2016年8月11日木曜日

ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identität - was oder wie? より






以下は、二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) について勉強するために読んだルーマンの論文のまとめです。

Niklas Luhmann
Identität - was oder wie?
Soziologische Aufklärung 5
(2009, VS Verlag) S.15-30.

Niklas Luhmann,
Translated by Joseph O’Neil and Elliott Schreiber
Identity - What or How?
Theories of Distinction,
edited by William Rasch (2002, Stanford University Press) pp.113-127.


私が重要とみなした箇所の原文と英語翻訳を示した上で、私の日本語翻訳と解釈と翻訳上の注記を書いています。私が知る限りこの論文の日本語訳はないので、今回はことさらに私の翻訳の間違いを怖れます。もし誤りがあればご指摘いただければ助かります。



■ 二次観察は、他の一次観察を観察対象とする点では特殊だが、その他の点では他の一次観察と同様のことをなしうるだけである。二次観察が、神秘的あるいは超越論的であるわけではない。

・原文
Zunächst ist rasch einzusehen: Die Beobachtung zweiter Orndung kann es nur als eine Beobachtung erster Ordunung. Auch sie muß ja etwas (nämlich: einen Beobachter) bezeichnen. Sie kann es nur als eine schlicht durchgeführte Operation. Daran ist also nichts Esoterisches und nichts Transzendentales. Sie tut, was sie tut, wie jede Operation, und wenn sie es nicht tut (was aber nur ein weiterer Beobachter feststellen könnte), tut sie es nicht. All das, was sie am Beobachter erster Ordunung beobachten kann, gilt also auch für sie selbst. Sie kann keinen privilegierten, keinen extramundanen Standpunkit in Anspruch nehmen. (S.16)

・英語翻訳
First, one readily observes that the second-order observation can do so only as a first-order observation. It must indeed designate something (namely, an observer). It can do so only as a simply executed operation. This, there is nothing esoteric or transcendental about this. The observation does what it does, like every operation, and when it does not do so (which, however, only another observer can establish), it does not. Everything that an observation can observe of a first-order observer is valid for that observation itself. It can claim no extraworldly, privileged standpoint. (p.114)

・拙訳
最初にまず理解しておかねばならないことがある。それは、二次観察がなしうることも、一次観察としてなしうることにすぎないということだ。たしかに二次観察は何か(つまり、ある観察者)を指し示さなければならない。だが、二次観察はその指し示しを単に一つの作動として実行するだけである。ここに神秘的なことや超越論的なことはない。二次観察は、他の作動と同じようになしうることを行うだけであり、(別の観察者はなしとげうるが)その二次観察ができないことは行わない。二次観察が、一次観察について観察できるすべてのことは、その二次観察においてのみ有効である。二次観察が、特権的あるいは脱世界的な立場を要求することはできない。

・解釈
ある観察者によるある観察(=一次観察)を対象として観察する二次観察は、たしかに観察の観察という点では特殊であるが、その他の点では他の一次観察であるにすぎない。したがって、その二次観察も、他の観察者による二次観察の対象となりうる(その場合、その前者の二次観察は、後者の二次観察の対象としての一次観察となる)。したがって、二次観察は、他の観察の対象となることを免れた神秘的(あるいは脱世界的)なものでもなく、他の観察とは別種の超越論的(あるいは特権的)なものでもない。

・訳注
ここではDie Beobachtung zweiter Orndung (the second-order observation)に対して「二次観察」という訳語を充てているが、もちろんこれは長岡克行先生(『ルーマン/社会の理論の革命』のように「第二階の観察」と訳すこともできる(ちなみにこの本はルーマンの解説書としてはすばらしいものです。ルーマンを勉強するつもりならこの本は「安い」と思います)。



■ 二次観察は、一次観察の対象と様式、そして一次観察が観察していない対象、さらには観察していない対象についての一次観察者の無自覚までも観察する。

・原文
Aber Beobachtung zweiter Ordnung ist ja nicht nur Beobachtung erster Ordnung. Sie ist weniger und sie ist mehr. Sie ist weniger, weil sie nur Beobachter beobachtet und nichts anderes. Sie ist mehr, weil sie nicht nur diesen ihren Gegenstand sieht (=untersceidet), sondern auch noch sieht, was er sieht und wie er sieht, was er sieht; und eventuell sogar sieht, was er nicht sieht, und sieht, daß er nicht sieht, was er nicht sieht. (S.16)

・英語翻訳
But second-order observation is indeed not only first-order observation. It is both more and less. It is less because it observes only observers and nothing else. It is more because it not only sees (= distinguishes) its object but also sees what the object sees and sees how it sees what it sees, and perhaps even sees what it does not see and sees that it does not see that it does not see what it does not see. (pp. 114-115)

