2017年9月29日金曜日

新井紀子 (2010) 『コンピュータが仕事を奪う』 日本経済新聞出版社



以下の記事は、学部一年生のための授業(「英語教師のためのコンピュータ入門」)のための資料として作成したものです。



数学者であり、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトのディレクタも務めた著者によるこの本は、本質的な議論を提示しているため、出版から少したった今でもまったくその意義を失っていません。ここでは私なりにこの本をまとめ、私なりの意見を補いました。Qはそのまとめに関連しての私なりの皆さんへの問いかけです。

学生の皆さんはこの本のように読者に考えることを促す良書を、ぜひ自ら手にとって読んでください。下にも書きますように、私達にはある種の情報だけに還元できない「意味」を理解することがこれからますます必要になってくるわけですから



■ ホワイトカラー(知的労働者)は上下に分断される

すでに機械化が進んでいる第一次・第二次産業と、身体性が不可欠な一部の第三次産業(例えば、看護師・保育士・介護福祉士など、俳優や接客業)はこれからそれほどコンピュータやロボットといった人工知能 (以下、AI) に仕事を奪われることはないかもしれない(もちろん一部の業務は AI に取って代わられるだろうが)。だが、ホワイトカラー(知的労働者)の知的作業の多くは AI に代替されるだろう。その結果、知的労働は、AIには代替困難でありかつ人間でも一握りしかできない高度に知的な仕事をする少数の人々と、AIでは難しいが人間なら誰でもできる単純な仕事をする大多数の人々の上下に分断されるだろう (p.191)

Q これからは「AIで代替可能かどうか」という区別が重要になると考えられるが、皆さんがこれまでにつけて来た学力はその区別でいうならどちらに属するのだろうか?


■ 下層に追い込まれた知的労働者は、「セマンティックギャップ」という AI が苦手とする問題の間隙をついて単純な画像認識などをひたすらやり続けるようになるかもしれない

ある写真がデータとして提示された場合、コンピュータはそれを0と1のデジタル記号列に還元して処理するが、そこに何が写っているか --(単純なレベルでの)「意味」、ルーマンの用語でいうなら現実性 (Akutualität, actuality) -- を理解することは現時点では困難である(意味の可能性 (Potentialität, potentiality / Möglichkeit, possibility)  を理解することはさらに困難である)。これを「セマンティックギャップ」というが (p.105) 、このセマンティックギャップのため、現時点でのAIはある画像の中に猫がいるかいないかだけを判定することはできても、その画像の中にある対象を列挙すること(例えば、猫、テレビ、ソファ、カーペット、人形、赤ん坊、ぬいぐるみ等など)はかなり難しい。

関連記事(学部一年生には少し難しいかもしれませんが、よかったら読んで下さい)。
「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/no19-pp7-17.html

したがって大勢の人間を非常に安い賃金で雇って、データのタグ付け (この写真にあるものは「猫」、「テレビ」、「ソファ」・・・といった判断) をさせる仕事が現時点ではAIに代替できない仕事の一つとして考えられる。 (p.110) だが、この仕事は人間ならほぼ誰でも容易にできる仕事なので、こういった労働の賃金は世界の最低賃金まで下がってしまうだろう。さらに、現在でも例えばSNSの利用者が掲載する写真にタグを自発的につける習慣を奨励することによって、こういった労働は実質上無料で行われている (SNSの利用者にはその自覚は乏しいだろうが)。

Q 皆さんがウェブに何かの情報を入力するとき、その情報はビッグデータの一部として企業に使われ、ビッグデータを有する企業はますます力をもつようになるということを自覚しているだろうか?

また、上では意味の深層(可能性)を理解することはAIには困難と書いたが、意識の数学モデルは例えば統合情報理論といった形で提案されている以上、深い意味理解は AI には永遠に無理とまでは断言できない(とはいえ、ナッシュ均衡点が概念化されてもそれを計算で求めることが一般的には不可能といった例からもわかるように、数学的に「存在する」ということと「計算して、それを手に入れることができる」ということは、まったく別物である (p. 33)  ことからすれば、AI が深い意味理解をすることは事実上はできないという可能性もある)。

関連記事(これもまだ少し難しいかもしれませんが・・・)
意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/blog-post_9.html



■ AI に代替されにくい知的仕事は、文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を駆使することで達成できる仕事である (p. 191)

知的労働者として生き残る少数の人々は、AI が苦手とする文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を駆使することによってしかできない仕事をせざるを得ないだろう。

