CDの音声の不自然さからも明らかかと思います)。英語教師も現代ではさすがに標準的な英語発音での教科書音読をすることぐらいはなんとかできますが、適確な感情表現で教科書を朗読することができる教師は、極めて残念ながら多くはありません)。

ヒッポファミリークラブの「ことばを歌う」という表現(フリン先生は "singing the sounds of the language"と訳していました)についても丁寧に考えるべきかと思います。


(3) の「言語習得についてあえて一言でまとめるなら、それは"Be natural"になるだろう」というのは酒井先生がさらりとおっしゃったことですが、これも含蓄のあることばです。

自然科学的に考えるなら、「人間の生得的能力を最大限に活かすことがもっとも効果的」と翻訳できるかもしれませんが、外国語教育という点から考えるなら一捻りが必要です。といいますのも、「第二言語」とは異なり「外国語」とは身の回りで使われていない言語ですから、外国語の学習は自然状態ではまず起こらない現象だからです。

ですから「外国語学習における自然」とは、武術家の甲野善紀先生がしばしばおっしゃる「人間にとっての自然とは何か」と似ています。もはや近代社会に適合してしまって自然界の動物のようには生きられない動物になった人間にとっての自然とは、言ってみるなら「不自然な自然」あるいは「人為を帯びてしまっている自然」となります。動物界における人間と同じように、外国語習得は言語習得界においても特異な存在です。外国語学習は、幼児からの第一言語獲得や第二言語習得と同じような「自然」さではなしえません。外国語の学習開始年齢はしばしば遅く、周りでその言語を使っている人もいないからです。だから「外国語学習における自然」も、「不自然な環境の中に創り出したできるだけ自然な状態」にならざるをえません。学校教育という人工的な空間に慣れすぎてしまった学校教育関係者にとって、「自然であれ」という箴言は丁寧に考えるべきものかと思います。

今後ともに、視野を学校英語教育内に狭めることなく、学校英語教育、いや学校外国語教育、学校言語教育、ひいては学校教育について考え続けたいと思います。

このすばらしいシンポジウムを開催してくださいました関係者すべての皆様に厚く御礼を申し上げます。


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