・拙訳
しかし二次観察は、単なる一次観察ではない。二次観察は一次観察以下とも以上とも言える。二次観察が一次観察以下というのは、二次観察が観察者だけしか観察せず他は何も観察しないからである。二次観察が一次観察以上であるというのは、二次観察は、対象を見る(=区別する)だけでなく、その対象が見るものおよびその対象がどのようにそれを見ているかを見るからであり、最終的には、その対象が見ていないものを見て、その対象は自分が見ていないものを見ていないということを見てとるからである。

・解釈
念のためにまとめると、二次観察が一次観察について観察することは、 (1) 一次観察が観察対象としていること(was, what) (2) 一次観察の観察様式(wie, how) (3) 一次観察が観察していない対象、 (4) 一次観察者が(3)について自覚していないこと、の四つとなる。

このうち (1) は、二次観察にとって二次観察をする限りにおいて自動的に与えられている所与のものであり(後述)、二次観察にとってより重要なのは (2) である。つまり、二次観察にとって重要なのは、一次観察がそれをどのように (wie, how) 観察しているかである。

二次観察がさらに徹底すれば、二次観察は (3) も観察し、一次観察が観察できていないものも観察できるだろうし、さらには (4) すなわちそのことについて一次観察者が無自覚であることも観察できるだろう。

このことを図示化するなら、次の二つの図のようになる。



1 一次観察(者)を観察する二次観察(者)


2 さらなる二次観察(者)により観察の対象となった二次観察(者)

・訳注
ドイツ語の "sehen"は、英語の "see" と同じように「視覚的に見える」という意味と、「精神的に理解できる」という比喩的な意味の両方があり、原文(および英語翻訳)ではその両義性が一つのことばで表現されている。拙訳でもそれを踏襲したかったが、文体上の理由から前者を「見る」、後者を「見てとる」と訳出するにとどまった。



■ 二次観察が多用されることにより、観察者自身が自分の観察について反省するという認識論が誕生した

・原文
In diesem Zusammenhang entsteht jene neuartige Reflexion, die es darauf anlegt, sich selbst als Beobachter zu beobachten und auf diese Weise nach den Bedingungen der Möglichkeit von Erkennen und Handeln zu fragen. Diese Form beherrscht die neuere Erkenntnisthorie (ein Ausdruck, der ernst im 19. Jahrhundert genau dafür geschaffen wird).  (S.20)
・英語翻訳
In this context, there arises the new kind of reflection that emphasizes the observation of oneself as an observer and the inquiry by those means into the conditions of possibility of knowledge and action. This form dominates historically recent epistemology (an expression that was created in the nineteenth century for just this purpose). (p.119)

・拙訳
こういった文脈で新種の反省が生じてきた。その反省は、自らが観察者として自分自身を観察し、認識と行為が可能になる条件のあり方を問うことを目指す。この形式が新しい認識論の特徴となった(そもそも認識論という表現は、19世紀にまさしくこの目的のために作り出されたものである)。

・解釈
ここでの「こういった文脈」とは、登場人物の行い(=登場人物の一次観察の結果)が淡々と語られる古代からの叙事詩から登場人物の行いが語り手の観察(=登場人物の一次観察を対象とする語り手の二次観察)を通じて語られる近代の小説へと移行したことや、観察者が自覚していないが観察者の観察に影響を与えている要因の存在が知られ始めたことや、歴史研究が以前のように単に歴史を記述(=一次観察)することから一次観察の結実である複歴史書を検討(=二次観察)するようになったことや、字義通りの意味(=一次観察)を踏まえた上でそれとは異なる意味で理解されるようにことばを使うこと(=二次観察)などのことである。本来ならこのあたりはルーマンの詳細な歴史社会学的記述を読みこなして解説するべきでしょうが、私にはそのような力量がないので、ここでは以上の簡単な記述で終えておきます。

ともあれ、二次観察とは特段に特別なことではなく(=神秘的・超越論的・特権的・脱世界的なことではなく)、近代社会では多用されていることであることは留意しておくべきことでしょう。

・訳注
特になし。ただし、次の原文は、改行されないまま上の原文に続いていることは述べておきます。私からすれば、次の原文はかなり大きな論点の導入なので、改行して新しい段落として始めるべきかと思いますが、まあ、それはそれとして。



■ 二次観察においては、二次観察者も一次観察の対象を一次観察者と同じようにとりあえず同じ対象として観察するが、二次観察者の観察様式は一次観察者の観察様式とは異なりうる。観察の「何」は同じでも「いかに」が異なるという点で、これは「同じものを同じではないように」扱うということとなる。

・原文
Wenn ein Beobachter aber beobachtet, was ein anderer Beobachter als identisch ansetzt, kann er sich die Freiheit nehmen, anders zu identifizieren, andere Unterscheidungen zu verwenden, von anderen Gegenbegiffen her zu interpretieren, kurz: Dasselbe als Nichtdasselbe zu behandeln. (S.20)