だが、これらの能力は現在の日本の学校教育で十分に培われているかは疑わしい。例えば数学でも、実際に数式の意味を考えたりすることなく、手続き(解法)の暗記とパターン認識(「あ、この問題はこの解法を使う問題だ」)だけで高得点を取っているだけの生徒は多い (p.204)  --私も実際にこういった「元理系」の学生さんには数多く出会っています--。

だからこそ文部科学省も「思考力・判断力・表現力」や「アクティブラーニング」を推奨しているのだろうが、教員自身が暗記とパターン認識だけに優れていただけの人々で、かつ、職場でも自ら考えることなく忠実に与えられた数値目標を達成することばかりが求められているのだとしたら、学校教育で文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を養成することは容易なことではないだろう(教員養成の大学課程と教育行政のあり方に抜本的な改革 --というより考え方・行動様式の変革--が必要だと私は考える)。

Q 皆さんは、実際の生活の中で「文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を駆使すること」に長けているだろうか?



■ 抽象(化)能力

話をAI では代替できない仕事に話題を戻すなら、とりわけ重要なのが、モデルを構築するための抽象(化)能力であり、現実世界の具体とモデルの抽象を行き来できるコミュニケーション能力であろう。

新井先生は抽象能力(私の語感でしたら「抽象化能力」と呼びたいので以下「抽象(化)能力」とします)を「誰もが暗黙のうちに知っているけれども言語化されていない何かを取り出して言語化する能力」と定義します。(p. 55)  抽象(化)能力はAIで代替することがきわめて困難だろうと考えられている。AIは、限られた枠組み(フレーム)における計算は得意だが、予め枠組みが与えられていない状態から新たに枠組みを発見的に創造することはきわめて苦手としている。(p. 55)

Q しばしば試験対策は得意だが、自ら問題を発見し、その問題に対する考え方を自ら設定し、自分なりに解答を出すこと --つまりは論文執筆-- が圧倒的に苦手な学生さんがいる。皆さんはどうだろうか?


■ 英語ではなく、数学をベースにした科学技術言語がこれから大切

ぼんやりとした感覚を言語化して、そこに構造を見出し、数学的に表現してプログラミングをし、さらに商品開発するという過程のでのコミュニケーションが重要になってゆく。ぼんやりとした感覚をぼんやりと表現するだけでは経済的競争力にはつながらない。以下は、新井先生のことばの引用

「単に流暢な英会話ができたとしても、国際社会を生き抜けるわけでも尊敬を集められるわけでもありません。実はそこで語られているのは、数学をベースにした科学技術言語なのです。そのことを日本人はもっと自覚すべきでしょう。」 (p.60)

Q このことばを未来の英語教師としてみなさんはどう受け止めるだろう?


■ だが現在の多くの学校では、児童・生徒は空気を読み、考えずに解法パターンを暗記することばかりを覚えている。


現代日本の学校では、児童・生徒は、周りの空気や教師の意図を巧みに読んで無難に過ごすことばかりを学んでいるのではないか。教科の勉強でも根源的な「なぜ?」およびその疑問の言語化はひたすら避け、解法パターンを暗記し適用することばかりが奨励されていないだろうか? (p.204)

Q この観点から、皆さんのこれまでの学校生活を振り返ってみよう。



■ 意味に耳を澄ます


AIの台頭といった状況を受けて、新井先生は最終ページで次のようにこの本をまとめる。

「結局のところ、教師と子どもは、互いに対して耳を澄ますことで(形式ではなく)意味をわかりあったほうが、遠回りのように見えて、結局は早道だということです。そして、その「耳を澄ます」という能力こそが、結局のところ、コンピュータに対して、私たち人間が勝てる分野なのです。
医者も教育者も研究者も、商品開発者も意味も編集者も、公務員もセールスマンも、耳を澄ます。耳を澄まして、じっと見る。そして、起こっていることの意味を考える。それ以外に、結局のところ、コンピュータに勝つ方法はないのです。」 (p. 218)

Q およそ理詰めで考えることを得意とする新井先生が、最終段落でなぜ「耳を澄ます」といった比喩を使っているのだろう?そもそも皆さんにはこの比喩の意味はわかるだろうか?



関連記事(必読):
AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?
https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20161114-00064079/

広報誌「国立大学」Vol.46 (2017年9月):特集 AI・ロボット
http://www.janu.jp/report/files/janu_vol46.pdf



参考:この本で紹介されていたサイトの一つ
Wolframapha




 












0 件のコメント: