2016年5月5日木曜日

感受性、真理、決めつけないこと – ボームの対話論から





ボームは『ダイアローグ』でコミュニケーションにおいて感受性、真理、決めつけないことが重要であることも述べています。ここではこれらの概念についてまとめておきます。この「お勉強ノート」の作成の原則は、ボームに関する前回の記事と同じです。


感受性 (sensitivity) について

ボームは、彼が定義するような意味での対話(ダイアローグ、dialogue)を社会に普及させることが必要だと説きますが、その際には感受性 (sensitivity) が必要だと述べます。

But then, that requires sensitivity – a certain way of knowing how to come in and how not to come in, of watching all the subtle cues and the senses and your response to them – what’s happening inside of you, what’s happening in the group. People may show what is happening to them in the stance of their body – by their “body language” – as well as by what they say.
   They are not trying to do this purposefully, but you will find that it develops. That’s part of communication. It will be non-verbal as well as verbal. You’re not trying to do it at all. You may not even be aware that it is happening.
   Sensitivity is being able to sense that something is happening, to sense the way your respond, the way other people respond, to sense the subtle differences and similarities. To sense all this is the foundation of perception. The senses provide you with information, but you have to be sensitive to it or you won’t see it. (pp.45-46)

しかしそのためには感受性が必要となってきます。私たちは感受性によって、対話にいつ参入するかしないかを知り、微妙な端緒と感覚および私たちのそれらへの反応を注視します。つまり自分の内面では何が起こり、集団では何が起こっているかを注視するのです。私たちは、自分に何が起こっているのかを、発言だけでなく、身体の様子つまり身ぶりで示すかもしれません。
   私たちは自分の内面を意図的に表現しようとはしませんが、私たちの内面は他人にはわかってしまうものです。私たちの内面が現れてしまうことはコミュニケーションの一部です。非言語的に現れることもあれば、言語的に現れることもあります。しかし私たちは自分で現そうとしているのではありません。自分の内面が現れていることに私たちは気づかないことすらあります。
   感受性とは、何かが起こっていること、自分の反応がどうであるか、他人の反応がどうであるかを感覚でとらえること、微妙な相違点と類似点を感覚でとらえることです。これらすべてを感覚でとらえることが知覚の基盤となります。これらの感覚が情報となってゆきますが、私たちは情報に対して感受性を高めておかねばなりません。さもなければ情報も気づかれないままになってしまうでしょう。

ここでいう感受性とは、自分の身体の内側と外側で起こっていることを感覚でとらえることで、それにより私たちは対話を行うことができるとボームは言っています。人は自分でも気づかないままに自分の身体の内側で起こっていることを、身ぶりの形で現してしまうものですが、感受性の働きで私たちは、その発現を自分自身においても他人においても感覚的にとらえます。これが情報 ベイトソン的に言うなら、「違いを生み出す違い」 (a difference which makes a difference) – の基盤となります。感受性の働きが悪いと、そういった情報(違い)も気づかれないまま(自分の中に違いを生み出さないまま)になります。

情報に気づかないということは、自分の「思考のスクリーン」 (screen of thought) を通じてしか物事を観察しないということでもあります。これは感受性の働きが低いということです。

ボームはさらに、こういった感受性 (sensitivity) や感覚 (senses) と意味 (meaning) の関係についても説明します ここで英語の “sense” やドイツ語の “Sinn” の語義には「意味」もあることを私たちは思い起こしても面白いでしょう

So sensitivity involves the senses, and also something beyond. The senses are sensitive to certain things to which they respond, but that’s not enough. The senses will tell you what is happening, and then the consciousness must build a form, or create some sense of what it means, which holds it together. Therefore, meaning is part of it. You are sensitive to the meaning, or to the lack of meaning. It’s perception of meaning, if you want to put it that way. In other words, it is a more subtle perception. The meaning is what holds it together. (p. 46)

ですから感受性には感覚だけでなく、感覚を越えた何かが関わっているのです。私たちは感覚を通じて感受性を働かせある種の物事に対して反応しますが、それだけでは十分ではありません。感覚は何が起こっているかを告げてくれますが、そこに意識がある形象、すなわち、その意味の感覚を創造しなければなりません。意味こそが、私たちの内外で起こっていることをまとめてくれるのです。したがって、意味は、私たちの内外で起こっていることの一部です。私たちは意味に、あるいは意味の欠如に対して感受性を働かせます。これを意味の知覚と呼んでもいいかもしれません。もう少し言い換えるなら、感受性とは、より微妙な知覚です。意味が感受性をまとめるのです。

私なりに言い換えを試みます。私たちの身体の内外で起こっていることは膨大な情報をもつものですが、私たちは感受性の働きを通じてその一部を知ります。もちろんそれは感覚を通じて得た内容ですが、感受性とはそれだけのことではなく、私たちは意識によってそこから意味も得ます。感受性とは、単なる感覚を得るだけでなく、感覚を通じて意味を創り出す働きでもあります。意味によって、私たちは私たちの身体の内外で起こっていることをまとめることができます。別の角度から言い換えれば、感受性とは意味によってまとめられた知覚です。しかしもちろん、意味とは、私たちの身体の内外で起こっていることの一部にすぎません。私たちは、起こっていることのすべてを知ることなどできません。
ちなみにここでの “what is happening” あるいは “what’s happening inside of you, what’s happening in the group” は、ダマシオの著作のタイトルである The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness を思い起こさせて非常に興味深いです(邦題は『無意識の脳 自己意識の脳』)。こういった点から私はボームの論を、他の意識論や意味論やコミュニケーション論と整合性が高いもの(あるいは連動性 (coherence) が高いもの!)と考えています。 
関連記事: “The Feeling of What Happens” のまとめ



意味を「感受性による、私たちの身体の内外で起こっていることのまとめ」と考えるボームは、意味が諸事象をつなぐこと、そして意味が流動的であることを再び強調します。

As I said, it is the “cement.” Meaning is not static – it is flowing. And if we have the meaning being shared, then it is flowing among us; it holds the group together. Then everybody is sensitive to all the nuances going around, not merely to what is happening in his own mind. From that forms a meaning which is shared. And in that way we can talk together coherently and think together. (p.46)

前にも言いましたように、意味はセメントのようにつなぐ働きをもちます。しかし意味は固定的なものではなく、流動的なものです。もしそんな意味が共有されたら、意味は私たちの間を流れてゆきます。そして私たちを集団としてまとめます。そうなると、誰もが自分の心の中で起こっていることだけでなく、その場で起こっているあらゆる機微に対しての感受性を高めます。そこから共有される意味が生じるのです。このようにして私たちは共に連動的に語り合い、共に考えることができるのです。


対話の連動性が高まれば、私たちは共に考えるとボームは言います。こうして共に考える時、私たちは、ある意味一種の「一つの身体」になっているのではないかとボームは言います。ちょっと聞くと「トンデモ系」の主張のようですが、早急に決めつけずに、まずはボームの主張を聞いてみましょう。

It’s possible to see that there’s a kind of “level of contact” in the group. The thought process is an extension of the body process, and all the body language is showing it, and so on. People are really in rather close contact – hate is an extremely close bond. I remember somebody saying that when people are in really close contact, talking about something which is very important to them, their whole bodies are involved – their hearts, their adrenalin, all the neurochemicals, everything. They are in far closer contact with each other than with some parts of their own bodies, such as their toes. So, in some sense there is established in that contact “one body.” And also, if we can all listen to each other’s opinions, and suspend them without judging them, and your opinion is on the same basis as anyone else’s, then we all have “one mind” because we have the same content – all the opinions, all the assumptions. At the moment the difference is secondary. Then you have in some sense one body, one mind. It does not overwhelm the individual. There is no conflict in the fact that the individual does not agree. It’s not all that important whether you agree or not. There is no pressure to agree or disagree.
The point is that we would establish, on another level, a kind of bond, which is called impersonal fellowship. (pp.36-37)

[対話を行う] 集団の中に、一種の別の「連係の水準」があると言えるかもしれません。思考の過程は身体の過程の過程であり、身ぶりがそれを示しています。私たちはかなり密接に連係しているものです。例えば、憎しみは非常に密接な連結です。かつて聞いた話ですが、本当に密接に連係している人々が自分たちにとって非常に大切なことを話し合っているときには、それらの人々の全身が関わっています。心臓、アドレナリン、その他あらゆる神経化学物質、まさにすべてが関わっているのです。人々は、お互いと非常に密接に連係しており、その連係の度合いは自分自身の身体部位、たとえばつま先との連係の度合いよりも高いほどです。だから、ある意味で、こういった連係においては「一つの身体」ができあがっていると言えるでしょう。また、私たちがお互いの意見を傾聴し、裁くことなく決めつけることなく、自分自身の意見を他の誰の意見とも同じ基盤に立脚するようにできるならば、私たちは「一つの心」をもつことになります。なぜなら、私たちは、あらゆる意見、あらゆる思い込みという同じ内容を有しているからだ。そのとき、意見や思い込みの違いは重要ではありません。私たちはある意味で、一つの身体、一つの心をもっているのです。だからといって個人が抑圧されるわけではありません。個々人が同意できなくてもまったく問題はありません。一人ひとりが同意するとかしないとかはまったく重要ではないのです。同意せよとか同意するなといった圧力はまったくありません。
大切なことは、私たちが、[対話という]別の水準で、一種の連結をつくりだすことです。それは非個人的な連帯です。