・英語翻訳
However, when one observer observes what another observer establishes as identical, he can take the liberty of identifying otherwise; of using other distinctions; of interpreting based on other, contrary concepts; In other words, of treating the same as not the same. (p.119)

・拙訳
しかし、ある観察者が、他の観察者がその観察者にとっても同一なものであるはずとみなしているものを観察する時、その観察者は、異なった同一性の確定を行い、異なった区別を用い、異なる対立概念の観点から解釈するという自由を獲得する。短く言うなら、同じものを同じでないものとして取り扱う、ということである。

・解釈
二次観察者は、一次観察 --より正確に言うなら、 (1) 一次観察が観察対象としていること (was, what) (2) 一次観察の観察様式 (wie, how) (3) 一次観察が観察していない対象、 (4) 一次観察者が (3) について自覚していないこと、の四つ-- を観察するわけであり、 (1) すなわち「何・waswhat」は一次観察(者)からそのまま受け入れ、 (2) すなわち「いかに・wiehow」についての観察を主に行う( (3) (4) についてはここではとりあえず割愛)。

この時、二次観察者はある対象Xについて、一次観察者とは様式(いかに・wiehow)の点で異なる同一性の確定を行っているわけであり、これは二次観察者が一次観察者とは異なる区別を使っているということ、一次観察者が使った概念とは異なる概念で観察しているということである。

ここで生じているのが「同じものを同じでないものとして取り扱う」ことであり、ここに現実の多元性が生じている。このあたりの議論は、大筋としてはアレントの議論とも通底しているのではないかと私は考えています。

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・訳注
"Gegenbegiffen"は英語では "contrary concepts"と訳されてもいますが、それほど正反対の概念である必要はないと思われますので、拙訳では「対立概念」ぐらいの表現にとどめておきました。



■ 一次観察者を二次観察者が二次観察することは、二人の一次観察者が同じ対象について別々の把握で別々の観察を行っていることではない。二次観察は、一次観察の対象を二次観察者が所与のものとして受け入れることから始まる。

・原文
   Wohlgemerkt: es handelt sich nicht nur um einfache Auffassungsverschiedenheiten – der eine meint, es sei ein Hase, der andere meint, es sei ein Kaninchen. Das Problem ist vielmeher, daß man einen Beobachter nur beobachten kann, wenn man sich das, was er sieht, duruch ihn geben läßt. Denn anderenfalls würden einfach zwei verschiedene Beobachter erster Ordunung nebeneinander in die Welt blicken. Oder noch schäfter pointiert: es geht nicht einfach um nebeneinander existierende psychische Systeme, die nach Maßgebe ihreer eigenen Strukturen Informationen erzeugen und verarbeiten mit dem Ergebnis, daß die Resultate divergieren. (S.20)

・英語翻訳
Note that it is not a case of simple differences of comprehension -- one person thinks something is a hare, the other thinks it is a rabbit. The problem is rather that one can observe an observer only when one allows what the other sees to be given to one by the other. Otherwise, two different first-order observers would simply be looking into the world side by side. Putting a finer point on it, it is not about psychic systems existing next to each other that generate and process information according to the standards of their own structures, with the effect that the results do not agree. (p.119)

・拙訳
念のために述べておくなら、これは、一人があるものを野うさぎと言い、もう一人が飼うさぎと言うといった、単なる見解の違いの問題ではない。問題となっているのはむしろ、私たちがある観察者を観察できるのは、私たちが、その観察者によって与えられたものを自分が見ているものとするときのみであるということだ。というのも、さもないと、単に二人の異なる一次観察者がこの世界において隣り合わせでものを見ているだけになるからだ。あるいはもう少し正確に述べるなら、これは隣り合わせに存在している心理的システムが、それぞれ固有の構造条件にしたがって情報を産出し加工して、それぞれに異なる結果を得るという問題ではない。

・解釈
あるものを一人が野うさぎと言い、もう一人が飼うさぎだと言う時、その対象の同一性はまったく問題になっていないままに二つの同型異種の一次観察が並行して行われるだけである。だが、二次観察の場合、二次観察者は一次観察者の観察対象をとりあえず自らの観察対象とするものの、その観察様式は異なりうるし、おそらくは一次観察者の観察対象以外のものも観察対象になる(そもそも一次観察者自体も二次観察者の観察対象となっている)。一次観察者と二次観察者は異型異種の観察を行っている。

・訳注
特になし。以下の箇所は、この箇所に直結している。



■ 二次観察は社会でのコミュニケーションの問題につながる。社会でコミュニケーションが生じる場合、参加者が認識できていない前提などでコミュニケーションが破綻することも多い。それでも社会全体としては、コミュニケーションにおいて見えていないことが自分たちには見えていないことを自覚しながらコミュニケーションが継続されなければならない。一次観察が見ていないことを見ることによって、二次観察は社会全体でのコミュニケーションに貢献できるだろう。

・原文
Sondern es geht um ein Problem gesellshaftlicher Kommunication, bei dem in der Gesellschaft die Kommunication duruch latente Strukturen gebrochen wird und sie folglich Inkommunikabilitäten einarbeiten muß. Die Gesellschaft insgesamt operiert dann als ein System, das sehen kann, daß es nicht sehen kann, was es nicht sehen kann. Und offensichtlich ist das System in der Lage, Kommunication trotzdem fortzusetzen, wenngleich mit der Schwierighkeit, zu beschreiben: wie. (S.20)

・英語翻訳
Instead, it has to do with a problem of social communication in which communication in society is broken up through latent structures and must as a result factor in incommunicabilities. Society as a whole then operates as a system that can see that it cannot see what it cannot see. And in spite of this, the system is in a position to continue communication, even if it has difficulty describing how. (p.119)

・拙訳
そうでなく、これは社会のコミュニケーションの問題である。社会では、コミュニケーションが隠れた構造によって破綻し、それゆえコミュニケーションはコミュニケーションの不可能性に対応しなければならなくなる。その際、社会は全体として一つのシステムとなり作動する。このシステムは、自分が見ることができないものを見ることができないということを見とっている。それにもかかわらず、このシステムは明らかにコミュニケーションを続けなければならないという状況にある。どうやって続ければよいかを記述することが難しいにもかかわらず。

・解釈
例えば原子力発電という対象について、一人が賛成と叫び続けもう一人が反対と叫び続ける二人の一次観察者の共存では、それぞれが見えていないことが、相手にも自分自身にも見えないままになるので、二人の齟齬は広がるばかりでコミュニケーションの継続は困難になるだろう。

しかしもし一方が他方の二次観察をすれば --例えば、原発反対者が自説の反対論を唱える前に、とりあえず原発推進者の主張を(正しいとも間違っているとも決めつけることなく)二次観察の対象として、原発推進者の観察様式(および観察の限界)について二次観察し、原発推進者が当然のこととしている観察様式や原発推進者が観察していないことについて述べれば、少しはコミュニケーションも噛みあうかもしれない(もちろんお互いが感情的に激昂していなければの話だが)。

もちろん原発推進者も、原発反対者のその二次観察を対象として、新たな二次観察を行い、原発反対者の二次観察者で原発反対者が採択している観察様式やその限界について述べることもできる。そのようにコミュニケーションを継続してゆけば、それぞれが自覚なしに当然と思い込んでいたことをお互いに認識することができ、その分だけ、コミュニケーションの破綻の危険は減少するだろう。

大筋で言えば、このあたりは、ボームが対話論で言っていること、特に「決めつけないこと」(to suspend)とつながっているように私は考えています。

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・訳注
ここでは "gesellshaftlicher Kommunication"という表現が使われ、形容詞は"sozial"ではありません。あくまでも"Gesellschaft" --「社会全体」、多くのルーマン翻訳書では「全体社会」と訳されています-- のコミュニケーションについて語っていると私は理解しました。ルーマンが "sozial"と言う時、彼は、「自我の視点とならんで、一つの(または多数の)他我の視点が考慮される」といった意味(『社会システム理論』第二章「意味」・第六節「意味の三つの次元」)を込めていると私は理解していますので、私は今のところ "gesellshaftlich"系のことばの場合は「社会の」、"sozial"系のことばの場合は「社会的」と訳し分けてますが、そもそもこの理解と訳し分けでいいのか私はまだ確証を得ていない思いです。とにかく時間と体力をかけてルーマンを丁寧に読みたいと思いますが、なかなか時間が取れません(←単なる愚痴w



■ 「Xとは何か」という同一性についての直接的な問いに答えることを断念すると、「いかに私たちはXというものを認めるのか」、「Xというものを認めることによって何が可能になるか」という問いについて考えることが可能になる。これは意味構成の発生理論、あるいは構成主義的な考え方であり、この考え方により世界の複合性について考えやすくなるし、自己生成システム(オートポイエーシス・システム)の理論の枠組みでも考えやすくなる。

