2018年4月17日火曜日

「異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究」に寄稿した9編の研究報告


先日、広島大学大学院教育学研究科教科教育学専攻の有志メンバーによる「共同研究プロジェクト」のホームページが新しくなりました。



異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


このホームページには、メンバーによる研究報告が掲載されています。研究代表者として私はメンバーに「既存の査読付き学術論文誌ではなかなか書けないような萌芽的で大胆なことを書こう」と提案しました。

ここにはそこで私が書いた研究報告(共著も含む)について、タイトルと概要を掲載します。もしご興味があればそこにあるURLをクリックして研究報告をお読みください。



研究報告(2017年度)



「教科教育学」の二つの意味
柳瀬陽介

「教科教育学」とは何を意味するのでしょうか?「数学、音楽、国語・・・」などのさまざまな教科に関するそれぞれの教育学を変数xを使って総称する「x科教育学」という意味でしょうか? 確かにそのような意味で「教科教育学」という用語が使われる場合もあるでしょう。しかし、この小文では、「教科教育学」は、「複数の教科の学びを学習者の中で統合させるための教育学」とも規定できることを示し、広島大学大学院教育学研究科の教科教育学専攻での共通科目は、「x科教育学」を深めるだけではなく、複数の教科を連動させる「教科教育学」を学ぶ機会ではないかと提言します。



それぞれの教科の中の科学と物語
 ―10教科への問いかけ―
柳瀬陽介

日本では強力な「文系か理系か」という区別が、それぞれの教科を「文系」「理系」「それら以外」に分けてしまい、学習者の自己認識もその三つのどれかにしてしまいがちです。これは、教科教育と学習者の可能性を狭めてしまう区別であるように思えます。この小論では、心理学者のブルーナーの物語様式の科学規範様式の概念区分を使って「文系」と「理系」の概念内容について再考し、それぞれの教科には物語的側面と科学的側面の両方があるのではないかと問題提起します。



創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
柳瀬陽介・八木健太郎・徳永崇

この論は、一元的な評価が創造性をかえって阻害しているという主張をします。論証のために科学史家のクリーズと哲学者のアレントの論を援用して、評価を一元的な「評定・測定」(rating / measurement) と多元的な「鑑賞・実感」(appreciation) の二種類に分けます。その概念的区別に基づいて、創造性を「評定・測定」の対象とすることはかえって創造性を損ねることにつながるので、その評価は文化共同体における「鑑賞・実感」の自由に委ねるべきだと主張します。創造性の評価を行わなければならないのなら、文化共同体での発表の場に出て自らの作品・表現を共同体での自由な「鑑賞・実感」の語り合いの中に委ねることができた事実をもって「合格」とするだけの評価(評定)にとどめるべきだとも論じます。



教科教育における「リアリティ」
―音楽科・社会科・英語科について―
柳瀬陽介

この論では、学校での教科教育が学習者の「リアリティ」の感覚に即していないのではないかという問題意識を受けて行われた対談に基づくもので、物語論の観点から社会科と音楽科と英語科におけるリアリティについて考察します。さらに、リアリティが教材から奪われ、学習者が学びのリアリティを、受験勉強についてのサクセスストーリーにしか感じることができなくなった場合についての懸念についても言及します。



数学教育学講座院生・教員との対話から考える英語による授業のあり方
柳瀬陽介

この論では、英語教育学の教員が数学教育学の院生と教員と行った対話に基づき、数学を英語で教えること、数学を物語で説明すること、高校までの英語教育の三点についての考察を行います。西洋言語を基盤として成立した数学を英語で表記することには確実な利点がありますが、だからといって数学の研究と教育の営みのすべてが英語で行われるべきとはならないかもしれません。また、数学を物語様式で説明することは、初学者が理解の糸口を得るためには有効ですが、その物語化は必ずしも容易ではありませんし、ましてや英語で行うことは困難です。現在の英語科に関しては、数学の体系的な面白さを知った者には知的な面白さを提供できていないようです。




研究報告(2016年度)



教員自身の「異教科間コミュニケーション」
柳瀬陽介

本稿では、「教科教育学研究方法論」の構想期・準備期・実施期を振り返り、教員自身がいかに自らとは教科・専門を異にする同僚教員とコミュニケーションをとってきたかについて振り返る。構想期については「改革ありき」と「二種類の融合」の観点から、準備期間については理念(「持続可能性と革新性」)の堅持という観点から、実施期間については「主要教科」という表現がもつ偏見の観点から主にまとめる。



教科教育学研究方法論
柳瀬陽介

本稿では、「教科教育学研究方法論」の授業目的を、複合性 (complexity) の観点から、3.11以降の日本の状況やスマホを巡る諸問題を例にして説明した上で、2016年からフィンランドで開始された、教科の枠組みを超えた「テーマ別授業」についても簡単に紹介し、知識がますます高度に相互依存する現代においては、専門家が相互にコミュニケーションをとれることが決定的に重要であることを論ずる。



意味と真理の概念から捉えた対話の概念
柳瀬陽介

本論は、「教科教育学研究方法論」で対話を進める際に筆者が参考にしていたDavid Bohmの対話論をまとめ、その一部にNiklas Luhmannの意味論を補足し、かつ意識の統合情報理論 (Integrated Information Theory) の考え方も参考にしながら再整理したものである。



本質性か連動性か?
柳瀬陽介

「教科教育学研究方法論」において、「10教科共通の・・・」といった表現が多用されたが、この表現が意味することは認識論の違いによって異なりうる。本稿はこの表現の、本質主義 (essentialism) に基づく意味と、親族的類似性 (family resemblance) に基づく意味を比較検討することによって、異なる教科間で対話し協働する際の基礎認識について考察する。




関連記事(広大教英ブログ)

異なる10の教科を教える専修の大学院生が自分の専門の枠組を超えた対話を行う授業
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社会科教育の話を聞いた英語科院生の振り返り
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