私なりにいくつか言及しておきたい点があります。
  一つ目は、こういった人々のつながり(複数の人間の間での身体的同調関係)は多く観察・実証されていることであり、決して荒唐無稽なことではないということです。むしろ、こういった個人の枠組みを越えた関係を方法論的に排除する研究法こそが非現実的であるといえましょう。実践的には、たとえばオープンダイアローグでもこういった「情動共鳴」 (emotional attunement) は対話における重要な側面として強調されています。
  関連記事: オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
  二番目は、ここで「一つの身体、一つの心」ができあがっていると言われていても、これは何か物理的な実体や接合点が成立していることを意味しているのではないという点です。ボームが言っているのは、人々が空間的に離れていても、相互影響関係の中で一人の行動が他の人々の行動に影響を与えるという一種のシステムが形成されている -- 人々は全体と無関係な部分として分離できない -- ということだと私は理解しています。このあたり、「システム」とは何か(あるいは「オートポイエーシスシステム」とは何か)といった問いと共に慎重に考えてゆくべきでしょうが、本日は論点の指摘だけにとどめておきます。
  三番目は、人々が「同じ内容」 (the same content) を有しているといっても、それは(「心は一つ」といったことばでしばしば含意されるように)、全員の人々が一つの特定の考えだけをもっている(=その他の考えは排除している)という、いわば全体主義的な状況を意味はしていないということです。対話により、「一つの身体、一つの心」を形成した人々は、自他すべての意見や思い込みのどれも排除・否定することなく、互いに連動しあうものとして、早急な判断を避けながらすべての意見を自分たちの意識の中に共存させておくということです。
  このあたりは誤解されやすいでしょうし、また対話が全体主義的な抑圧につながると誤解されると危険だとボームも考えたのでしょうか、ボームは次のようにも書いています。
 
That does not mean that we are going to impose the opinions of the group. In this way the collective can often be troublesome. The group may act like a conscience, inducing powerful guilt feeling in its members, because we are all so built that we tend to regard what everybody agrees on as true. Everybody may or may not have a different opinion – it is not that important. It isn’t necessary that everybody be convinced to have the same view. (p.40)

だからといって、集団の意見を押しつけるわけではありません。押しつけると集団主義的であることがしばしば厄介なことになってしまいます。集団が道徳のようになってしまい、個々人に強烈な罪悪感を生み出してしまいます。なぜなら、全員が同意していることは真だと私たちみなしがちだからです。一人ひとりは異なる意見をもっているかもしれないしもっていないかもしれません。だが、それはあまりたいしたことではありません。全員が納得して同じ見解を持つ必要はないのです。

全員一致の合意 (consensus) は必要ないというのは、オープンダイアローグの多声性の原理でも言われていたことです。(The goal is to generate joint understanding, rather than striving for consensus.  私たちが目指しているのは、お互いが相補いながら理解することであり、全員一致の合意を得ることではありません)。しばしば私たちは、「一つの正しい答えがある、あるいは一つの正しい答えを見つけなければならない」といった発想で、独話的な議論を進めようとしていますから、「この全員一致の合意は必要ない」という原則が私たちのあり方にもたらす影響について丁寧に考えるべきかと思います。

関連記事:オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

もし全員が同じ意見をもたないのだとしたら、それでは「一つの心、一つの身体」をもつということ、あるいは心や意識を共有するということはどういうことなのでしょうか。ボームによれば、それはしょせん限定的でしかない意見ではなく、無限定的な真理に目を向けることとなります。そして、真理に目を向けるということは、私たちの前にあるあらゆる意味を連動させるということです。

This sharing of mind, of consciousness, is more important than the content of the opinions. And you may see that these opinions are limited anyway. You may find that the answer is not in the opinions at all, but somewhere else. Truth does not emerge from opinions; it must emerge from something else – perhaps from a more free movement of the tacit mind. So we have to get meanings coherent if we are going to perceive truth, or to take part in truth. That is why I say the dialogue is so important. If our meanings are incoherent, how are we going to participate in truth? (p.40)

意見の中身よりも、心を共有すること、意識を共有することの方が大切です。そもそも意見には限界があることだということはわかっていただけるでしょう。答えは意見の中でなく、どこか他のところにあるのだということもわかっていただけるでしょう。真理は意見から創発するわけではありません。真理はどこか他のところ おそらくは暗黙の心のもっと自由な動きから創発するのに違いありません。だからもし私たちが真理を知覚しようとするなら、言い換えるなら真理に参画しようとするなら、私たちは意味を連動させなくてはなりません。これが対話の重要性を私が訴える理由です。もし私たちの意味が連動していなければ、どうやって私たちは真理に参加するというのでしょう。

ここでボームは真理に参画する (take part in truth) や真理に参加する (participate in truth) といった表現を使っています。こうなると彼の言う「真理」とは何かについても確認しておく必要があるかと思います。次は彼の真理概念について検討してみましょう。



真理 (truth) について

対話は意見ではなく真理を志向するものだとはいえ、それは対話により真理が必ず獲得されるということではありません。対話はまず意味に関わり、意味の連動を目指すものです。その意味の連動が十全になったならば、私たちは真理に近づけるかもしれないというのがボームの考えかと思います。

[Y]ou have to watch out for the notion of truth. Dialogue may not be concerned directly with truth – it may arrive at truth, but it is concerned with meaning. If the meaning is incoherent you will never arrive at truth. You may think, “My meaning is coherent and somebody else’s isn’t,” but then we’ll never have meaning shared. You will have “truth” for yourself or for your own group, whatever consolation that is. But we will continue to have conflict. (p.43)