・原文
Der Verzicht auf Identitätvorgaben ermöglicht die Frage, wie Identität produziert wird und was als Folge dieser Produktionsweise vorliegt. Diese Frage zielt auf eine genetische Theorie der Sinnkonstitution. Kann sie beantwortet werden, so gewinnt man damit einen Zugang zur phänomenalen Komplexität der Welt, der nicht darauf angewiesen ist, im Sinne der Phänomenologie das, was vorliegt, in sener Erscheinungsweise zu beschreiben und, weil dies zu viel wäre, es auf Arten, Gattungen oder Typen zu reduzieren. Die genetische Perspektive wird markiert durch die Form der Fragstellung. Wir fragen nicht, was etwas Identisches ist, sondern wie das erzeugt wird, was dem Beobachten als Identisches zu Grunde gelegt wird. Damit verschiebt sich der Begriff der Idnetität in eine Richtung, die heute als „konstruktivistish“ bezeichnet wird. Er bezeichnet nicht mehr die Form, in der Seiendes in Übereinstimmung mit sich selbst existiert, sondern zunächtst „idealistisch“ eine Leistung der Synthese von Eindrücken externer Herkunft, die als soche eben deshalb nicht identifiziert werden können; und er bezeichnet schließlich in Kontext einer Theorie autopoietischer Systeme nur noch die Form, die das Kontinuieren der Operationsabfolge in einem System sichert, und zwar sichert durch die Unterscehdung von identisch/nichtidentisch. (S.21)

・英語翻訳
Renouncing claims to identify makes possible the question of how identity is produced and what presents itself as a consequence of this manner of production. This question aims at a genetic theory of the constitution of meaning. If it can be answered, one will gain access thereby to the phenomenal complexity of the world. Such access need neither describe in its manner of appearing what presents itself (“presents” in the sense of phenomenology) nor, since this would be too much, reduce it to kinds, genera, or types. The genetic perspective is marked by the form in which the question is posed. We do not ask what something identical is, but how something is generated that, as identical, grounds observation. With this, the concept of identity shifts in the direction that is today designated as “constructivist.” It no longer designates the form in which what exists is in accord with itself, but, first of all, designates “idealistically” the achievement of the synthesis of impressions that originate externally, which as such cannot for this very reason be identified. Finally, in the context of a theory of autopoietic systems, the concept of identity designates only the form that secures the continuing of the sequence of operations in a system; to be exact, it secures them through the distinction identical / nonidentical. (pp.119-120)

・拙訳
同一性規準について断念すると、同一性とはいかにして生成されるものであり、そのような同一性生成の結果として何が生じるかという問いが可能になる。この問いは、意味構成の発生理論を目指すものである。この問いに答えが与えられたならば、私たちは世界の現象的複合性へと接近することができる。この接近は、現象的に何が生じているかを、現象学的意味で記述することには依拠していない。また、あまりにも数が多くなるだろうから、種類やジャンルや類型に還元したりすることにも依拠していない。発生理論の視点は問題設定形式によって特徴づけられている。私たちは、同一であるものが何であるのかとは問わずに、観察において同一であるとして基礎づけられるものがいかにして生じるかを問う。このことによって、同一性の概念は、今日「構成主義的」として示されている方向へと向かう。同一性の概念は、存在するものがそれ自身と一致して存在しているという形式をもはや示さず、とりあえず「理念的」には、外から来るさまざまな印象を統合した成果として示される。だが外から来るさまざまな印象というのは、その性質上、同一化できないものである。同一性の概念は、最終的には自己生成システムの理論の文脈の中で、あるシステムの中での作動継続の連続性を確保する形式で示されるのみである。しかも、それは「同一である/同一でない」という区別で確保される。

・解釈
私たちの問いを「Xとは何か」ではなく、「私たちはいかにしてXというものを認めるのか」にして、私たちの探究を同一性についての「何・waswhat」ではなく、「いかに・wiehow」についてのものにするというのは大きな変化である。もちろんXにはさまざまなものが入りうる。例えば「学習意欲」を入れるなら、私たちの問いは「学習意欲の正体とは何か」といったものから、「私たちはどういう場合に生徒に『学習意欲』があると認めるか」になる。前者の問いなら、問われた教師は、神経科学や心理学や哲学などの背景知識がないと答えられない(あるいは答えてはいけない)と思うだろうが、後者の問いなら「例えば・・・」と語り始めることができるだろう。

そうやってある教師が学習意欲について語ることを聞いていれば(=二次観察してゆけば)、その教師の学習意欲についての観察の傾向や限界などがわかり、お互いが学習意欲についてどのように考え、どのように教育を捉えているかについて語り合うことができるだろう(「それは『本当の』学習意欲ではない!」などと口角泡を飛ばさずことなく)。

このような構成主義的態度を取ると、X(例えば「学習意欲」)とは、とりあえず語り合っているそれぞれが思っていることの集合体と「理念的には」考えることができるかもしれないが、実際は、それぞれが思っていることが一致しているわけでも、うまく合算できるものでもないだろう。「Xとは○○である」と観念的に定義することはできても、それぞれの具体例では、それぞれの思いは微妙に違うだろう。それは、さまざまな概念を私たちは知っているとは思っているものの、その概念の具体的な使用については各人の意見が一致しないことを示したソクラテスの知恵につながるものなのかもしれない。