真理の概念に注目しなければなりません。対話は真理に直接関わっているわけではありません。たしかに対話を通じて真理に到達することはあるかもしれませんが、対話が関わっているのは意味なのです。意味が連動していないなら、決して真理に到達することはできません。あなたは「私の意味は他の意味と連動しているが、あの人の意味は連動していない」と思うかもしれませんが、そう考えているなら意味を共有することができていないのです。もちろん、自分一人のためだけの、あるいは自分の属する集団のためだけの「真理」を得ることはできるでしょう。それはそれなりに嬉しいことかもしれませんが、衝突は起こり続けるでしょう。

しかし、「対話は真理というよりは意味に関わるものであり、すべての意味は連動しなくてはならない」と言われても、そんな対話は雲をつかむようなものにはならないか、それよりもやはり対話は確実な真理 真理ということばが重すぎるなら正解 を目指さなければならないと考える人は多いかと思います。というより、「客観テスト」の制度に組み込まれてしまったような学校教育では、正解にできるだけ短時間に到達することが強調されています。いや、それ以前に、科学や技術は、世界や現象の複合性を真正面にとらえるよりも、世界や現象を限定し単純化して正解を求めることを優先させることを基本戦略としています(もちろんこの基本戦略が徹底されなければ科学も技術も発達せず、21世紀の私たちも中世とほとんど変わらないような思考と生活をしていたことでしょうが)。ともあれ、現代人は、唯一の「正解」を出すことをあまりにも当たり前だと思っています。

自分自身、物理学者であるボームは科学について次のように述べます。

   Science is predicated on the concept that science is arriving at truth – at a unique truth. The idea of dialogue is thereby in some way foreign to the current structure of science, as it is with religion. In a way, science has become the religion of the modern age. It plays the role which religion used to play of giving us truth; hence different scientists cannot come together any more than different religions can, once they have different notions of truth. (p.43)

  科学は、真理に到達できるという概念に基づいています。ですが、その真理は一種独特の真理にすぎません。ゆえに対話の考え方は、ある意味で現在の科学の構造には受け入れがたいものとなっています。また同じように、対話の考え方は宗教にとっても受け入れがたいものです。見方によるなら、科学は現代の宗教になっているともいえます。宗教はかつての私たちに真理を与えてくれましたが、その役割は今や科学が果たしています。かくして、真理について異なった概念を持つ科学者は同席することができなくなっていますが、それは異なる宗教を信じるものが同席できないのとまったく同じなのです。

異なる真理を信じる科学者が同席できなかった例としてボームがあげているのは、晩年のアインシュタインとボーアの例 (p.42) ですが、自然科学の世界でも結構「派閥」のようなものがあると言われています(多くの国際学術誌では、投稿者は自分の論文を査読する人に関して、自分の研究と根本的に相容れない人を選ばないように編集者に頼むことが認められています)。社会科学や人文科学ではいっそうのこと、派閥というか流儀が異なる研究には見向きもしないということも多く見られることです。

しかし科学も本来は対話の精神で行われるべきであり、それでこそ科学も発展するとボームは言います。

If scientists could engage in a dialogue, that would be a radical revolution in science – in the very nature of science. Actually, scientists are in principle committed to the concepts involved in dialogue. They say, “We must listen. We shouldn’t exclude anything.” (p. 44)

もし科学者が対話を行うことができたなら、それは科学の根底的な革命となるでしょう 科学の本質に即した革命です。実際、科学者は原則として対話の概念に賛同しています。科学者は「私たちは傾聴しなければならない。どんなことも排除してはならない」と言っています。

とはいえ、なかなか対話ができないのが科学の現実だということをボームは認めます。そこには、「私たちは科学によって真理を獲得できる」や「私たちは思考によってすべてを知りうる」といった科学の前提があるとボームは考えています。

   However, they find that they can’t do that. This is not only because scientists share what everybody else shares – assumptions and opinions – but also because the very notion which has been defining science today is that we are going to get truth. Few scientists question the assumption that thought is capable of coming to know “everything.” But that may not be a valid assumption, because thought is abstraction, which inherently implies limitation. The whole is too much. There is no way by which thought can get hold of the whole, because thought only abstracts; it limits and defines. (p.44)

   しかし科学者は対話ができないことに気づきます。これは、科学者が誰もが有しているもの 思い込みと意見 を有しているからというだけではありません。もう一つの理由は、今日の科学を規定している考え方が、私たちは真理を獲得するというものだからです。思考によって「すべて」を知るに至ることができるだろうという私たちの思い込みを疑う科学者はほとんどいません。しかしこの思い込みは妥当ではないかもしれません。なぜなら思考とは抽象であり、抽象は本質的に限定することだからです。全体はあまりにも大きなものです。思考が全体を捕捉することなどできはしません。思考は抽象するだけだからです。思考は限定し定義するものなのです。

思考とは抽象であり、全体あるいは真理を限定し定義しているにすぎないという考え方は、思考は必然的に事象の断片化 (fragmentation) を行っているという洞察に至ります。対話によって、複数の思考を共存させ、その間に意味の動きをもたらすことにより、この断片化の弊害を少しでも減らそうというのがボームの考えかと思われます。

I’ll try to give some examples of the difficulty in thinking, in thought. One of these difficulties is fragmentation, which originates in thought – it is thought which divides everything up. Every division we make is a result of how we think. In actuality, the whole world is shades merging into one. But we select certain things and separate them from others – for convenience, at first. Later we give this separation great importance. (p.10)

考えること、思考の困難点の例のいくつかをあげてみたいと思います。困難点の一つは断片化ですが、これは思考に端を発するものです。思考こそがすべてを分割してしまっているのです。分割は私たちの思考の仕方によって生じるものです。現実においては、世界のすべては一つに融け合うさまざまな濃淡にすぎないのです。しかし私たちはあるものを選び出し、それを他のものから分離します。その分離は、最初は便利だから行っているのですが、後々、私たちはこの分離がとても重要なものだと考えます。

この文章を書いている私も読んでいる皆さんも、もちろんことばの意味とそこから導き出される思考を、他の文章から導き出される思考と区別して考えています。ボームの意味論と情報伝達的な意味論は区別されます。しかし、異なる目的のために異なる見方をすればそれらの区別はどうでもいいものとなり、何か他の区別の方が重要になってきます。しかし、そういった生活上の便益とは無関係に、ある区別に固執してしまうなら、私たちの思考は、世界をそして私たちを分割し断片化してしまい、物事もうまく進まなくなってしまうでしょう。思考する生き物として、私たちが世界を断片化することは必定ですが、特定の思考・断片化にこだわらず、思考・断片化を使い分けつなぎあわせて世界の全体性と連動性を少しでも理解しようとすることが対話の目指すことかとも考えられます。

もちろん、真理 (truth) や全体 (the whole) をこのように人間には把握不可能な超越的な概念としてしまわない真理概念や全体概念もあるでしょう。真理や全体を神の視点から考えずに、私たちの日常生活から考える意味論は例えばレイコフにも見られます。

ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店

しかし、ここではもちろん「どちらの真理概念が真理なのだ!?」と声を荒げるのではなく、これら二つの真理概念の区別を理解した上で、これらを私たちの目の前の課題に対してうまく活用できるように、これら(およびこれらと関わる他のすべての区別)の連動性を重視するように私たちは心がけるべきでしょう。



決めつけないこと (to suspend)

全体の断片化である思考によっては、(超越的な)真理を把握できないとすれば、私たちがなすべきことは、どんな考えや思い込みや意見に対しても正しい(あるいは間違っている)と決めつけてしまわないことでしょう。もちろん、繰り返しますが、日常的な状況や、限定的な問題空間を設定した場合においては、「これは正しい(あるいは間違っている)」と結論づけてよいことはたくさんあります。そのように結論づけてこそ、私たちは日常生活を送れるのであり、現在のように科学に基づいた技術を謳歌しているわけです。しかしその日常的な状況が少しでも変わった場合や、限定的な問題空間から排除されていた事象が看過できなくなった場合は、私たちはこれまで「正しい」(あるいは間違っている)と決めつけていた考えや思い込みや意見をそのように決めつけることを中止することを学ばねばなりません。

これがボームのいう “to suspend” です。この語は翻訳書では「保留状態にする」と訳されていますが、私としてはより日常的な日本語に近い「決めつけない」と訳してみることにしました。この語を、「エポケー」との親近性から「判断停止・判断中止」と訳すこともできますが、博学多識のボーム自身が「エポケー」について言及していないことから、ここではそう訳さず、親近性についてだけ言及しておくことにします。


この「決めけないこと」についてボームは次のように説明しています。

We have been saying that people in any group will bring to it their assumptions, and as the group continues meeting, those assumptions will come up. Then what is called for is to suspend those assumptions, so that you neither carry them out nor suppress them. You don’t believe them, nor do you disbelieve them; you don’t judge them as good or bad. Normally when you are angry you start to react outwardly, and you may just say something nasty. Now suppose I try to suspend that reaction. Not only will I now not insult that person outwardly, but I will suspend the insult that I make inside of me. Even if I don’t insult somebody outwardly, I am insulting him inside. So I will suspend that, too. I hold it back, I reflect it back. You may also think of it as suspended in front of you so that you can look at it – sort of reflected back as if you were in front of a mirror. In this way I can see things that I wouldn’t have seen if I had simply carried out that anger, or if I had suppressed it and said, “I’m not angry” or “I shouldn’t be angry.” (pp.22-23)

これまでどんな集まりにも人々は自分の思い込みをもちこんでしまうことについて述べてきました。集まりが続けば、それぞれの思い込みはどうしても姿を現してきます。そこで必要になってくるのは、これらの思い込みについて決めつけないことです。思い込みに基づいた実行をしてしまうのでもなく、思い込みそのものを抑圧してしまうのでもないようにすることです。思い込みが正しいとも誤っているとも思い込まないのです。思い込みを良いとも悪いとも判断しないのです。私たちは普通、怒るとその反応を外に表し、なにかひどいことを言ったりします。ここで私がその反応を当然だと決めつけないようにすると仮定してみましょう。私は怒った相手に対して外面的に罵ることはしません。しかしそれだけでなく、私は自分の内面でおこなう罵りについても、心の内なら罵っても当然だと決めつけないのです。私たちは怒った時は、誰かを表立って罵らずとも、心の内では罵っているものです。しかしこの心の内の罵りについても当然のことだと決めつけないのです。決めつけることを自制し、決めつけようとする自分について振り返るのです。あるいは、決めつけようとしたことを自分の目の前に置いて見つめるといったように思ってくださってもいいでしょう。鏡の前に立って自分の姿を映し出すようなものです。このようにすれば、私が怒りを単に外に出した時や、反対に怒りを抑圧して「自分は怒ってなんかいない」とか「怒ってはいけない」と心のなかでつぶやいた時には見えなかったことが見えてくるでしょう。

価値判断をせずに、心の内外で起こることをただ観察するという実践は、仏教や武術の世界でもしばしば勧められますが、ボームもこれを対話で行うべきこととして勧めています。「これは当然こうだ!」と決めつけずに、他人や自分に生じていることを観察してみると、他人の表情や自分の胸の内の動揺などの変化からさまざまなことがわかってきます。これらの変化は、ある発言が、それまで表に出ていなかった他人や自分の思い込みを顕にしたのですから。そうやってさまざまな思い込みの存在を知り、かつ、そのどの思い込みもそれなりの正しさをもち、他のすべての思い込みと連動的に考えるべきなのだと自分に言い聞かせるなら、私たちも物事の意味がわかってくるといえるでしょう。

Therefore, you simply see what the assumptions and reactions mean – not only your own, but the other people’s as well. We are not trying to change anybody’s opinion. When this meeting is over, somebody may or may not change his opinion. This is part of what I consider dialogue – for people to realize what is on each other’s minds without coming to any conclusions or judgments. Assumptions will come up. And if you hear somebody else who has an assumption that seems outrageous to you, the natural response might be to get angry, or get excited, or to react in some other way. But suppose you suspend that activity. You may not even have known that you had an assumption. It was only because he came up with the opposite one that you find out that you have one. You may uncover other assumptions, but we are all suspending them and looking at them all, seeing what they mean. (pp. 23-24)

ですから、ただ単に思い込みと反応の意味を理解するのです。自分の思い込みと反応だけでなく他人の思い込みと反応の意味も理解します。私たちは誰の意見も変えようとはしません。集まりが終われば、誰かは意見を変えるかもしれませんし変えないかもしれませんが、それでいいのです。これが私の考える対話の一側面です 対話によって、人々は結論を出したり判断をしたりすることなく、それぞれの心のうちに何があるかを実感するのです。思い込みは姿を現してきます。あなたにとってはひどいとしか思えないことを誰かが口にするのを耳にした時、私たちは普通でしたら怒ったり興奮したりといった反応をするでしょう。しかし、ここでそういった過程が当然だと決めつけないようにしたらどうなるでしょうか。自分が気づいていなかった思い込みに気づくかもしれません。他人が真逆の思い込みを口にしてくれたからこそ、自分の思い込みに気づくことができるのです。他の思い込みについても明らかになるかもしれません。ですが、私たちはそれらすべてについて決めつけないようにして、それらを見つめ、それらが意味することを理解するのです。

こうして対話のすべての参加者が、決めつけることを止め、対話が進行するにつれ自他の心身に生じる現象を観察し、その意味を理解しようとするなら、人々の話し合いは葛藤と欲求不満の場ではなくなり、共に洞察を深めてゆく場となるでしょう。これは参加者全員が聖人になるということを意味しているのではありません。誰も、さまざまな意見が出てくるにつれ、喜怒哀楽の感情あるいはそこまではっきりしていない情動の変化を覚えます。決して情感(=情動と感情)から解脱した聖人になるわけではないのです。しかし、対話の参加者は、情感の変化に無自覚にその情感に一体化してしまうのでもなく、またその情感を否定して抑圧してしまうのでもなく、情感の変化を冷静に観察し、そこに隠れていた思い込みを見出し、その意味合いを理解しようとするのです。そうなれば、どんな人も否定され排除されるべき存在ではなく、共に、人間には把握不可能な真理(あるいは複合的な世界)を理解しようとしている朋友であることが実感できるのだと思います。

   So the whole group now becomes a mirror for each person. The effect you have on the other person is a mirror, and also the effect the other person has on you. Seeing this whole process is very helpful in bringing out what’s going on, because you can see that everybody’s in the same boat. (p.23)

   かくして集まり全体が今や、各人にとっての鏡となるのです。あなたが他人に生じさせる結果は鏡ですし、他人があなたに生じさせる結果も鏡なのです。対話で生じていることを明らかにするには、対話の集まりが各人の鏡となっているこの過程全体を観察することがとても有効です。この観察によって、誰もが同じ船に乗っていることが理解できるからです。

「誰もが同じ船に乗っている」ということは、対話の参加者が「共通の意識」 (a common consciousness) をもつということです。これは参加者が、上で述べた「一つの身体、一つの心」 (one body, one mind) になるということですが、これは必ずしも常に快適なものではないとボームはここで強調します。ボームは、楽園的幻想を語っているわけではないのです。自分の身体や心の状態を思い起こしてみれば、それが常に愉悦にみちたものではないことは明らかでしょう。ある部位が痛めば私の心もその部位と共に痛み、ある悩みを抱えれば私の身体もその悩みとともに苦しむというのが「一つの身体、一つの心」というものでしょう。対話に参加する人々が共通の意識をもつというのもそういうことです。

   If we can all suspend carrying out our impulses, suspend our assumptions, and look at them all, then we are all in the same state of consciousness. And therefore we have established the thing that many people say they want – a common consciousness. It may not be very pleasant, but we have got it. People tend to think of common consciousness as “shared bliss.” That may come; but if it does, I’m saying that the road to it is through this. We have to share the consciousness that we actually have. We can’t just impose another one. But if people can share the frustration and share their different contradictory assumptions and share their mutual anger and stay with it – if everybody is angry together, and looking at it together – then you have a common consciousness. (p.38)

   もし私たちが皆、自分の衝動や思い込みを当然だと決めつけることなく、それらすべてを見つめることができるなら、私たちは同じ状態の意識にいることになります。ということは、私たちは多くの人々が望んでいると言っているものを確立したということになります。それは共通の意識です。共通の意識は非常に快適なものとはいえないかもしれません。しかしそれを手に入れたのです。共通の意識は、しばしば「共有された至福」であるように思われています。そういった至福は到来するかもしれません。しかしたとえそれが来るにせよ、それに至る道は、共通の意識を通じてのことであるということを私は強調したいのです。私たちは、私たちが現実にもっている意識を共有しなければならないのです。新しい意識を上からもってくるわけにはいかないのです。しかし、もし私たちが対話から生じる欲求不満と相異なり矛盾しあう思い込みを共有し、お互いに対する怒りも共有しながらもその怒りを行動に変えることもなく抑圧することもなければ、つまりもし全員が一緒に怒り、その怒りを一緒に見つめることができれば、その時私たちは共通の意識をもつのです。

理想の私たちではない現実の私たちは、権力関係の中に絡め取られ否定的な感情もしばしばもちます。しかし、それらを当然と決めつけることなく、それらとそれらから生じる反応を冷静に観察するなら、私たちは相互に助け合いながら自己洞察を深める友となり、共に知性を発揮できるようになります。

If people could stay with power, violence, hate, or whatever it is, all the way to the end, then it would sort of collapse – because ultimately they would see that we are all the same. And consequently they would have participation and fellowship. People who have gone through that can become good friends. The whole thing goes differently. They become more open and trusting to each other. They have already gone through the thing that they are afraid of, so the intelligence can then work. (p.38)

もし私たちが、自分たちの中にある権力や暴力や憎しみやその他もろもろを暴発させることも抑圧してしまうこともなく、最後まで冷静に観察することができたなら、それらは崩壊するでしょう。なぜなら、私たちは皆同じであることが最後には理解できるからです。そこで参加意識と同胞意識が芽生えます。この過程を経た者はよき友人となれます。すべてが変わってきます。お互いに対してより開かれ、より信頼するようになります。怖れていたことを既に経験した今、知性が働き始めるのです。



要点

以上で、ボームの対話論のまとめの二つ目です。長くなりましたので、要点を以下に箇条書きにします。


A 感受性 (sensitivity) について
A1: 感受性とは、私たちの身体の内外で何が起こっているかを注視することである。 (p.45)

A2: 感受性は私たちの身体の内外で何が起こっているかを感覚でとらえ、その感覚から意味を創り出す。 (p.46)

A3: 意味とは、私たちの身体の内外で起こっていることのまとめである。(p.46)

A4: 意味が共有され始めると、私たちは自分の心の中だけでなく、その場で起こっているあらゆることに対する感受性を高め、連動的に語り合えるようになる。(p.46)

A5: 意味が共有された集団は、「一つの身体」のようになり、すべての人々の全身が互いに影響を与えるようになる。それは「一つの心」とも呼べる。(pp.36-37)

A6: 「一つの心」とは、集団が個々人に一つの特定の意見を押しつけることではない。(p.40)

A7: 「一つの心」において、全員が納得して同じ見解に到達する必要はない。(p.40)

A8: 意味を連動させることによって初めて、私たちは真理に近づく営みに参加・参画することができる。(p.40)

 
B 真理 (truth) について

B1: 意味が連動するのは対話を通じてであるから、対話を通じて私たちは真理に近づくことができる。 (p.43)

B2: しかし対話が直接的に関わっているのは意味である。(p.43)

B3: 自分の意味は他と連動しているが、あの人の意味は他と連動していないと考えるなら、それは自分だけの(偽りの)「真理」を得たと思っているだけであり、他人との衝突は起こり続けるだろう。(p.43)

B4: 一般的には科学こそが真理への道だと思われているが、科学が到達できる真理は一種独特の(限定的な)真理にすぎない。(p.43)

B5: 科学の真理が限定的なものであることを自覚できない人々にとっては、対話の考えは受け入れがたいものである。(p.43)

B6: かつては宗教こそが真理の担い手だと思われていたが、今は科学こそが真理の担い手だと多くの人々は思っている。(p.43)

B7: しかし、科学の本質に立ち戻るなら、科学者も対話を行わなければならない。(p.44)

B8: とはいえ、科学者にとって対話は困難であるが、それは科学者が思い込みや意見をもっているだけでなく、「科学はやがて真理を獲得できる」ということを科学の定義としているからである。(p.44)

B9 しかし科学も思考によって行われ、思考は抽象化によって、事象を限定し定義するものだとすれば、科学がすべてを知りうるとは考え難い。(p.44)

B10: 思考は、本来は渾然一体となっている世界を断片化することによって成立している。(p.10)


C 決めつけないこと (to suspend) について

C1: 対話を行えば、さまざまな思い込みが姿を現してくるが、それらの思い込みに関して決めつけてはならない。 (pp.22-23)

C2: 決めつけるとは、思い込みを正しい・良いとしてその思い込みに基づいて行動を展開したり、思い込みを誤っている・悪いとしてその思い込みを抑圧したりすることである。 (pp.22-23)

C3: 決めつけないとは、例えば誰かに対して怒りを覚えた時に、自分の中に生じたその「怒って当然だ」という思い込みを正しいものとして外面的に罵りもしないし、その思い込みが悪いものだとして内面的な罵りを抑圧することもしないことだ。 (pp.22-23)

C4: 決めつけることを自制し、決めつけようとしている自分を振り返ると、これまで見えていなかったことが見えてくる。 (pp.22-23)

C5: 私たちは決めつけずに、思い込みと思い込みから生じる反応のすべての意味を理解しようとしなければならない。(pp. 23-24)

C6 たとえ怒りといった反応からでも、それに関する決めつけをせずにそれを冷静に観察するならば、自分がこれまでにあまり気づいていなかった思い込みに気づき、その思い込みが意味することも理解できるようになる。(pp. 23-24)

C7: 対話の進行につれ生じる心身の反応に対する感受性を高めた参加者による集まりは、各人にとってのいわば鏡となり、各人に自他に関する洞察を与えてくれる。(p.23)

C8: 参加者全員が、自他の意見についての決めつけをやめ、すべての思い込みの意味を理解しようとするなら、私たちは「共通の意識」を得たことになる。(p.38)

C9: しかし共通の意識は、私たち一人一人がもっている現実の意識によって創られるものであり、共通の意識では私たちが経験する欲求不満や怒りなども共有されなければならない。(p.38)

C10: 私たちが自分たちの中に生じる否定的な衝動すらも冷静に観察することができるなら、私たちには参加意識と同胞意識が芽生え、否定的な衝動も消えるだろう。

C11: このように苦しい対話の過程を経た人々は、もはやお互いの相違を恐れることなく、お互いに対して開かれ、信頼しあう友人となり、共に知性を働かせることができる。(p.38)


私自身も一人の教師、研究者、あるいは私人として様々な人と語り合っていますが、それらの語り合いが必要に応じてボームの言うような意味での「対話」となるように、これからも努め、その努力の過程での成功や失敗からさらに対話について学んでゆきたいと思います。

長い記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



追記
上で、ボームの言う「真理」 (truth) は基本的に人の手に届かないものだと説明してきましたが、下の説明からは真理を得ることは必ずしも不可能ではないとボームは考えているようです。ただし、真理への到達が、多くの人に思われているような容易なことでは決してないことは明らかです。

The object of a dialogue is not to analyze things, or to win an argument, or to exchange opinions. Rather, it is to suspend your opinions and to look at the opinions – to listen to everybody’s opinions, to suspend them, and to see what all that means. If we can see what all of our opinion mean, then we are sharing a common content, even if we don’t agree entirely.  It may turn out that the opinions are not really very important – they are all assumptions. And if we can see them all, we may then move more creatively in a different direction. We can just simply share the appreciation of the meanings; and out of this whole thing, truth emerges unannounced – not that we have chosen it. (p.30)

対話の目的は、物事を分析することでも、論争に勝つことでも、意見を交換することでもありません。そうではなく、対話とは、自分の意見を正しいと決めつけることなく見つめ、すべての人の意見についても決めつけることなく耳を傾け、自他のすべての意見が意味していることを理解することなのです。もしすべての意見が意味することを理解できたなら、私たちは、たとえ全面的に同意できなくても、共通の内容を共有していることになります。そもそも意見はそれほど重要でないことがわかるかもしれません。意見とは思い込みにすぎないのですから。すべての意見を理解できるなら、私たちは、これまでとは違った方向に、より創造的に動くことができるでしょう。私たちは、意味の体感をただ単に共有できるのです。そこから、すべてが、つまり真理が予告なしに現れてくるのです。私たちが真理を選びとったのではありません。








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