だからといって、私たちは各人が好き勝手なことを思いながら、てんでバラバラに発言を重ねているのではない。私たちはコミュニケーションにおいて、「それは学習意欲とはいえないでしょう」といった発言が出ないかぎりにおいて、つまりは学習意欲についてのコミュニケーションが継続されている限りにおいて、学習意欲(X)についての理解を共有しており、コミュニケーションの参加者は、この世界の複合性についてそれなりに語り合うことに成功している。

そもそも世界が単純な対象から構成されているのなら、「Xとは何か」という問いは簡単に答えられ、「いかに私たちはXを認めるか」といった問いは必要ないだろう。こう考えると、同一性の「何・waswhat」を問うか、「いかに・wiehow」を問うかという選択は、世界を単純なものとみなすか、複合的なものとみなすかという違いから生じているといえるかもしれない。

ウィトゲンシュタイン的な語り方を導入するなら、「Xとは何か」という問いに超越論的に答えようとする代わりに、Xに関する私たちの「言語ゲーム」(=Xについての語り方)を観察せよということになるだろうか(「考えるな、見よ!」)。あるいは、「Xとは○○であるに違いない」という個人的な思いも、コミュニケーションの俎上に載せられなければ、その思いは一種の「私秘言語」にすぎないと解釈できるのかもしれない。逆に言うなら、どのような思いもコミュニケーションの中で認められる限りにおいて、複合的な世界への一つの接近法として成立するといえるだろうか。コミュニケーションにおいて私たちの知識は成立するというのが構成主義的な考え方といえるのかもしれない。

・訳注
この引用箇所の第3文は正直難しく、私は統語的にきっちりと理解できているとはいえません(自らのドイツ語文法の知識の貧困さを嘆きます)。
また、„idealistisch“  (“idealistically”) は、とりあえず「理念的」と訳しましたが、この語が „Ideal“の派生語であると考えるなら、一応は、カントによる „Ideal“ の定義のことも考えておいた方がいいかもしれません。カントは知性 (Verstehen, understanding) の概念 (Begriff, concept) と、より抽象的な理性 (Vernunft, reason) 理念 (Idee, idea) を区別しましたが、„Ideal“ (ideal、理想) は、理念を体現している具体例の個体を意味します。

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■ すべての観察とは、究極のところで、ある区別(Xである/Xではない)をすることができるということ、より精確に言えば「これはXである」という区別に基づく指し示しができることである。しかし区別ができるといっても、それは「Xとは何か」という同一性概念を明確に有しているというわけではない。同一性は、区別を繰り返す時に要求されるが、区別ができている限りにおいて、「Xとは何か」という同一性に関する直接的な問いに対する答えは必要ない。


・原文
Aufs Elementarste reduziert, ist alles Beobachten ein unterscheidendes Bezeichnen, oder genauer: die Bezeichnung der einen (und nicht der anderen) Seite einer Unterscheidung. Das erfordert noch nicht, daß das, was bezeichnet wird, als Identisches festgehalten wird. Man muß es nur unterscheiden können. Eine Identifikation wird erst erforderlich, wenn die Operation wiederholt werden soll, also wenn sich ein System bildet, daß sich im Anschluß von Operation an Operation reproduziert. (S.21)

・英語翻訳
Reduced to the most elementary level, all observation is a distinguishing designation, or, more precisely, the designation of the one (and not the other) side of a distinction. This does not yet require what is designated to be maintained as identical. One must only be able to distinguish it. An identification is first required when the operation is to be repeated, hence when a system is formed that reproduces itself in the linkage of operation to operation. (p.120)

・拙訳
もっとも基本的なレベルに還元してしまうなら、すべての観察は区別を示す指し示しである。もっと精確に言うなら、ある区別の一つの側の指し示しであるもう一つの側の指し示しではない。しかしこのことによって、同一のものとして指し示されるものが把持されることが必要になるわけではない。区別ができることが必要なだけである。同一性の確定は、作動が繰り返されなければならない時、つまりシステムが自己を形成し作動から作動への接続が再生産される時にはじめて必要になる。

・解釈
引き続き学習意欲の例を使えば、例えば教師が生徒の学習意欲について観察ができるということは、「学習意欲とは○○である」という正確な知識 --それが何を意味するものであれ-- を有していることを必要とはせず、教師が「こういう場合は学習意欲がある」という区別ができること(そしてその区別が仲間とのコミュニケーションで認められること)である。

教師は「この場合は、学習意欲がないと言っていいのかどうかどうかわからない」と迷ってもかまわない。学習意欲についての観察は、「学習意欲がある/ない」という区別のうち「学習意欲がある」という側についての指し示しができればよいからである。

「学習意欲」の同一性は、確かに区別が行われるたびに要請されている。だがこの要請は、区別が行われ、その区別がコミュニケーションにおいて認められる時に解消され、その要請に明示的に答えることは格段には求められない(もし明示的な答えが提示されても、今度はその答えの同一性に対する直接的な問いは生じるだろう。もちろん、その場合も、私たちはその答えが示す区別ができればよいだけのことであるが)。

・訳注
特になし。


■ すべては、どのような区別に基づいた観察がなされているか次第である。存在について考察する存在論も、区別に基づく観察次第であり、観察とは独立した存在そのものといったものは想定しない。観察は、自らを取り巻く環境の中から自己生成するオートポイエーシス・システムによる作動として行われる。これを相対主義と呼ぶならそう呼んでもかまわない。

・原文
Mit einigen abschließenden Bemerkungen soll bestätigt (konfirmiert!) werden, daß wir uns mit den vorstehenden Überlegungen auf einen unausflösbaren Relativismus eingelassen haben. Alles, die Ontologie selbst eingeschlossen, hängt davon ab, welche Unterscheidungen einer Beobachtung zu Grunde gelegt wird. Unterscheidung und Bezeichnen ist dabein als Operation eines Beobachters begriffen. Dieser Beobachter operiert mit Bezug auf eignen andere Operationen, operiert also als System. Das heißt: er differenziert sich dadurch, daß er beobachtet, aus einer Uwelt aus; und er kann sich selbst dann nur beobachten, indem er sich von seiner Umwelt unterscheidet. Die Welt bleibt stets der „unmarked state“, der sich nur dadurch beobachten läßt, daß er in sich eine Ausdifferenzierung, also Formbildung, also Grenzbildung toleriert. (S.27)

・英語翻訳
A few closing comments should reinforce (confirm!) the suspicion that with our previous considerations we have engaged in an insoluble relativism. Everything, even ontology itself, depends upon what distinctions an observation is based on. In this context, distinguishing and designating are understood to be the operations of an observer. This observer operates with reference to his own other operations, and thus operates as a system. That is to say, he differentiates himself from an environment by observing; and he can observe himself only by distinguishing himself from this environment. The world always remains as the unmarked state that can be observed only by tolerating in itself differentiation, and hence the construction of the form. (pp.126-127)

・拙訳
最後に若干の所見を述べて、これまでの考察で私たちが解決不可能な相対主義に入り込んでしまったことを追認(確認!)するべきだろう。存在論自体も含めたすべてのものは、どの区別が観察の基礎におかれるかにかかっている。区別と指し示しはこの場合、観察者の作動として把握される。この観察者の作動は、自分の他の作動との関連で行われる。したがって、観察者はシステムとして作動している。つまり、観察者は、観察によって環境から自己を分出することことによって自己を分化する。その際、観察者は自己そのものを観察するのだが、それはその観察者が自らの環境から自己を区別する限りにおいてである。世界は常に「無標状態」のままである。無標状態の世界が観察されることが可能になるのは、無標状態が、分出を許容し、そのことによって形式設定さらには境界設定を許容するからである。

・解釈
ルーマンはしばしば挑発的な言い方を好むので、ここでの「解決不可能な相対主義」も確信犯的に使った用語であると考えられる。ここでの相対主義は「すべては観察次第」と言い換えられるであろうが、この観察は自己生成システム(オートポイエーシス・システム)の作動として行われるものであり、観察は「何でもあり」 (anything goes) ではない。

観察は自己生成システムが、システムとして自己を再生産できる限りにおいて行われる。個人のレベルの観察においても、過去の観察と明らかに矛盾が意識で自覚されるような観察は行われない。複数の人間の間でのコミュニケーションのレベルにおいても、コミュニケーション共同体に認められずコミュニケーションが成立しなくなるような観察は行われない。

この箇所の後半では、自己生成システムが自己を生み出し観察することについて述べてあるが、自己生成システムの成立と観察は、「自己生成システムである/自己生成システムでない(=環境)」という区別と指し示しによって可能になる。

「自己生成システムである/自己生成システムでない(=環境、Umwelt, environment)」という区別と指し示しが可能になったところでは、自己生成システムがそれを取り囲む環境の中で独自の作動を続けることが観察されるが、「世界」(Welt, world)とはそういった区別も何もない「無標状態」 (unmarked state) なものとして想定されている。

・訳注
"Unterscheidung und Bezeichnen ist" という単数形扱いの表現からは、ルーマンが区別と指し示しを同時に行われる一つの作動とみなしていることが推測される(英訳では複数形扱いの表現となっている)。

"er differenziert sich dadurch, das er beobachtet, aus einer Uwelt aus" については、"ausdifferenzieren" が主節の動詞として使われていると解釈した。"Differenzierung" "Ausdifferenzierung" の違いは、日本語翻訳では「分化」と「分出」と訳し分けられることで示されているが、私が知る限り "Ausdifferenzierung" の英語定訳はないように思われる(ただ私は読書量が少ないのでそう思い込んでいるだけかもしれません。どなたかご教示いただけたら幸いです)。

"Welt" "Umwelt"の関連性はドイツ語表現では明々白々であり、"Welt" がすべての母体のようなもので、"Umwelt" は自己生成システムを囲んで (um, around) おり、自己生成システムと不即不離の関係にある "Welt" であると理解しやすい。だがこの関係性は、英語翻訳 (world, environment) や日本語翻訳(世界、環境)では必ずしも明白になっていない。そのため"Umwelt" を「環世界」あるいは「環境世界」と訳すことも考えられるが --実際、ユクスキュルの用語翻訳はそうなっている--、今回は「環境」という訳語を用いた(今後、いろいろと考えてゆきたい)。

"unmarked state"はわざわざ英語で書かれているので、ここにもG. Spencer-Brown (Laws of Form) の影響が見られる。

また、この語の訳語としては敢えて言語学用語を転用した。



■ 「すべては観察に基づく」という相対主義を、「すべては主体の選択次第である」といった主体主義と合体させてはいけない。観察はシステム作動であり、システム作動はシステム再生産のための条件をみなさなければならないので、観察をまったく恣意的に行うことはできない。社会的存在である人間も、社会でのコミュニケーションで可能になるという枠組みの中でしか選択はできない。

・原文
Verhängnisvoll ist es allerdings, diesen Relativismus mit dem modernen Subjektivismus zu kombinieren. Diese kombination, die uns eine auf Dilthey zurückgehende „lebenphilosophische“ Hermeneutik anraten will, würde zu der Konsequenz führen, daß der Mensch, begriffen als sich selbst zu Grunde liegendes Subjekt, die Unterscheideungen wählen kann, mit denen er die Welt zerlegt und das zu Beobachtende bezeichnet. Er könnte danach diese oder jene Theorie akzeptieren, in euklidischen oder in posteulkidischen Räumen leben, eine aristotelische oder eine newtonsche oder eine einsteinsche Physik bevorzugen. Das ist jedoch eine unhaltbare Vorstellung. Denn alle Systempoerationen sind, wie unbestrittene Forschungen über die Logik von Selbstorganisation zeigen, stets nur als konditionierte Operationen möglich. Und Menschen sind durch Teilhahme an gesellschaftlicher Kommunikation in einen Maße sozialisiert, daß sie nur in Rahmen dafür freigegenbener Möglichkeiten wählen können. (S.27-28)

・英語翻訳
However, it is deleterious to combine this relativism with modern subjectivism. This combination, which recommends to us a “vitalist” hermeneutics stemming from Dilthey, would lead to the consequence that human beings, understood as self-grounding subjects, can choose the distinctions with which they dissect the world and designate what is to be observed. They could accordingly accept this or that theory, live in Euclidean or post-Euclidean spaces, select an Aristotelian or a Newtonian or an Einsteinian physics. This, though, is an untenable notion. For all system operations, as undisputed research into the logic of self-organization has shown, are possible always only as conditioned operations. And human beings are socialized through participation in social communication to such a degree that they can choose only from within the framework of possibilities that have been made accessible for this choice. (p.127)

・拙訳
もちろん、この相対主義を近代の主体主義と合体させてしまうのは致命的な誤りを招く。この合体により私たちはディルタイにまで遡れる「生の哲学」の解釈学を勧められ、次の帰結にまで導かれてしまう。すなわち、人間が自らを基礎におく主体だと把握され、人間はどの区別をするのかを自分で選ぶことができ、その選択によって世界を分解し、観察対象を指し示すという帰結である。そうして人間は、この理論でもあの理論でも受け入れることができ、ユークリッド空間においても非ユークリッド空間においても生活でき、アリストテレスの物理学だろうがニュートン物理学だろうがアインシュタイン物理学だろうが好きなものを好むことができることになる。しかし、これは維持できない見解である。というのも、自己組織性の論理に関する確固たる研究が示しているように、あらゆるシステム作動は、常に条件づけられた作動としてしか可能ではないからである。そして人間は、社会でのコミュニケーションへの参加を通じて、社会化されている限りにおいての自由な可能性の枠組みで選ぶことができるだけである。

・解釈
私たちは好き勝手な選択でもって、任意の異なる観察を接続させることはできない。人間は、社会がこれまで蓄積してきたコミュニケーションの歴史に基づきながら社会が生み出すコミュニケーションにおいて可能になる範囲の中で選択ができるだけである。また、個人レベルで考えても、個人は自己が継続を許す範囲の中での選択しかできない。この点で、ルーマンの「相対主義」あるいは「構成主義」は、しばしば悪しき意味の相対主義として呼ばれる類の相対主義ではない。

・訳注
„wählen“は、この英訳では“choose“となっているが、前者が、ルーマン自身が英語で書いた論文であるComplexity and Meaningで使われている “select” の意味で使われているかは今のところ不明。

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以上、長くなりましたが「お勉強ノート」として掲載します。誤りなどがありましたらご教示ください。





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